第12話 「見られた」という恐怖
毛布の裏側の、ざらついた繊維が皮膚を擦る。
膝を抱えたまま、私は自分の体温を、湿ったシーツの冷たさへ奪われるのに任せていた。
窓の隙間から入り込む夜気は、肺の奥を薄く切り刻むような鋭さを持っている。
『昨日の顔の方がいい』
レオン・ノワールクールの低く、湿度を帯びた声が、鼓膜の裏側にべったりと張り付いている。
剥がそうとすればするほど、その残響は重く、喉の奥に鉛を流し込まれたような閉塞感へと形を変えた。
心臓の拍動が、肋骨の檻を内側から強引に押し広げようと暴れている。
――呼吸が、うまく繋がらない。
吸い込んだ空気は胸の途中でつっかえ、呼気は熱を帯びたまま唇の端で震えて霧散した。
暗闇の中で、視界がチカチカと明滅している。
前世。
硝煙が鼻腔を突き、焼けたアスファルトの臭いが充満する戦場。
私はそこでファインダーという小さな窓だけを生存圏として、世界を切り取り続けてきた。
レンズを通せば、死さえも「静止画」として処理できたから。
凄惨な光景を前にしても、顔の筋肉を一ミリも狂わせず「完璧な笑顔」を
構築する。
それはプロとしての誇りであり、同時に、外界からの侵食を防ぐための、唯一の絶対的な鎧だった。
感情を、物理的な隔壁の向こう側へ隔離する――。
今世に転生してからも、その術理だけが私の背骨を支えてきたはずだった。
誰の網膜にも残らず、ただ風景の一部として溶け込む「透明な記録者」。
悪役令嬢という役割すら、その孤独を完成させるための額縁に過ぎなかったのだ。
それなのに。
三十三年間の研鑽と、孤独な誓いで塗り固めた防衛線が、たった一言で。
古い羊皮紙が爆風で引き裂かれるように、無惨に、あっけなく霧散してしまった。
なぜ。
鏡の前で何万回も微調整を繰り返した、あの「完璧な笑顔」が。
口角の角度、目尻のシワ、頬の筋肉の緊張度合い――。
計算し尽くされたその偽装を、彼はなぜ、指先一つ触れずに解体してみせたのか。
……指先。
暗闇の中で、右手の指先の感覚が、ふっと消失していることに気づいた。
自分の手でありながら、それは遠い他人の肉体のように、冷たく、異質な質量としてそこに「置いて」ある。
極度の負荷が、私の意識を肉体から引き剥がそうとしていた。
致命的なバグが、深い記憶の底から這い出してくる。
ドレスの裾を握りしめているはずの人差し指が、私の意志を無視して、痙攣するように小さく動いた。
カシャッ。
音がした、気がした。
存在しないカメラの、重いシャッターが落ちる振動。
人差し指が、空虚なリズムを刻みながら「架空の記録」を繰り返している。
カシャッ、カシャッ、カシャッ――。
機械的な反復。
自分の指が、独立した生物のように虚空を切り取る奇行。
それを止める術を、私はもう、忘れてしまっていた。
「私は……観察する側、だったはずなのに……っ」
掠れた声が、震える唇からこぼれ落ち、床の冷気の中に沈んでいく。
安全なレンズの裏側。そこは、私にとって唯一の「聖域」だった。
だが、今。
私は彼という、巨大な引力を持ったファインダーの中に捉えられている。
撮る側から、撮られる側へ。
剥き出しの素顔を、予測不能な戦場に晒してしまったかのような、剥奪感。
私にとって「見られる」ことは、「存在を否定される」ことと同義だった。
観測された瞬間に、私の自由な構図は崩壊し、誰かの文脈に強制的に書き換えられてしまう。
その根源的な恐怖が、胃の腑をじわりと焼き続けていた。
レオン・ノワールクール。
銀灰色の髪を持つ、若き公爵。
学園の喧騒から隔絶された、冷徹な特異点。
そして何より、恐ろしいのは。
この世界を規定する乙女ゲーム『エトワール・ドゥ・リュミエール』において、彼だけが、隠しルートの奥深くに埋もれた、白紙の未知数であるという事実。
原作でのレオンは、誰とも結ばれず、北の領地で孤独な狂気に沈む「救われない隠しキャラ」だった。
だから、私は彼を予定調和に巻き込むことはできない。
彼は、この世界のシナリオから外れた、唯一の存在なのだ。
私がすべてを「既知」として管理してきたこの箱庭で、彼だけが唯一、計算を狂わせる。
予測できない被写体。
それは、私の撮影計画において、もっとも忌むべき不確定要素だった。
もし、彼が私の「笑顔の嘘」を、学園の貴族たちに――。
あのアルベール殿下に暴露してしまったら?
