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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第15話 計画通り、震える手

 大図書館の静寂が、剥製のように動かない過去へと変わってから数日が過ぎた。


 王立学園を包む空気は、以前よりもわずかに粘り気を増している。

 それはステラ・メルヴィユの机に毒痒草が投げ込まれたあの日から、目に見えない粒子となって生徒たちの間に沈殿していた。


 春の陽光は、暴力的なまでに白い。

 学園の中庭、白亜のテラス席に落ちる影は、地面を鋭く切り裂くような濃い黒色を呈していた。


 私は、ボーンチャイナのティーカップを指先に預けていた。

 陶器の冷たい滑らかさが、指の腹から熱を奪っていく。

 中に入ったアールグレイの表面は、私の呼吸に同期して、微かな同心円を描いていた。


 視界の端。

 噴水の水飛沫が太陽を反射し、無数の火花となって飛び散っている。

 その光の飛沫を背景にして、二人の人物が不自然なほど鮮明に切り取られていた。


 第一王子アルベールと、ステラ・メルヴィユ。


 殿下が何かを囁くたび、ステラの蜂蜜色の髪がふわりと揺れる。

 彼女の琥珀色の瞳が、恥じらうように下方へと逃げた。

 その周囲だけ、空気の密度が甘く、重く、他者を拒絶するような力場を形成している。


「……セレスティーヌ様。お聞きになって?」


 隣に座る侯爵令嬢(ベアトリクス)の声が、鼓膜を硬い針で刺すように届いた。

 彼女の持つ扇が、不快なリズムでパタパタと空気を切り裂いている。

 その風には、彼女が好んでつける、熟しすぎた果実のような香水の匂いが混じっていた。


「殿下は、あのような平民上がりの小娘に、随分とご執心のようですわね。婚約者である貴女様を、まるで背景の石像か何かのように扱って。……あまりに、無作法ではありませんこと?」


 周囲の令嬢たちが、一斉に視線をこちらへ寄越した。

 憐れみ、蔑み、そして獲物を待つ獣のような好奇。

 それらの視線が、私のドレスの表面をじりじりと焼くような錯覚を覚える。


 私は、ティーカップをソーサーに戻した。

 カチリ、と。

 硬質な磁器同士が噛み合う音が、波紋のように広がっていく。


「ベアトリクス様。殿下が誰に慈悲をおかけになろうと、それは次期国王としての広量というもの。わたくしは第一王子の婚約者として、その歩みの邪魔をせぬよう、ただ自身の居場所を正しく守るのみですわ」


