第13話 誰も知らない私の嘘を、あの青い瞳だけが暴こうとする
深い、青。
極北の氷層を透過した光が、底知れぬ深淵で凍結したかのような色。
その双眸が脳裏に「合致」した瞬間、私は弾かれたように上体を起こした。
肺の袋が、足りない酸素を求めて急激に膨張と収縮を繰り返す。
寝間着の背中が、逃げ場を失った冷や汗でじっとりとシーツに張り付いていた。
指先が、自分の意志を離れて微かに痙攣している。
「……夢、か」
王立学園の裏庭。
あの日、誰にも見せないはずだった無防備な泣き顔を、レオン・ノワールクールに見られてから。
私の夜は、重い沈黙と、あの青い引力に支配されるようになっていた。
『昨日の顔の方がいい』
喉の奥に、ざらついた鉄の味が広がる。
彼が残した言葉は、飲み下すことも吐き出すこともできない異物として、食道の途中に居座っている。
心臓が肋骨を内側から叩くたび、その「棘」がじわりと深奥へ沈み込んでいく。
もし。
あの裏庭での出来事を、彼が第一王子や他の貴族たちに露見させれば。
私がただの臆病な「記録者」に過ぎないと知られてしまえば。
全ての憎悪をこの身に集め、美しい終焉を撮り切るという私の絶対構図は。
現像に失敗したフィルムのように、光に焼かれて真っ白に消えてしまうだろう。
胃の底が、じりじりと焼けるような鈍い痛みを訴えていた。
「……大丈夫。彼は、何も言わないわ」
暗い部屋の空気に、独り言が冷たく溶ける。
「氷の公爵」――。
他者に興味を持たず、ただ孤高の特異点として存在する彼が、私の小細工に介入するはずがない。
自分に言い聞かせる呪文は、しかし、どこか虚ろに響いた。
私はベッドから這い出し、裸足の裏で床の冷たさを確かめる。
月光が、姿見の鏡面を青白く照らし出していた。
冷たい水で顔を洗う。
水滴が顎の先から滴り、鎖骨の窪みに溜まる感触を、私は「無」として処理した。
銀色の髪を指先で整え、紫水晶の瞳から、体温の一片までも排除していく。
そして、私は「構築」を開始する。
口角を左右均等に、数ミリの狂いもなく引き上げ。
頬の筋肉を、感情を一切透過させない硬度で固定する。
非の打ち所のない「凍りつくような微笑み」。
ヴァルモン公爵令嬢という仮面が、私の顔面に吸い付くように完成した。
筋肉が僅かに突っ張る抵抗感こそが、今の私の、唯一の生存証明だった。
「私は、この世界の観測者。誰の記憶にも残らない、透明な背景」
誰にも届かない決意を、奥歯の噛み合わせで封じ込める。
扉を開けた先には、新しい朝の光が、鋭いナイフのように差し込んでいた。
***
学園の教室は、情報の飽和に満ちている。
身分によって区切られた見えない界面。
その最前列、私はアルベール殿下の隣で、一本の冷たい鋼鉄のように背筋を伸ばしていた。
周囲の令嬢たちが交わす、体温の低い挨拶。
私の「微笑」という防壁が、彼女たちの視線を滑らせ、反射し、深入りを拒んでいる。
その摩擦係数の大きさに、私は密かな安堵を覚えていた。
講義の鐘が鳴る直前。
教室の隅――最も光の当たらない場所で、鋭い悲鳴が空気を切り裂いた。
「痛っ……!」
蜂蜜色の髪が揺れる。琥珀色の瞳が痛みに潤む。
この物語の主役、ステラ・メルヴィユが、机の影で蹲っていた。
私は羽ペンを動かす手を止めず、視線の「倍率」だけを彼女へと向けた。
ステラの白く華奢な手の甲から、手首にかけて。
不気味な、どす黒い赤色をした斑点が、毒液が滲むように広がっていく。
皮膚が僅かに腫れ上がり、彼女の身体が小刻みに震えているのが、ここからでも鮮明に見えた。
「……あら、あれは毒痒草の粉末ではありませんこと?」
扇で口元を覆った令嬢たちの間から、湿った嘲笑が漏れる。
毒痒草。
触れれば焼けるような激痛が走り、数週間は醜い炎症が残る、悪意の結晶。
