第14話 善意が「悪意」に書き換えられても、私は沈黙を選ぶ
鏡の奥に、一人の女がいた。
銀糸を束ねたような髪が、背後で動くマリーの指先によって、一筋ずつ垂直の重力へと解放されていく。ブラシが頭皮を擦る音。乾いた、けれど規則的なその摩擦音が、私の脳漿を静かに揺らしていた。
窓から差し込む朝光は、白磁の洗面器に反射し、私の網膜を薄く焼く。眩しさに耐えるため、私は無意識にまぶたを数ミリだけ下げた。
視界の端。マリーの温かな掌が、私の指先へと伸びてくる。
保湿クリームの、重く、湿った感触。それが皮膚のシワ一つ一つを埋めていく際、彼女の手が、ぴたりと止まった。
鏡の中のマリーの眉が、ごくわずかに中央へ寄る。
それは、水面に落ちた一滴のインクのように、静かに、けれど確実な違和感として広がった。
「お嬢様……手に、微かに薬草のような香りが……」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、喉の奥が、氷を飲み込んだかのように収縮した。
心臓が、肋骨の裏側で一度だけ、鈍く、重い音を立てる。
肺の底に溜まった空気が、吐き出される出口を失い、胸腔を内側から圧迫し始めた。
「……あら、そう? 気のせいではないかしら。庭園の温室の近くを通ったからかもしれないわね」
私は、自分の声が、自分の耳に届く前に「事務的な記号」として完成されていることを確認した。
唇の端を、ミリ単位の精度で引き上げる。
頬の筋肉は、冷たい陶器の裏側で張り付いたまま、偽りの笑みを形作る。
マリーは、それ以上何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた彼女の後頭部、そこに結ばれたシニヨンの、わずかなほつれだけが、私の視界を異常な精細さで支配していた。
彼女の沈黙は、重い。
私が「完璧な令嬢」であるという信仰が、彼女の思考にブレーキをかけている。
深夜、学園の寮まで足を運び、膝の震えを抑えながら、平民の少女のために軟膏を調合した私。
その事実が、この豪奢な部屋の重厚な空気に、目に見えない汚点として沈殿していく。
私は立ち上がり、シルクのドレスを翻した。
重厚な布地が脚にまとわりつき、一歩踏み出すごとに、大理石の床から冷たい反発が踵を伝って背筋を駆け上がる。
仮面は、まだ剥がれていない。
そう自分に言い聞かせながら、私は鏡の中に残った残像を切り捨て、部屋を後にした。
***
王立学園の正門を潜った瞬間、空気の粘度が変わった。
大理石の廊下を渡る私の靴音。
コツ、コツ、という乾いた音が、周囲の静寂を鋭く切り裂いていく。
その音に合わせるように、前方の生徒たちが、左右へと剥離していく。
彼らとの間に、目に見えない「拒絶の壁」が垂直に切り立っていた。
扇の陰から放たれる視線が、私の首筋に、冷たい針となって突き刺さる。
「……お聞きになりました? ステラさんの机に毒痒草が入れられた事件……」
「嫌がらせをしておきながら、大事になるのを恐れて特効薬を置くなんて」
「そんなことができるのは、あの方しか……」
言葉の破片が、ホワイトノイズとなって耳腔に侵入してくる。
それらは意味を持つ前に、私の皮膚を逆撫でする不快な振動として処理された。
私は歩みを緩めない。
背筋を支えるコルセットが、肺を締め上げ、呼吸を浅く、速くさせる。
けれど、私はその苦しさを「気品」という名の枷として受け入れた。
サロンの入り口。
開かれた扉の向こう側で、色彩の密度が跳ね上がる。
窓から差し込む午後の光が、ステラの蜂蜜色の髪を、過剰なまでの聖性で照らし出していた。
彼女の隣には、燃えるような赤毛を持つマルグリット・セルヴァンが立っている。
マルグリットの翡翠色の瞳。
それは、獲物を狙う猛禽のそれとは異なり、顕微鏡で微生物を観察する学者のような、冷徹で、無機質な計算に満ちていた。
「怖かったでしょう、ステラ。でも、もう大丈夫よ。私がついているから」
マルグリットの声。
それは慈愛の形を模倣しながらも、語尾のわずかな減衰が、その言葉の「中身の不在」を告げている。
彼女の指先が、ステラの肩に触れる。