私が築き上げてきた、静謐なる破滅の筋書きは、一瞬で瓦解する。
悪役として憎まれ、誰の記憶にも残らずに消えていく。
それこそが、愛する家族や、汚れなきヒロインを守るための、最も美しい構図だったのに。
そのハッピーエンドが、彼という一点の染みによって、台無しにされてしまう。
「……どうすればいいの」
自問する声は、重い室内の空気に吸い込まれ、沈黙に塗りつぶされる。
彼に近づき、口封じをするべきか?
いや、それは火に油を注ぐようなものだ。
私という存在を、さらに鮮明に彼の網膜へ焼き付けてしまう。
答えは、一つしかなかった。
――逃げるのだ。
彼を視界に入れず、私もまた、彼の視界に入らない。
徹底して背景に同化し、音もなく、光も反射せず、透明な幽霊として振る舞うこと。
それと同時に、私はさらに冷酷な「悪役令嬢」を演じなければならない。
アルベール殿下やステラに向ける冷ややかな眼差しが、本物の悪意であると、世界に錯覚させ続ける。
レオンの指摘を、ただの「戯言」として埋没させるために。
私は、震えが止まらない両腕を、自ら抱きしめるように締め上げた。
爪が皮膚に食い込み、小さな痛みが意識を現実へと繋ぎ止める。
長く、重い夜が明けるのを、私は瞬きも忘れて待ち続けた。
***
翌日。
学園の廊下は、見えない摩擦に満ちていた。
石造りの床を歩く一歩一歩が、いつもより重い。
ドレスの裾が床を擦る音が、耳障りなノイズとなって神経を逆撫でしてくる。
私はレオンとの接触を断つため、聖域だった裏庭を捨てた。
動線を変更し、死角の多い古い廊下を選んで歩く。
まるで、敵軍の索敵網を掻い潜る、名もなき密偵のように。
だが、運命はいつだって、最も残酷なタイミングでシャッターを切る。
大広間を横切ろうとした、その瞬間。
数十メートル先の、ステンドグラスから差し込む光の渦の中に、その姿はあった。
銀灰色の髪。
軍服のような隙のない制服を纏った、長身の影。
彼がそこに立つだけで、周囲の空気の密度が変わり、音さえも吸い込まれていく。
ざわついていた周囲の貴族たちが、潮が引くように道を開けていく。
畏怖。
彼が纏うのは、他者を拒絶し、孤独を強いる、圧倒的な存在の質量だった。
「……っ」
視線の端に彼を捉えた瞬間、私の背筋に冷たい電流が走った。
見たくない。
目を逸らし、逃げ出したい。
だが、強固な学習能力が、私の首の筋肉を硬直させた。
ここで不自然に視線を外せば、それこそが「動揺」になる。
私は顔面に、分厚い氷を削り出したような「凍りつく微笑」を固定した。
頬の裏側で、筋肉が悲鳴を上げている。
だが、それを表に出すことは、戦場での死を意味した。
彼は、こちらへ歩いてくることはなかった。
ただ、遠くから。
すべてを透過させるような、静かで鋭い青い瞳を、真っ直ぐに私へと向けてくる。
その視線は、私の厚いドレスを、肉を、骨を通り抜け。
奥底で震えている「本当の私」を、正確に露光しているようだった。
息が詰まる。
心臓が、喉元までせり上がってくるような圧迫感。
なぜ、彼だけに見えるのか。
他の誰もが、私の笑顔を「傲慢」や「無関心」だと信じ込んでいるのに。
あのアルベール殿下でさえ、私を「心を持たない陶器の人形」だと罵ったというのに。
「……知らないから、怖いのよ」
図書室の片隅。
窓から差し込む夕日に照らされた木目を、私は指先でなぞっていた。
古い机の表面にある、無数の傷。
その一つ一つを数えることで、爆発しそうな不安を、微細な事象へと霧散させようと試みる。
彼は、私の嘘を指摘した。
だが、それを武器にして私を脅す気配は、今のところない。
ただ、そこに居て。
私が自分自身を傷つけるように偽装うのを、じっと見守っている。
その「干渉しない観察」が、何よりも恐ろしかった。
まるで、被写体が自滅する瞬間を待ち続ける、残酷なカメラマンのように。
