閑話 氷の公爵の観測
世界は常に、冷酷な魔力の均衡によって成り立っている。
王立学園の北棟。その最果てにある、手入れを放棄された裏庭。
私は、蔦に覆われた石壁の影に立ち、湿った春の空気を肺に取り込んだ。
この場所は、他者の感情という名の煩わしい熱から逃れるためだけの、静かで冷たい聖域だったはずだ。
数日前、密偵から奇妙な報告があった。
ヴァルモン公爵家の長女、セレスティーヌ・ヴァルモン。
あの女は夜な夜な、幼い弟妹のために密かに木彫りの動物を作っているという。
完璧な淑女として振る舞う彼女の、不器用な指先が、一つ一つ微かに震えながら削り出す木片。
それは、王都の社交界で見せる氷点下のような笑顔とは、全く異なる狂おしいまでの平熱の持ち方だった。
私は、彼女から視線を外せなくなった。
学園の廊下を歩く彼女は、周囲の令嬢たちを凍りつかせるような悪女の微笑を浮かべ、優雅に歩を進める。
その所作には、完璧に計算された角度があり、一切の揺らぎがない。
まるで、絶対的な吹雪の防壁のように。
彼女の周囲の空気は常に数度低い。それは、私と同じ「他者との関わりを真っ向から拒絶する」ための冷気だった。
だが、私は気づいてしまった。
彼女の指先が、時折、虚空で小さく痙攣するように動くことがある。
人差し指が、何かを記憶に焼き付けるように空間を切り取る。
存在しないレンズを通して、痛みを分断しようとするかのような奇妙な動作。
それは、彼女が内側に溜め込んだ、決して外へと放出されない悲鳴の唯一の出口だった。
私は、図書室の片隅で、彼女がアルベール王子の婚約者として冷たい言葉を浴びせかけられる姿を見ていた。
ステラ・メルヴィユという平民の少女を、容赦なく追い詰める毒婦の演技。
その瞳には、一切の感情が宿っていない。
まるで、自らを何かの役割に縛り付ける、冷徹な記録機関のごとく。
だが、私は知っている。
あの夜、裏庭で偶然出くわした、彼女の無防備な顔を。
恐怖に歪み、孤独という名の荒野で一人震える、剥き出しの素顔を。
あの時、彼女の瞳の奥には、確かに隠しきれない小さな炎が宿っていた。
本来、私という存在は、北の極寒の地で誰とも関わらず、一人で狂気的な冷気に沈みゆくはずの命だった。
他者の温もりなど、己の氷牙を溶かす厄介な阻害要因でしかなかったのだから。
だが、あの女という致命的な異物が、私の防壁の内側に滑り込んできた。
彼女の孤独と、私の孤独が、互いの温度をひび割れさせ始めている。
不器用な彼女が、いつかその内側に抑圧した熱を暴発させる時。
その破滅の瞬間を、私はおそらく、この目で見過ごすことはできまい。
氷の魔力が、鼓動と共に脈打つ。
私は壁に背を預けたまま、彼女の立ち去った後のただの冷気を、ひどく熱に浮かされたように見つめ続けていた。