それが、偶然に彼女の机へ紛れ込むはずがない。
閉鎖された空間、停滞した空気。
その中で醸成された、陰湿な排除の力学が、物理的な痛みとなって顕現していた。
「ステラ! 大丈夫!? ひどい、誰がこんなことを……!」
いち早く駆け寄ったのは、燃えるような赤毛を持つマルグリット・セルヴァンだった。
彼女はステラの肩を抱き寄せ、周囲を威嚇するように視線を鋭く尖らせる。
その光景は、美談として、あまりに「出来過ぎて」いた。
本当に彼女を救いたいのなら、騒ぎを広げる前に、まず流水へ連れて行くべきだ。
マルグリットの動きには、微かな「演技」がある。
助けることよりも、自分が「善意の代弁者」であることを周知させるための、過剰な演出。
ステラの頬を、大粒の涙が伝い落ちる。
琥珀色の瞳に溜まった絶望が、床に落ちて小さな染みを作った。
……胸の奥が、嫌な音を立てて収縮した。
前世。
爆撃のあと、瓦礫の下で声を殺して泣く子供を、レンズ越しに見つめ続けたあの日の。
指先が凍りつくような、冷酷な無力感。
私が一言、この沈黙を切り裂けば。
公爵家の権威という名の暴力を振るえば、この茶番は終わる。
だが、私の右手がドレスの布地をきつく握りしめ、そして――力なく解けた。
『私が介入すれば、構図が崩れる』
彼女が流すこの涙は、アルベール殿下の「守護者」としてのフラグを立てるための聖水だ。
私が慈悲をかければ、彼らが結ばれるための決定的な瞬間を奪ってしまう。
私は、記録者だ。被写体の運命を書き換えてはならない。
私はゆっくりと席を立ち、騒ぎの中心へと歩み寄った。
一歩ごとに、床を叩く靴音が教室の嘲笑を塗りつぶしていく。
そして、ステラとマルグリットの横を通り過ぎる瞬間に、氷点下の声を投下した。
「……朝から随分と、不快な雑音が響いていますわね」
完璧な、一切の感情を剥ぎ取った「微笑」。
心にもない言葉が、熟練の職人が作る毒薬のように、滑らかに紡ぎ出される。
「平民上がりが、不注意にも毒草に触れた程度で。
わたくしたちの学ぶ神聖な学び舎を、その薄汚れた鳴き声で汚さないでいただきたいわ」
ステラの肩が、ビクッと跳ね上がった。
潤んだ瞳が私を見上げ、琥珀色の底に、鋭い痛みが突き刺さる。
「ご、ごめんなさい……セレスティーヌ様……っ」
絞り出された謝罪を、私は無機質な瞳で見下ろした。
「セレスティーヌ様、言い過ぎですわ! 彼女は被害者なのですよ!」
マルグリットが義憤に満ちた声を上げるが、その瞳の奥は、鏡のように冷めていた。
私は彼女の翡翠色の瞳を、真っ向から射抜く。
「被害者? 自己管理もできない愚かさを、他者のせいになさるの?」
僅かに口角を上げ、身分の差という重力を、全身で叩きつける。
「マルグリット様。あなたも随分と平民に執着なさるのね。
セルヴァン侯爵家は、ヴァルモン公爵家に盾突く覚悟がおありなの?」
「っ……それは……」
マルグリットが、屈辱に唇を噛み、言葉を詰まらせる。
彼女の瞳の奥で、一瞬だけ「打算」が火花を散らしたのを、私は見逃さなかった。
周囲の貴族たちは、私の冷酷さに同調し、安全な場所からさらに嘲笑を深めていく。
これでいい。
私は、誰からも憎まれる、完璧な悪役を演じ切った。
教室の扉を開けようとしたその時、廊下から足早に歩いてくるアルベール殿下とすれ違った。
彼はステラの涙を視界に入れた瞬間、私を殺しかねないほどの鋭い視線で射抜いた。
「セレスティーヌ嬢……! 君は、また彼女を……っ!」
「ごきげんよう、殿下。わたくしはただ、秩序を乱す者に事実を告げたまでですわ」
優雅なカーテシー。
彼と視線を合わせることなく、私は廊下を滑るように進む。
背後で、「ステラ嬢、大丈夫か!」という、甘く優しい声が響くのを聞きながら。
完璧な、構図。