 私の唇は、練習通りに完璧な弧を描いていた。

 頬の筋肉は、一ミリの誤差もなく「高慢な微笑」を保持している。

 喉を通る声は、まるで冬の夜に凍りついた泉の底から汲み上げたように、平坦で、冷たかった。


「あのような脆弱な平民に、わざわざ嫉妬の感情を割くなど。……ヴァルモン公爵家の名折れにございます」


 令嬢たちが、一瞬だけ息を止めた。

 彼女たちの肺の中で、空気が急速に冷やされる気配がする。

 やがて、安堵に近い溜息が漏れ出した。

「さすがはセレスティーヌ様だわ」「あの女なんて、殿下の慈悲の対象に過ぎないのね」


 私は、彼女たちの言葉を、意味を持たないノイズとして脳の隅へ追いやった。

 視線は、再び噴水の前へと戻る。

 殿下がステラの肩に手を触れようとして、ためらい、そして勇気を出して指先を重ねた。


 その瞬間、ステラの顔が林檎のように赤く染まる。


 完璧だ。

 乙女ゲームのメインルートは、今、私の手によって正しく補強され、一点の曇りもなく進んでいる。

 私が悪役として君臨するほど、彼女の純粋さは磨き抜かれ、物語は輝きを増す。


 私の内側で、心臓がバクンと一度、大きく跳ねた。

 それは喜びではなく、何かに追われる獣が立てるような、不吉な足音に似ていた。


 ***


 夕刻。

 ヴァルモン公爵邸の自室は、西日に焼かれた琥珀色の空気に満たされていた。


 メイド長(マリー)が、私の背後で手際よくドレスの編み上げを解いていく。

 締め付けられていた胸腔が解放され、肺が強引に膨らもうとする。

 そのたびに、肋骨の裏側がピリピリとした痛みを訴えた。


「お嬢様、本日は少しお顔の色が優れないように見受けられます。……お身体、どこかお辛いのでは?」


 マリーの指先が、私の肩にそっと触れた。

 その温もりが、今の私には、皮膚を通り越して骨を溶かすような熱量として感じられた。

 私は、鏡の中の自分を見つめたまま、一言も漏らさずに首を振る。


「いいえ。ただの、光の加減よ。……下がって頂戴、マリー。一人になりたいの」


 マリーは言いかけて唇を閉じ、恭しく一礼して部屋を出て行った。

 重厚なオーク材の扉が、重々しい音(ゴトッ)を立てて閉ざされる。


 静寂が、滝のように降り注いできた。


 私は、部屋の中央に立ち尽くしていた。

 足の裏から、高級な絨毯の毛足が這い上がってくるような不気味な感触。

 重力が、さっきまでの二倍になったかのように、私の肩を床へと押し付けてくる。


「……これで、いいのよ」


 自分の声が、他人のもののように聞こえた。

 耳の奥で、高周波のノイズが鳴り続けている。

 私は、窓際のソファへと足を運ぼうとした。


 ――一歩。

 膝の裏が、古い機械のようにぎこちなく抵抗する。

 ――二歩。

 床のタイルが、私の重みを拒絶するように跳ね返してくる。


 ようやくソファに辿り着き、倒れ込むように身を沈めた。

 豪奢なベルベットの感触。

 けれど、そこに私の身体を支えるだけの力はないように思えた。

 底なし沼に沈んでいくような、不確かな感触。


 ふと、膝の上に置いた自分の手が、視界に入った。


 震えていた。

 それは、微細な痙攣などという生易しいものではない。

 指先が、私の意志とは無関係なリズムで、カタカタと音を立てんばかりに跳ねていた。


「……なに、これ」


 私は慌てて、右手で左手首を強く掴んだ。

 指先が食い込み、白い皮膚に赤紫の痕が浮き上がる。

 けれど、震えは止まらない。

 それどころか、振動は腕を伝い、肩を揺らし、やがて喉の奥まで浸食してきた。


 ガチガチと、奥歯が鳴る。

 吐き気が、胃の底からせり上がってくる。

 昼に口にしたアールグレイの残り香が、腐敗した酸味となって鼻腔を突いた。


 視界が、ぐにゃりと歪む。


 前世の記憶が、濁流となって脳内に溢れ出した。

 それはもう、綺麗な走馬灯(フラッシュバック)などではない。

 生臭い血の匂いと、焼け焦げた火薬の煙。

 野戦病院の、カビの生えた天井。


 三十三年間、私はレンズ越しにしか世界を見てこなかった。

 誰の痛みにも触れず、自分の痛みからも目を逸らし、ただ「記録」という名の方舟に乗っていた。

 安全な場所にいると思っていた。


 けれど、最後に残ったのは、冷たいベッドの上で誰の名前も呼べない、絶対的な孤独だった。


『お前は、誰の記憶にも残っていない』


 暗闇の中から、自分の声が聞こえたような気がした。

 肺が潰れる。

 空気を吸い込もうとするたびに、鋭いナイフが気管を切り裂いていくような激痛。

 身体が、内側から崩壊していく。


「……ぁ……」


 喉の奥で、声にならない悲鳴が固まった。

 私は、這うようにして姿見の前へと移動した。

