第16話 氷の公爵だけには、私の隠した悲鳴が聞こえている
あの事件以来、私は大図書館に行かなくなった。
かつての唯一の聖域。高い書架の影に身を潜め、活字の海に沈むことができた場所。あそこでは、かつてレンズを覗いていた頃の、平穏な孤独に戻ることができた。
だが、もう行けない。
あの場所で、彼に――レオン・ノワールクールに見られた。私の不格好な素顔を、完璧な笑顔の裏側に隠していた震えを。
私は、学園内での動線を徹底的に組み直した。
講義間の移動は、人が行き交う大理石の廊下を避け、中庭の外周の茂みを回る。
階段を二つ迂回し、埃っぽい東棟の渡り廊下を抜ける。
足早に進むたび、硬い靴底が石を叩く音が、私の焦燥を象徴するように響いた。
「セレスティーヌ様、最近あそこを避けていらっしゃるわね」
「あの方がいない方が、空気も澄んでよろしいんじゃないかしら」
すれ違う令嬢たちの嘲笑が、背中に冷たい礫のように投げつけられる。
私は口角を三ミリだけ引き上げ、彼女たちの声を背景として処理した。
それでいい。私という異物が嫌悪されるほど、この世界の輪郭は鮮明になるのだから。
だが、中庭を通るたび、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚があった。
低木の下、ステラ・メルヴィユが、泣き腫らした目で自分の腕を必死に隠しているのが見えたからだ。
昨日、マルグリットの取り巻きたちによる「不慮の事故」を装った暴力で、茂みに突き飛ばされた彼女の腕は、毒痒草の成分によって赤黒く腫れ上がっているはずだ。
それを、マルグリットが「守ってあげられなくてごめんなさい」と涙ながらに介抱したのだと、学園の噂は彼女の慈愛を称賛していた。
聖女の魔力でも、その炎症と激痛を完全に取り除くには不慣れな今は時間がかかる。
私は、指先が勝手にシャッターを切る幻覚に襲われた。
この光景を、ただの「悲劇の構図」として記録し、通り過ぎるべきだ。
そうしなければ、物語の主役であるアルベール殿下が彼女を救うという、決定的な救済の機会を奪ってしまう。
だが。
あの日、前世の瓦礫の下で、私がレンズ越しに見守ることしかできなかったあの少女の瞳が。
ステラの琥珀色の双眸と重なり、私の指先を狂わせていく。
***
その日の深夜。
学園が深い青の沈黙に沈んだ頃、私は再び暗い色のローブを羽織り、自室を抜け出した。
向かったのは、学園の端にある薬草園の温室だ。
私は温室の鍵をそっと開け、月明かりが床に硝子の破片を撒き散らしたような空間へと足を踏み入れた。
中の空気は、昼間の湿り気を残し、どこか生命の濃密な気配が澱んでいる。
私は、前世の野戦病院で培った知識を、指先の感覚だけで手際よく形にしていった。
抗炎症作用の強いハーブを配合し、毒性を中和する成分を抽出する。
乳棒で薬草を擂り潰す音だけが、不気味に、規則正しく響く。
その手つきは、令嬢のたしなみなどではない。
ただ、対象を修復するためだけの、徹底して無機質な動き。
「……私は、ノイズを消しているだけ」
誰に聞かせるでもない言い訳を、肺の奥から絞り出す。
ステラが痛みで明日を迎えられなければ、物語のバランスが崩れる。
だから、私はこれを治さなければならない。自分にそう言い聞かせ、胸の奥で暴れる熱い正体不明の衝動を無理やり押し殺した。
ペースト状になった濃緑色の軟膏を小瓶に詰め、私は一枚の羊皮紙に、事務的な、飾り気のない筆跡でメモを記した。
『患部を清浄な水で洗い、これを薄く塗ること。解熱には三十分かかるが、決して目を離さないこと』
これを、ステラの部屋の前に置いてくる。
匿名という名の無として。
小瓶をポケットにしまい込み、作業台を片付けようと振り返った、その時だった。
「っ……!」
喉の奥で、悲鳴が引き千切れた。
月明かりに照らされた温室の入り口。
そこには、床に巨大な影を落として、一人の青年が静かに立っていた。
レオン・ノワールクール。
彼は漆黒の外套を纏い、深い青の瞳で、私の一挙手一投足をじっと見つめていた。
心臓が、肋骨を突き破らんばかりに打ち鳴らされる。
全身の血が、一瞬にして逆流したかのような激しい眩暈。
見られた。
私が、悪女の仮面を脱ぎ捨てて、ステラのために――敵対するはずの女のために、泥にまみれて薬を調合している姿を。
私は反射的に右手の指先を丸めた。
恐怖で、顔の筋肉が石のように強張る。
完璧な笑顔を作ろうとしても、唇の端が引き攣り、無様な怪物のような表情になっているのが自分でもわかった。
レオンは、温室の入り口に立ったまま、一歩も動かなかった。
彼は私を貶めるような声を上げることも、嘲笑を浮かべることもなかった。
ただ、無言のまま、私の掌にある小瓶と、私の不格好な素顔を交互に射抜く。
そして。
彼はゆっくりと、私に道を譲るようにして一歩だけ横にずれた。
「……」
沈黙。
彼は何も言わなかった。
ただ、「見た」という絶対的な記録だけをそこに刻み、私が立ち去るのを促しているようだった。
その底知れない、けれど何かを試すような静寂が、どんな罵倒よりも私の魂を削り取っていく。
私は逃げるように温室を飛び出した。
背中に突き刺さる彼の視線が、私の内側の矛盾を、正確に露光していく。
「なぜ、何も言わないの……」
暗い校舎を走りながら、私は自分の震える肩を必死に抱きしめた。
彼が私の秘密を握った。
私が描こうとしていた「完璧な破滅」という構図が、今、決定的なまでに露出オーバーとなって崩壊しようとしている。
自室に逃げ帰り、重い扉に背中を預けて座り込む。
暗闇の中で、彼への恐怖と、そして抗いようのない救済の感情が、私の中で不協和音を奏でていた。
彼は何も言わない。それは、私を裁くための沈黙ではない。むしろ、私に答えを強いるための、重い余白だった。
あの日から、レオン・ノワールクールという一人の当事者によって、私の孤独な物語は、不可逆な崩壊へと向かい始めていた。