私の冷酷さが、彼の保護欲を決定的なものにした。
物語は、ハッピーエンドへと向かって、正しく加速している。
だが。
誰もいない廊下を歩く私の脚は、泥沼を歩いているかのように重かった。
指先は血の気が引いて真っ白になり、ステラのあの、赤く腫れた手の感触が、自分の肌に転写されたかのように疼いている。
『……誰も、傷つけたくないのに』
その認知的不協和に引き裂かれそうになりながら。
私は、仮面という名の鉄仮面を、さらに分厚く塗り固めることしかできなかった。
***
その日の、深夜。
学園の女子寮が、死んだような静寂に包まれる頃。
私は暗い色のローブを羽織り、自分の気配を「背景」へと紛れ込ませて自室を抜けた。
向かったのは、敷地の端にある、冷たい月光が降り注ぐ薬草園だ。
通常の治癒魔法では、毒痒草の炎症は完全には消えない。
魔力を流し込むだけでは、細胞の奥に沈殿した「毒性」を中和しきれないからだ。
前世。
化学薬品で皮膚を爛れさせた兵士。
その応急処置を何度も見てきた記憶が、乳鉢の中で薬草と混ざり合う。
この世界の薬草学と、前世の知見。それを統合すれば、一晩で痕を残さず完治させる特効薬が作れる。
私は、薬草園の片隅に置かれた古い石の乳鉢を手に取った。
掌に伝わる、石の冷たさと質量。
乳棒を握る指先に、微かな緊張が走る。
私は、まず銀影草の葉を選び、丁寧に千切り始めた。
繊維が指先で千切れる感触が、前世の記憶と重なる。
次に、沈丁花の花弁を加える。
その香りが、鼻腔を突き、意識を鋭くしていく。
乳棒を回す。
石と石が噛み合い、ゴリ、ゴリという音が静かな温室に響く。
繊維が潰れ、青臭い生命の匂いが、鼻腔を突く。
私は無心に、その「質量」を擂り潰し続けた。
そうだ。これは、最高の一枚を仕上げるための、必要最低限の修正に過ぎない。
私はただ、美しいハッピーエンドを「観測」したいだけなのだ。
緑色の、滑らかな軟膏を小壺に詰める。
そして、羊皮紙に一切の飾りを排した、機械的な筆跡でメモを書き殴った。
『患部を清浄な水で洗い、これを塗布すること。一晩で痛みは引く』
名前は、絶対に書かない。
感謝という名の「貸し」を作ることは、背景に徹する私の禁忌だから。
小壺を隠し、ステラの寮へと忍び込む。
平民特待生の、狭く簡素な部屋。
そのドアの前に、そっと小壺とメモを置いた。
「……早く良くなってね、ステラ」
消え入りそうな囁きを残し、私は踵を返した。
その、時。
背後の暗闇――階段の踊り場の死角から、衣擦れの音が、微かに空気を震わせた。
心臓が、喉元を突き破らんばかりに跳ね上がる。
私は反射的に、背後の深淵を睨みつけた。
「……誰か、いるの?」
返ってくるのは、死んだような静寂。
冷たい月光が廊下を照らし、埃の粒子がゆっくりと舞っているだけだ。
そこには、誰も――。
『……気のせい、よね』
胸の動悸を抑え込み、私は逃げるようにその場を去った。
だが、私の「観測者」としての本能が、警鐘を鳴らし続けていた。
あの闇の中に、私の一挙手一投足を、じっと焼き付けていた『誰かの目』がいたことを。
自室に戻り、冷たい水で再び顔を洗う。
鏡の中の私は、青白く、まるで今にも崩れ落ちそうな廃墟のように疲弊していた。
両手で頬を叩き、再び「笑顔」を上書きする。
「これでいい。物語は、正しく進んでいくわ」
震える右手を、もう片方の手で力任せに押さえつける。
私は、完璧な悪役。
静かに、誰の心も動かさず退場するだけの、一過性の装置。
だが、窓の外の暗闇。
そこから、あの氷のように冷たいレオンの「青い瞳」が、私の嘘をすべて剥ぎ取ろうとしている気がして。
私は朝が来るまで、肺が千切れるような浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。




