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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第17話 干渉しない葛藤

 温室の硝子を透かして降る月光は、鋭利な刃物の冷たさを孕んでいた。

 王立学園の隅に押し込められた薬草園。

 その湿り気を帯びた空気の層を、レオン・ノワールクールは肺の奥へと押し込む。


 微かに残る、爆ぜたばかりの青い草の匂い。

 それは鼻腔の粘膜を刺激し、喉の奥をざらりと撫でていく。

 つい数分前まで、確かにこの場所に、ひとりの少女が存在していたという重たい余韻。


 視界の端、作業台の上に置かれた乳鉢が、月光を浴びて白磁の肌を晒している。

 縁に残された濃緑色の飛沫。

 それはまだ完全に乾いておらず、粘度を保ったまま、重力に従って緩やかに内側へと垂れていた。


 合理的に磨り潰された薬草の断骸。

 その一滴が、この場所にいた者の徹底した生存本能を物語っている。

 レオンは、作業台の端に右手を置いた。


 指先が古びた木材の乾いた質感に触れる。

 一瞬遅れて、吸い込まれるような木の冷たさが皮膚の表面から神経へと伝わった。

 力を込める。


 ミ、シ……。

 指の骨を通じて、木材が軋む微細な振動が手首まで届く。

 彼女がここにいた。


 暗い色のローブを夜風に躍らせ、平民のための解毒剤を、迷いなく調合していた。

 その背中が、完全な闇の中に輪郭を溶かして消えていく瞬間を、彼は網膜の裏側に焼き付けていた。

 呼吸を止める。


 静寂が、鼓膜を物理的な厚みを持って圧迫し始める。

 なぜ、彼女はあのような顔をしたのか。

 見つかった瞬間に見せた、絶望を受け入れたような、けれどどこか清々しい透明な瞳。


 レオンは、自分の指先が微かに震えていることに気づく。

 寒さのせいではない。

 彼の内側にある「知っているはずの世界」が、音を立てて歪み始めていることへの抵抗だった。


 ***


 コン、コン、コン…………。

 等間隔に刻まれる硬い音。

 ヴァルモン公爵邸の自室、その厚い石壁に囲まれた空間に、乾燥した打撃音が反響している。


 マホガニーの机。

 その磨き上げられた天板を、私の右手の人差し指が規則正しく叩いていた。

 指先の腹が硬い木面に衝突するたび、小さな衝撃が腕の筋肉を伝い、肩の奥を強張らせる。


「あっ…………」

 左手で、暴走する右手を上から強く押さえつけた。

 自分の指の熱が、冷え切った手の甲に伝わる。

 呼吸が浅い。


 肺が十分な空気を取り込めず、胸の奥に薄い氷の膜が張ったような感覚。

 前世。

 血と泥に塗れた野戦病院。


 不測の事態。

 予定が崩れ、死が指先に触れた時にだけ出ていた、私の呪い。

 学園から帰宅し、重たい夜会のドレスを脱ぎ捨ててからも、身体は解放を拒んでいた。


 薄い室内着越しに、背筋を這う冷気が肌を刺す。

 脳の裏側を、黒いタールのような不透明な何かがじわじわと侵食していく。

 視界が狭まる。


 昨夜の温室。

 レオン・ノワールクール。

 彼の、すべてを剥き出しにするような、静謐な視線。


 悪役令嬢として、平民を排斥し、孤独を深めることが私の職務であったはずだ。

 深夜に独り、彼らのための薬を調合するなどという矛盾。

 それを、よりによって物語の「観測者(イレギュラー)」である彼に。


 今日一日。

 学園の時計塔が時を刻む音は、いつもよりずっと重く響いていた。

 アルベール殿下。

 ステラ。


 彼らの笑顔も、私への嫌悪も、すべてが既定路線の上にあるはずだった。

 だが、レオンが誰かに語った気配はない。

 それが、逆に恐ろしい。


 胃の底が、じわりと冷たくなっていく。

 未消化の夕食が、重鉛に変わって内臓を押し下げているような感覚。

「なぜ…………何も、言わないのよ…………」


 机に顔を伏せる。

 腕に押し当てられた額から、自分の脈動が伝わってくる。

 ドクン、ドクンと、身体が「生きている」ことを強制的に主張してくる。


 この世界。

 乙女ゲームエトワール・ドゥ・リュミエールという名の、完成された檻。

 私はその全貌を俯瞰し、一コマ一コマを「知っている」という万能感の中にいた。


 アルベール殿下の独善的な正義。

 ステラの、危ういほどの白。

 私が悪役を全うすれば、彼らの愛という名の構図は完成する。


 それこそが、私の贖罪であるはずだった。

 なのに。

 レオン・ノワールクール。


 彼だけが、私の綴った脚本の余白に、勝手にインクを零していく。

「あなたは――私の知らない人」

 震える唇から漏れた言葉が、机の硬い面に反射して、自分の耳に異物の音として届いた。


 彼が望めば、私の仮面は一瞬で砕け散る。

 私が積み上げてきた絶望は、彼の指先ひとつで瓦解するのだ。

 生殺しの状態。


 沈黙という名の重力が、私の肩に伸しかかる。

 喉の奥に、言葉にならない何かが凝固して、嚥下を拒んでいた。

 けれど。


 その、身体を震わせるほどの恐怖の、さらに深層。

 自分でも認めがたい場所で、小さな熱が脈打っていることに気づいてしまう。