その瞬間、ステラの身体が微かに強張ったのを、私は見逃さなかった。
「……なぜ、犯人は証拠隠滅するように高価な特効薬を用意できたのかしら?」
マルグリットの視線が、不自然な角度で、回廊を歩く私を射抜いた。
彼女の放った言葉の毒が、空気中に浮遊する埃の粒子を媒体にして、周囲の令嬢たちの脳に感染されていく。
マルグリット・セルヴァン。
彼女はこの世界の特異点だ。
原作ゲームの台本には存在しない、この世界に生じた致命的なバグ。
彼女は、人間の「善性」を信じていない。
だからこそ、私の匿名的な救済すら、自己防衛のための醜悪な策謀へと翻訳してしまう。
私は、彼女たちの前を通り過ぎる際、一度だけ、ステラの震える指先を凝視した。
シャープペンシルを握る彼女の指。
爪の白い部分が、血の気が引いたように青白い。
彼女は、私の正体を知りたがっている。
同時に、私を恐れている。
私はその「恐怖」を、甘んじて受け入れた。
私が悪役として君臨し続けること。
それだけが、この狂った世界線において、ステラという少女を守り抜く唯一の楔になるからだ。
『これでいいわ』
胃の奥に、鉄の塊を沈めたような重苦しさが居座る。
私は、自分の内側に生じたその拒絶反応を、冷たい意志の力で踏み潰した。
***
放課後の大図書館。
高くそびえるマホガニーの書架が、天井を支える巨人の足のように、幾重にも連なっている。
古い羊皮紙の、枯れた草のような匂い。
それは蓄積された時間の重みであり、私の呼吸から、わずかな水分を奪い去っていく。
私は、歴史書のコーナーへと歩を進めようとして、その沈黙の異変に気づいた。
書架の奥。
ステンドグラスから零れる光の粒子が、一つの影を、劇的なコントラストで浮き上がらせていた。
金色の髪。翡翠色の瞳。
私の婚約者である、アルベール・ルミエール殿下。
その隣で、ステラが、壊れ物を扱うような手つきで自分の右手を胸に抱いている。
「ステラ嬢、手の方はもう大丈夫なのか?」
アルベールの声。
それは、私に向けて放たれる「公務としての音」ではない。
守るべきものを慈しむ、湿り気を帯びた、熱を持った声。
その熱が、冷え切った図書館の空気を、そこだけ変質させていた。
「はい、殿下……。昨夜、どなたかがお薬を置いてくださって、すっかり良くなりました」
ステラの声が、静寂に波紋を広げる。
その波紋が、私の足元にまで届き、影を揺らす。
「卑劣な真似だ。君のような純粋な少女を標的にするなど、到底許されることではない」
アルベールが、一歩、ステラへと距離を詰める。
その動作に伴い、彼の纏う軍服の飾緒が、シャラリと金属的な音を立てた。
その音が、私の鼓膜を、剃刀のように鋭く切り裂いた。
私は身を引こうとした。
けれど、右足が、床に張り付いたように動かない。
ドレスの裾が、書架の角に触れ、乾いた摩擦音を奏でてしまった。
アルベールの視線が、瞬時に私を捉える。
「……セレスティーヌ嬢」
彼の声から、先ほどの「熱」が、急速に奪われていく。
代わりに満ちたのは、絶対零度の殺意に似た、純粋な嫌悪。
私は、逃げることを放棄した。
ゆっくりと、書架の影から姿を現す。
顔の筋肉を、意識の力で一枚ずつ「笑顔」の型へと嵌め込んでいく。
まぶたの開き方。口角の角度。
それは、もはや表情ではなく、精密に設計された仮面だった。
「ごきげんよう、アルベール殿下。ステラさんも、ご無事なようで何よりですわ」
私の声は、私自身の喉を通過する際、全ての湿り気を濾過されていた。
無機質で、平坦な音。
「君は……本当に血が通っているのか?」
アルベールの言葉。
それは質問ではなく、私という存在を「生物」の範疇から除外するための、断罪の宣言だった。
彼の瞳の奥で、私が、氷で造られた人形として固定されていくのが分かる。
「同じ学園で学ぶ者が卑劣な罠にかけられたというのに、なぜそのように冷たい笑顔を浮かべていられるんだ」
彼の言葉が、一歩ごとに、物理的な圧力となって私を押し返す。
肺の酸素が、薄くなっていくのを感じる。
「殿下、感情的になられるのはお控えくださいませ。わたくしはただ、静粛が求められる図書館において、相応しい態度をとっているまでにございます」