 鏡の中に、幽霊のような女が映っている。


 頬は青ざめ、瞳は恐怖で限界まで見開かれている。

 けれど。

 私の唇は、依然として、完璧な令嬢の微笑みを形作っていた。


 助けて、と叫びたい口が、愉悦を感じているかのように笑っている。

 この肉体は、すでに私の支配を離れ、「悪役令嬢」という役割を演じ続けるための装置に成り下がっていた。


 耳元で、自分の心拍が早鐘を打っている。

 その規則正しいはずの拍動が、今は不規則な、暴力的な重みとなって全身に伝わっていた。

 私は自分の胸を両手で強く抱きしめるが、そこにあるのは、ただの冷たい肉の塊だった。


 ――その時、鏡の中に、もう一つの色彩が混じった。


 氷のような、青。

 レオン・ノワールクールの、あの絶対零度の瞳。


『――昨日の顔の方がいい』


 耳の奥で、彼の声がした。

 低く、ざらついた質感を伴って、私の意識の最深部を揺さぶる。


 彼は、知っている。

 私が今、ここで吐き気を堪えながら、自分を殺していることを。

 この完璧な笑顔が、ただの死に化粧であることを。


 心臓の鼓動が、一瞬だけ止まった。

 恐怖。

 私の計画を壊す、予測不能な変数への忌避。


 ――けれど。


 その恐怖の裏側に、膿のように溜まっていた安堵が、じわりと滲み出した。


 世界中でたった一人。

 レオン・ノワールクールだけが、私を「記録」としてではなく、今ここで震えている「一人の人間」として、その瞳に焼き付けている。

 誰の記憶にも残らないはずだった私が、彼の記憶の中では、醜く歪んだ本顔で生きている。


 その事実が、凍りついた私の身体に、痛みを伴う熱を流し込んできた。


「……っ……ふ、ふふ……」


 喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。

 それは微笑みではなく、壊れた楽器が奏でるような、不協和音だった。


 私は、震える手で鏡の表面をなぞった。

 指先が触れたガラスの冷たさが、現実との唯一の接点だった。


 まだ、私は壊れるわけにはいかない。

 ステラを輝かせ、殿下を導き、私は私を正しく破滅させなければならない。

 それが、この世界で私が獲得した、唯一の「存在理由」なのだから。


 私は、鏡の中の女に向かって、さらに深く、さらに冷たく、笑いかけた。


 顔の筋肉が、裂けるような痛みを上げる。

 瞳の奥から、光が完全に消失する。


「ええ……。計画は、順調だわ……」


 窓の外では、太陽が完全に沈み、夜の重力が部屋を支配し始めていた。

 私の身体の震えは、まだ、止まる気配を見せない。


 けれど私は、その震えさえもドレスの襞の下に隠し込み、明日もまた、完璧な悪役として、世界というレンズの前に立ち続けるのだ。


 その先に、あの青い瞳が、私の仮面を粉々に砕く瞬間が待っているとも知らずに。


 ***


 翌朝、学園の廊下を歩く私の足取りは、昨日よりもさらに「軽く」設計されていた。


 王立学園の石畳は、一晩の冷気を吸い込んで、靴底を通して私の足首を鋭く刺す。

 一歩。

 背筋を伸ばし、顎を引く。


 二歩。

 すれ違う生徒たちが、波が引くように道を開けていく。


 三歩。

 彼らの視線が、私のドレスの裾に触れては、熱を持ったまま地面に落ちる。


 廊下の角を曲がったとき、正面から歩いてくる集団が目に入った。

 中心にいるのは、殿下。

 その隣で、少しだけ遅れて歩くステラ。


 彼らの背後には、いつものように取り巻きの令息たちが列をなしている。

 けれど、その中に一人、異質な影が混じっていた。


 レオン・ノワールクール。


 彼は、集団の最後尾からさらに数歩離れた場所を、重力から切り離されたような足取りで歩いている。

 彼の視線は、誰を見るでもなく、ただ前方の空間を切り裂くように据えられていた。


 距離が縮まる。


 空気の温度が、一気に下がっていく。

 私の皮膚が、微かな電磁波を浴びたように、うぶ毛が逆立つのを感じた。


「ごきげんよう、殿下。……ステラ様も、朝からお元気そうですわね」


 私は、立ち止まり、教科書通りの優雅さで会釈をした。

 膝を曲げる角度、首の傾き。

 すべてが、この世界の「美徳」という名の鎖で繋ぎ止められた動作。


「ああ、セレスティーヌ。おはよう」


 殿下の声は、明るく、けれどどこか空洞を孕んで響いた。

 彼の視線は、一瞬だけ私を捉え、すぐに横のステラへと滑り落ちる。


「……おはようございます、セレスティーヌ様」


 ステラが、震える声で挨拶を返す。

 彼女の指先が、制服のスカートを強く握りしめているのが見えた。

 その白くなった指の節々が、私の網膜に不自然な解像度で焼き付く。


 ――怖い?