 それは、猛毒の中に混じった一滴の聖水。


『彼だけが、見つけてくれた』

 その思いが浮上した瞬間, 指先が痺れるような感覚に襲われた。

 皮膚の表面を、微細な電流が駆け抜けていく。


 誰からも愛されず、誰の記憶にも善き者として残らず。

 ただ物語の供物となって退場する。

 そう決めて、心を幾層もの氷で閉ざしたはずなのに。


 彼に見透かされた瞬間。

 私が、ただ怯えているだけの不完全な器であることを知られた瞬間。

 凍りついていた心臓が、痛みを伴って拍動を速めた。


 安堵。

 それは、最悪の裏切りだ。

「…………ダメ。私は、透明な記録者でなければならないのに」


 顔を上げ、自分の両腕を抱きしめる。

 指が、上腕の肉に食い込む。

 爪が皮膚を押し込む痛みが、思考を強引に現実に引き戻す。


 私が彼に寄りかかってしまえば。

 その、深い夜のような瞳に救いを見出してしまえば。

 この物語の美しさは、決定的に汚染される。


 殿下も。

 ステラも。

 私の家族さえも。


 彼らを完璧な幸福へと導くためには、私は泥の中に沈まなければならない。

 誰かに、本当の姿を見せていいはずがない。

 私は、立ち上がる。


 椅子が床を擦り、乾いた悲鳴を上げた。

 膝が、一瞬だけ重力に抗うことを忘れたように沈み込む。

 足の裏が絨毯の繊維を掴み、ふくらはぎに力を込めて、ようやく姿勢を固定した。


 月明かりに照らされた、大きな姿見。

 そこに映る自分を見つめる。

 蒼白な肌に、冷徹な紫水晶の瞳。


 震える両手で、自分の頬を叩いた。

 乾いた音が、部屋の空気を裂く。

 熱を帯びていく頬の感覚。


 口角を上げる。

 数ミリ。

 さらに数ミリ。


 頬の筋肉が、無理やり引き上げられることに抵抗し、微かに痙攣する。

 瞳から、不純な光をすべて削ぎ落とす。

 非の打ち所のない悪女の顔を、一枚ずつ貼り付けていく。


「明日もまた、完璧な笑顔を被るの」

 鏡の中の自分に、言い聞かせる。

 声が、冷たく、硬い響きを取り戻していく。


 彼がどれほど私を観察しようとも。

 私が、この世界の枠組み(フレーム)の外側へ逃げ出すことはない。

 たとえ、内臓が恐怖で裏返ろうとも。


 鏡の中の女は、笑っていた。

 誰の視線も届かない、暗い部屋の中で。

 孤独な舞台を全うするために、彼女は笑顔を固定し続ける。


 指先はまだ、かすかに震えていた。

 けれど、彼女はそれを、重厚なカーテンの裏へと隠した。

 夜が更ける。


 窓の外。

 遠く、レオンが見ているであろう月が、静かに天頂を過ぎようとしていた。

 ふたりの間に横たわる、決して触れることのない距離。


 それは、冷たい硝子の壁。

 見えているのに、触れようとすれば掌が冷たさに弾かれる、不可視の境界線。

 彼女は、その境界線のこちら側に、自分のすべてを閉じ込めた。


 呼吸が、ようやく一定のリズムを刻み始める。

 けれど、それは静謐な平穏ではない。

 いつ壊れるかわからない、薄氷の上を歩き続けるための、命懸けの均衡だった。


 夜の帳が、公爵邸を深く飲み込んでいく。

 彼女の孤独を、誰にも気づかれないように。

 そして。


 彼が抱いた「疑問」という名の質量が、彼女の世界を歪め続けることを、まだ誰も知らない。

 運命という名の、逃れられない重力(グラビティ)

 それが、静かに動き始めていた。


 ***


 翌朝。

 学園の廊下を歩く私の足音は、昨日までと同じ、軽やかで冷徹なリズムを刻んでいた。

 周囲の生徒たちが、波が引くように道を開ける。


 彼らの嫌悪が、私の皮膚を心地よく刺激する。

 これでいい。

 これが、私の正しい姿なのだから。


 不意に。

 曲がり角の向こうから、一人の人影が現れた。

 黒い、夜を纏ったような制服。


 レオン・ノワールクール。

 私は、視線を逸らさなかった。

 完璧な微笑みを浮かべたまま、彼の横を通り過ぎようとする。


 その瞬間。

 すれ違う空気の温度が変わった。

 彼の、微かな衣擦れの音。


 沈黙を孕んだ、一瞬の交差。

 私の鼻腔が、微かに、昨夜の温室と同じ「爆ぜたばかりの青い草の匂い」を捉えた。

 心臓が、ひとつだけ拍動を飛ばす。


 けれど、私は歩みを止めない。

 彼が何を思い、何を視ているのか。

 それを知る権利を、私はすでに捨てたのだ。


 背後に残された彼の気配が、重たい余韻となって私の背中を押し続ける。

 それは、見えない手が私の肩を掴んでいるかのような、実在感。

 私は、前だけを見つめて、光の射す教室へと進んでいった。


 物語は、まだ。

 誰も知らない結末へと、沈み込もうとしている。

 深い、深い、言葉の届かない暗がりの底へと。


 鏡のような、偽りの空気を纏って。

 私は、微笑み続ける。

 最期の瞬間まで、私であり続けるために。


 干渉しないと、そう誓った心が。

 触れ合わないと、そう決めた指先が。

 本当は、何を求めているのかさえ、今はもう霧の中に隠して。

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