あるいは、傷口が塞がるのを待っている、救済者のように。
――違う。
その思考を、私は激しく打ち消した。
救いなど、この世界に持ち込んではいけない。
私は、孤独の中で完成されなければならないのだ。
だが。
恐怖の断崖に立たされながら、私の心の中には、ある不協和音が響き始めていた。
九割を占める、本能的な恐怖。
それを打ち消すことができない、残りの一割。
そこに、名前をつけられない「安堵」が、微かに混じっていた。
私の嘘を、誰かが見抜いてくれた。
私が一人で、血を流しながら笑っていることを、この世界の誰かが知ってくれた。
前世の、孤独な死の瞬間から抱え続けてきた、呪いのような飢餓感。
「誰にも見つからずに消える」ことを誓いながら、その実。
魂の最深部では、「誰かに見つけられたい」と、赤子のように泣き叫んでいた自分。
「……っ、そんなはず、ないわ」
私はその脆い感情を、鉄の意志で握りつぶした。
記録者は、透明でなければならない。
誰かの記憶に楔を打ち込むことは、その人の人生という美しい構図を汚すことだ。
私が抱いた安堵は、ただの錯覚だ。
戦場で見られる蜃気楼と同じ。
私は、悪役なのだから。
全員から憎まれ、石を投げられ、泥を啜って消えていく。
それこそが、私の絶対正義なのだ。
「私は、独りでいいのよ」
自分に言い聞かせるたびに、胃の奥に冷たい石が溜まっていく。
その日の午後。
廊下で私を取り囲む令嬢たちの、甘ったるい香水の匂いが、吐き気を催させた。
「セレスティーヌ様。あの平民のステラ、また図書室で厚かましくも魔導書を広げておりましたわ」
「本当に、身の程をわきまえない……。殿下の御目を汚す不浄な存在ですわね」
扇の陰から、泥のような悪意が漏れ出す。
私は、一切の温度を排除した、完璧な冷笑を浮かべた。
「わたくしに、そのような路傍の石の情報を伝えてどうするのかしら?」
「……えっ?」
「無価値なものに割く時間は、わたくしの人生には一秒もございませんの。不愉快だわ。消えて」
周囲の空気が、凍りつく。
令嬢たちが、私のあまりに鋭利な言葉に気圧され、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
「やはり恐ろしい」「冷酷な女」。
背後に残る囁き声が、心地よい質量となって私の肩に積み重なる。
これでいい。
私の悪役としての解像度は、完璧に仕上がっている。
だが。
廊下の曲がり角。
冷たい影が落ちるその場所に、彼がいた。
レオン・ノワールクール。
彼は動かずに、私の吐いた冷酷な言葉と、顔に張り付いた笑顔を、ただじっと見つめていた。
その瞳には、軽蔑も、怒りも、失望もなかった。
ただ。
「お前はまた、自分を殺してまで笑うのか」
そう言いたげな、痛ましいものを、あるいは懐かしいものを見るような、深く暗い光。
背筋が凍りつく。
右手の指先が、再び、存在しないシャッターを切ろうとして――。
私はそれを、ドレスの襞の奥で、爪が肉に食い込むまで強く握りしめた。
私は、一度も振り返らなかった。
優雅に、傲慢に。
彼という不確定要素から逃れるように、廊下を闊歩し続けた。
私の笑顔が「嘘」であるという秘密。
それを、たった一人の目撃者が共有してしまっている。
その事実は、私が築き上げてきた透明な牢獄に、決して塞ぐことのできない亀裂を生んでいた。
張り詰めたピアノ線の上を、裸足で歩き続けるような日々。
いつ、糸が切れるか。
いつ、私のシナリオが破綻し、醜い素顔が晒されるか。
その恐怖に怯えながら、私はさらに冷たく、さらに孤独な悪役として。
自分自身を、深い闇の色で塗りつぶしていくしかなかった。
彼に見つかってしまった、その瞬間から。
私の孤独な戦いは、すでに、終わりの始まりを迎えていたのだから。




