第11話 孤高の公爵に見られた泣き顔
王立学園の北棟。
その最果て、手入れを放棄された裏庭は、重力から見捨てられたような静寂に沈んでいた。
蔦に覆われた石壁が、湿った春の空気を孕んで、微かに重い。
私は、苔むしたベンチの端に、身体の重心を預けた。
石の冷たさが、薄いドレス越しに皮膚の奥へと侵入してくる。
その鈍い痛みに似た感触だけが、私が今ここに「肉体」として存在していることを証明していた。
顔の筋肉が、じわりと弛緩していく。
日中、鋼のような意志で釣り上げていた口角が、自重に従って落ちた。
頬の裏側で、無理な笑顔を維持するために張り詰めていた腱が、小さな悲鳴を上げながら解けていく。
ここは、絶対的聖域。
「悪役令嬢」という役割を脱ぎ捨て、ただの元・戦場カメラマンに戻れる唯一の場所。
私は、酸素を求める魚のように、ゆっくりと、深く、肺の底まで空気を流し込んだ。
「……本当は、怖い」
唇からこぼれ落ちた言葉は、重力を持って地面に転がった。
誰にも届かない。誰の鼓膜も震わせない。
ただ、枯れ葉の堆積した土に吸い込まれていくだけの、無価値な音の塊。
前世。あの硝煙と死臭が支配する野戦病院で、私は一人、レンズを覗きながら息を引き取った。
意識が指先から少しずつ千切れていく、あの絶対的な断裂の感覚。
今世でも、私はまた、あの「消失」へと向かって歩いている。
誰の記憶にも残らず、誰の体温にも触れず、ただ世界の美しい構図を守るための「背景」として消える。
それが、私がこの世界に転生した意味であり、唯一の贖罪だと思っていた。
だが、喉の奥に、得体の知れない熱い塊がせり上がってくる。
嚥下しようとしても、食道が拒絶するように収縮した。
肺が十分な酸素を取り込めず、胸郭が歪に軋む。
泣きたいわけではない。ただ、自分の存在そのものが、薄い膜のように世界から剥がれ落ちていく感覚。
――カサリ。
その時、静寂の膜が、鋭い刃物で切り裂かれた。
硬い靴底が、湿った枯れ葉を押し潰す音。
その「抵抗」の音に、私の全身の毛孔が逆立った。
心臓が、肋骨の裏側を拳で叩くような衝撃を刻む。
私は、思考よりも先に顔の筋肉を「悪役」の型へと強制的に嵌め込んだ。
ピキリ、と頬が引き攣る音が脳内で響く。
数メートル先。
長く伸びた木々の影が、一人の男の輪郭を形作っていた。
銀灰色の髪が、薄暗い裏庭で鈍い光を反射している。
軍服のように隙のない立ち姿。そして、深海よりも冷たく、重い、青い瞳。
レオン・ノワールクール。
この世界のシナリオにおいて、唯一ピントが合わない「予測不能な変数」。
彼は、彫像のように動かず、ただ私を見下ろしていた。
「あっ……」
私は反射的に立ち上がろうとしたが、膝が裏切るように笑った。
震える指先でベンチの縁を掴み、無理やり笑みを固定する。
しかし、遅すぎた。
レオンの瞳は、私が「仮面」を装着する直前の、その無防備な顔を捉えていた。
眉間に刻まれた、幼児のような怯え。
歪んだ唇。剥き出しになった、孤独という名の致命的な傷口。
彼は無言だった。
軽蔑も、驚きも、憐憫さえもない。
ただ、私の魂の最深部を、冷徹なレンズで測定するような、静かな圧迫感。
呼吸が、止まる。
彼が立っている場所だけ、世界の密度が異常に高まっているように感じられた。
私は彼を見上げ、彼も私を見つめる。
やがて、彼は何も言わずに背を向けた。
硬い靴音が、一歩ごとに地面の湿り気を弾き、遠ざかっていく。
その姿が完全に消えた後も、私の肌には、彼の視線が触れた場所が熱を帯びて残っていた。
***
翌日。
学園の廊下は、いつも通り「情報の海」だった。
令嬢たちの香水の匂い、少年たちの無責任な笑い声、石畳を叩く無数の足音。
私は、昨日の出来事を意識の奥底、アクセス不能なディレクトリへと押し込めていた。
背筋を伸ばし、顎を引き、周囲を凍らせるような完璧な微笑をまとう。