私は、自分の意志を、冷たい論理の裏側に隠蔽した。
私の指先は、ドレスの影で、骨の節が白くなるほど強く握りしめられていた。
けれど、その震えを、私は誰にも見せない。
「君という人間は……!」
アルベールが、怒りに任せて身を乗り出す。
その時。
ステラが、彼の袖を、縋るように掴んだ。
「殿下、やめてください! セレスティーヌ様がそんなことをするはずがありません……!」
ステラの叫び。
それは、この歪んだ状況における唯一の真実だった。
けれど、その光が、アルベールの私に対する憎悪を、より一層濃い影へと変えてしまう。
「ステラ嬢、君は優しすぎる。彼女の完璧な笑顔に騙されてはいけない」
アルベールは、私を見据えたまま、ステラをその背後に隠した。
それは、怪物の脅威から姫を守る、騎士の構図。
――ああ、美しい。
私の脳の、どこか麻痺した部分が、その完璧な「救済のシーン」を賞賛していた。
私が悪であればあるほど、彼らの絆は、不可侵の聖域へと昇華されていく。
私の存在の重みは、今、この瞬間のためにあったのだと。
「……失礼いたしますわ」
私は静かに身を翻した。
背後に残された二人の気配。
それらが、私の背中に、見えない重力となって圧しかかる。
一歩。また一歩。
廊下へ出ると、冷ややかな空気が、私の頬に張り付いた「笑顔」を容赦なく冷却した。
足が、鉛のように重い。
床が、一歩ごとに私の重量を吸い取っていくかのようだ。
胸の奥。
そこにあるはずの「心臓」が、今はただの、冷たくて鋭いガラスの破片に感じられた。
息を吸うたびに、その破片が内壁を削り、名前のない痛みを撒き散らす。
「……私は」
掠れた声が、喉を通過する。
「……私は、誰も傷つけたくないだけなのに」
その言葉は、誰の耳にも届くことなく、冷たい廊下の影へと沈殿していった。
私は、ドレスの裾を強く握りしめた。
指先の感覚は、とうに消えている。
けれど、その掌に残る微かな薬草の香りだけが。
昨夜、私が確かに一人の少女を助けようとした、その「事実の温度」だけが。
今の私を、この世界に辛うじて繋ぎ止める、唯一の質量だった。
私は、さらに深く。
誰も剥がすことのできない、冷たくて重い笑顔を、顔に貼り直した。
***
学園の回廊の隅、大きな柱の影で、マルグリット・セルヴァンは一人、静かに笑みを浮かべていた。
彼女の翡翠色の瞳は、去りゆくセレスティーヌの背中を、まるで獲物の死骸を見届けるように追っている。
「完璧だわ……」
彼女は、誰にも聞こえない声で囁いた。
彼女の指先が、柱の表面を、愛おしげに撫でる。
マルグリットにとって、この世界は一つの冷徹な実験場に過ぎない。
セレスティーヌが抱える孤独な善意。
それが、アルベールの無知な正義感によって粉砕される。
その摩擦熱こそが、彼女が欲する最高のご馳走だった。
マルグリットの背後で、夕暮れの影が長く伸びる。
それは、やがて学園全体を、そしてセレスティーヌという少女の運命を、音もなく飲み込んでいく暗黒物質のようだった。
***
私は、馬車に揺られながら、車窓を流れる街並みを見つめていた。
膝の上に置いた手は、まだ動かない。
馬車の車輪が、石畳を叩く振動。
それが、私の脊椎を伝い、脳の奥底にある「記憶の底」を揺り動かす。
私は、何のためにこの世界に生まれたのか。
何のために、この苦痛に満ちた役割を演じ続けているのか。
答えは、夜の闇に吸い込まれて返ってこない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
明日の朝もまた、マリーが私の髪を梳かし、私は鏡に向かって「完璧な令嬢」を演じ始める。
その繰り返しが。
その終わりのない、滑らかな地獄の反復が。
私の魂を、少しずつ、けれど確実に研磨していく。
私は目を閉じた。
まぶたの裏に、ステラの潤んだ瞳と、アルベールの軽蔑に満ちた眼差しが、網膜の残像として焼き付いている。
その重みを。
その耐え難いほどの言語的質量を抱えたまま。
私は、沈みゆく太陽の向こう側へと、運ばれていった。