 いいえ、怖がりなさい。

 私が恐ろしければ恐ろしいほど、貴女を救う殿下の慈悲は、より一層輝きを増すのだから。


 私は、満足げに微笑みを深めた。

 その時。


 殿下の集団が通り過ぎようとした、その瞬間。


 最後尾にいたレオンが、私の真横で足を止めた。


 静寂。


 他の生徒たちの話し声が、急に遠くの雑音へと退いていく。

 私の鼻腔を突いたのは、冷たい雪解け水と、古びた紙の匂い。


 レオンが、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。


 青い瞳。

 その奥に、私の完璧な仮面を透過し、内側のボロボロに崩れた「私」を直接掴み取るような光が宿っている。


「……指」


 彼が、短く呟いた。

 その一言が、私の心臓の鼓動を強引に停止させる。


「……なんですの、レオン様。わたくしの指に、何かついていまして?」


 私は、扇で口元を隠しながら、冷徹な声を絞り出す。

 けれど。

 扇を握る指先が、昨夜の震えを思い出したかのように、ピクリと跳ねた。


「震えが、残っている」


 レオンの声は、感情を排した事実の報告だった。

 けれど、その言葉には、物理的な質量が伴っていた。

 私の胃の奥が、冷たい水に浸されたように重くなる。


「昨夜の雨で、少し冷えただけですわ。……お気になさらず」


「雨は、降っていない」


 レオンは、逃げ道を塞ぐように淡々と言い放った。

 彼はそのまま、私の横を通り過ぎていく。


 背後に残されたのは、彼が通った軌跡に沿って凍りついた、冬の残滓のような空気。


 私は、彼が去った廊下を、瞬きもせずに見つめていた。

 喉の奥が、乾いた砂を飲み込んだようにヒリヒリと痛む。


 ――見られた。


 その事実に、私の身体は、言いようのない屈辱と。

 そして。


 皮肉なほどの熱で応えていた。


 ***


 放課後。

 私は、一人で校舎の裏手にある温室へと足を運んでいた。


 温室のガラス扉は、油切れの蝶番が、悲鳴のような音を立てて私を迎え入れる。

 中の空気は、外の冷気とは対照的に、湿り気を帯びた花の吐息で満たされていた。


 月下美人の鉢植えが、白く、静かに、夜の訪れを待っている。

 私は、その花弁の端に、そっと指を触れた。


 冷たい。

 けれど、生きている。


 私は、自分が手に持っていた小さな手帳(ライカ)を取り出した。

 前世の私が、肌身離さず持っていたもの。

 この世界では、それは単なる魔力を持たない、ただの革製の塊に過ぎない。


 私は、その表紙を指の腹でなぞる。

 ざらついた革の質感が、私の「現実」を辛うじて繋ぎ止めている。


「……誰にも、邪魔はさせない」


 私は、独り言を漏らした。


 レオン・ノワールクール。

 彼が何を企んでいるにせよ、私の「脚本」を壊すことは許さない。

 私は、最高の悪役として、この世界を完結させなければならない。


 それが、一人の男を孤独な死から救い、一人の少女を希望へと導く、唯一の方法なのだから。


 ふと、温室の入り口の影が揺れた。


 心臓が、跳ねる。


 私は、即座に微笑みを貼り直し、冷淡な「セレスティーヌ」として振り返った。


「……そこにいるのは、どなた?」


 静寂。


 温室の影の中から、ゆっくりと、一人の影が歩み出てくる。


 その足音は、物理的な重さを持たず、けれど私の鼓膜に、不吉なリズムを刻み込んでいた。


 ……現れたのは、殿下でも、ステラでもなく。


 真っ赤な瞳を不気味に輝かせた、このゲームの「隠し攻略対象」にして、最大の破滅因子。


 狂気の魔術師、カシアン・ロートレックだった。


「……おや。美しい薔薇が、独りで泣いているのかと思いましたよ。セレスティーヌ様」


 カシアンの唇が、三日月のように歪む。

 彼の周囲だけ、空気が腐敗した沼のような、嫌な粘り気を伴って蠢いていた。


 私の指先が、再び、カタカタと音を立て始める。


 ――計算外だ。


 彼がここで現れるのは、もっと先のはず。


 けれど、私は笑った。


 頬の筋肉を強引に引き上げ、瞳の奥に「傲慢」という名の毒を込めて。


「泣く? わたくしが? ……ふふ。カシアン様、貴方の目は、よほど曇っておいでなのね。わたくしは今、この花の最期をどう彩るか、考えていただけですわ」


 私は、月下美人の花弁を、指先で容赦なく握りつぶした。


 白い汁が、私の白い手袋を汚していく。

 その不快な湿り気が、今の私には、唯一の「生」の証明だった。


 カシアンが、一歩、近づく。


 その瞬間、温室のガラスが、ピキリ、と。


 目に見えない圧力によって、小さな亀裂を走らせた。


 物語は、私の制御を離れ、加速し始めている。

 落下の加速度を伴って、私は、私という名の地獄へと突き進んでいく。


 その暗闇の先に、何が待っているのか。


 私は、壊れた微笑みを絶やすことなく、ただ、次の「一幕」を待ち構えていた。

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