私はカメラマン。私は観測者。私は、誰の物語にも干渉しない「透明な記録者」。
「おはようございます、殿下」
すれ違いざま、アルベール王子に最敬礼を送る。
彼の「高慢な女だ」という軽蔑を含んだ視線さえ、今の私には心地よい防壁だった。
嫌われ、遠ざけられること。それこそが、私の孤独な安全圏。
放課後。
夕日が廊下を、焦げ付いたオレンジ色に染め上げていた。
西棟の長い回廊。
その向こうから、一つの、規則正しい足音が近づいてくる。
一歩。一歩。
そのリズムが、私の心拍を強制的に書き換えていく。
銀灰色の髪が、逆光の中で光の輪を背負い、巨人のような影を私へと伸ばした。
レオン・ノワールクール。
私は、彼という「障害物」を回避するため、壁際へと寄った。
歩みを止めず、視線を落とし、完璧なカーテシーで彼を「風景」として処理しようとする。
だが。
私の目の前で、光を遮るようにその足音が止まった。
「……っ」
肺が、不自然な停止を命じられた。
目の前の大理石の床。そこに、彼の黒い靴の先が並んでいる。
逃げ場のない沈黙が、空気の粘度を急激に上昇させた。
一秒が、泥のように重く引き延ばされる。
私の張り付けた笑顔の裏側で、顔の筋肉が微細な痙攣を始めた。
冷や汗が、背筋を一筋、氷の粒のように滑り落ちていく。
耐えきれず、私は顔を上げた。
視界の半分を、彼の高い胸板が占めていた。
見上げるレオンの顔は、昨夜と同じく無表情で、だがその青い瞳の奥に、逃れられない重力のような熱が宿っている。
やがて、彼の低い、けれど鋭い針のような声が、私の鼓膜を貫いた。
「――昨日の顔の方がいい」
心臓が、一瞬だけ機能を停止した。
喉の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
その言葉は、私が築き上げてきた三十三年の防衛線を、一撃で粉砕した。
「昨日の顔」。
あの、みっともなく歪み、孤独に震えていた、誰にも見せてはならないはずの素顔。
彼だけが、その「嘘」の裏側に指をかけ、引き剥がそうとしている。
「……何を、仰っているのか、分かりかねますわ」
声が、ひどく掠れていた。
言葉にしようとしても、意味が唇に張り付いて剥がれない。
笑顔を修復しようとしたが、頬の筋肉が自分のものではないように、力なく垂れ下がった。
レオンは、私の動揺を嘲笑うこともしなかった。
ただ、私の瞳の奥で悲鳴を上げている「私」を、じっと、逃さずに見つめ続けている。
まるで、シャッターを切る瞬間のような、絶対的な捕捉。
彼はそのまま、私の横を通り過ぎた。
風が巻き起こり、彼の体温が微かに私の頬を撫でる。
残されたのは、世界に一人きりで放り出されたような、暴力的な喪失感。
「……あ……」
膝が、がくがくと震えた。
壁に手をつかなければ、そのまま床に吸い込まれてしまいそうだった。
指先が、ドレスの絹の生地を、白くなるほど強く握りしめている。
怖い。
私は、見られる側にはならないはずだった。
フレームの外側で、静かに世界の終焉を見届けるだけの存在。
だが今、私は決定的に「被写体」へと引きずり戻されてしまった。
彼の言葉が、喉の奥に不吉な楔として突き刺さっている。
「昨日の顔」。
その響きが、心臓を直接素手で握られているような、生々しい圧迫感となって消えない。
私は逃げるように歩き出した。
大理石に響く自分の靴音が、これまでの「完璧なシナリオ」の崩壊を告げる鐘の音のように聞こえた。
自室の扉を閉め、闇の中に崩れ落ちた私は、自分の震える肩を抱きしめた。
窓から差し込む月の光さえ、今は私を監視するレンズのように感じられて。
私が必死に守り続けてきた孤独が、一人の男の視線によって、無惨に、そして取り返しのつかないほどに狂わされていく。
その恐怖を、私はただ、身体全体で「質量」として受け止めるしかなかった。




