第五十四便 血染めの手袋とか言わないでっ!
七つ道具(七つでは足りない)
廉価版軍手 ほぼ使い捨て感覚なので、たいてい十双くらい予備で持っています。
お客様と一緒に作業、と言う場合、新品があれば差し上げることもあります。
でも、ヴィオレットの〝臭い〟は意味が違ったみたい。
『何か出発前に魔獣に近づいた時と同じ匂いがしますの』
そうか。
お兄ちゃんが給油した時の〝残り香〟だね。
ていうか、さすがに前線にいただけあって、こういう緊迫した場面では子供なのに意外と冷静だ。
もちろん、その時とは量が違う。今は休耕地全体に気化するよう、お兄ちゃんが約10リットルのガソリンを撒いてる。
〝南風のフェアリー〟がこの匂いを嫌ったら?
そんな不安も頭をよぎったけど、今考えても仕方ないし。
その間にも、休耕地の北端までオレを走らせたグリシーヌが円の続きを描く。ヴィオレットが姉を振り向いて叫んだ。
『なっ! お姉さま! ぐるっと回ってフェアリーの方にむかっているですの!』
ハンドルさばきに慣れて来たグリシーヌが妹を一瞥する。
『文句ならフッフと荷車の騎士様に言って!』
『魔獣! どういうことですの?』
『一周するってことはそういうことだよ、ヴィオレット』
視界の端に映り始めた南風のフェアリーは思ったより追いついて来ている。
『どんどん近づいてるですの!』
「フッフ! もう少しスピードを!」
ヴィオレットの焦りに、屋根の上からのお兄ちゃんの声が重なった。
『グリシーヌ、もう少しだけアクセルを強く踏んで! でも踏みすぎると曲がり切れないから、ほんの少しだけっ!』
『初めてなのにそんな微妙な加減なんてできるわけないじゃない!』
『さっきお兄ちゃんの指をいい感じでしゃぶってたじゃん! あれ初めてじゃないのっ?』
『は、はじめてに決まってるでしょっ! それにしゃぶってたんじゃないわ! 舐めてたの!』
『おんなじじゃん! エロいことに変わりないじゃん!』
『違います違います違います!』
グリシーヌが真っ赤になったけど、そのせいかどうか、いい感じにスピードが上がった。でも、その分更に南風のフェアリーの黒い集団が迫って来る。
同時に円の完成も近づく。
『七十馬身、五十馬身。四十……。荷車の騎士! 魔獣! このままじゃフェアリーに飲み込まれてしまいますの!』
『いまだ! ハンドルを更に拳二つ分左に!』
グリシーヌがハンドルを切りこむ。オレが横滑りしながら南風のフェアリーに背を向ける。テールが流れてアンダーが出る。
『ハンドルを右に戻して!』
本能かどうか知らないけど、グリシーヌはカウンターを当て気味にオレの体勢を戻し、完全に北に向けた。
『そしたらアクセルベタ踏みで!』
オレが言う前にグリシーヌが右足を踏み込む。上気した顔に少しだけ安堵と満足感が見える。
『お姉さま! 魔獣! 安心してる暇はないですの』
ヴィオレットがもう一度窓の外を見た。
『フェアリーが勢いを増してるみたいですの』
「ヴィオレット姫様!」
いつの間にかルーフキャリアに戻ったお兄ちゃんの声が聴こえた。
「左手を窓の外に出して下さい」
『??』
ヴィオレットがいぶかしがりながら、オレが通訳するまま小さな左手を差し出した。あっという間もなくヴィオレットが消えた。
『ヴィオレット?』
グリシーヌが二度見する。
「お兄ちゃん?」
屋根の上の影は二人になっていた。
「引っ張り上げた?」
まあ、ヴィオレットはどう見ても30㎏台だし、お兄ちゃんなら余裕で片手で引き上げられるだろうけど。
それはともかく、往路同様キャリアにくくりつけてあった弓と矢を、お兄ちゃんがヴィオレットに渡す姿も映った。
『ななな何ですの?』
「ヴィオレット姫様、あの休耕地にフッフが魔法円を描きました」
お兄ちゃんが後方、多分休耕地を指さす。
「南風のフェアリーがあの魔法円の真上に来るタイミングで、あの真ん中の手袋めがけてこの火矢を放てますか?」
『手袋って、あれ、明らかに血染めですの! それに荷車の騎士の指も血まみれだし!』
「念のためです。ともかく、遠過ぎず近過ぎず、正確にあの手袋のあたりに矢を射ることはできますか?」
『この距離の倍くらいまでなら十分届きますの!』
ヴィオレットが強気で言う。
『で、でも、こんな速い馬から射たことはないですの』
「フッフ! グリシーヌ姫様! スピードを緩めて! 時速40㎞くらいに!」
グリシーヌはだいぶ慣れ感じでアクセルを緩める。
「これでどうですか?」
『鞍も鐙もないから安定しないですの』
「俺がヴィオレット姫様の腰を支えています」
『血に染まった手で?』
「いやですか?」
『し、仕方ないですの! が、我慢しますの!』
二人の影が重なりやがる。
『ヴィオレット! 南風のフェアリーはどう?』
『そんなに気になるんだったら自分で見てよ!』
グリシーヌが(やけに怒った様子で)オレ(スマホ)をホルダーから引っ張り、窓の外に差し出した。
『片手運転、大丈夫?』
『そんなことよりフェアリーは!?』
ガソリンで円形に濡れた休耕地。
その真ん中に血染めの手袋が見える。
そして、一つの生き物みたいにオレたちを追って来る黒い影。
お兄ちゃんの声が聴こえる。
「まだです」
その影が〝魔法円〟にさしかかる。
「まだです」
休耕地を魔物のような長い影が覆う。
「まだです」
「お兄ちゃん?」
『荷車の騎士様?』
と、フェアリーの動きが一瞬鈍り、円の外へと散り散りに拡散しかける。
「やっぱり、ガソリンの匂い?」
『まさか、……失敗?』
でも、〝南風のフェアリー〟の一匹一匹が突然方向を変え、手袋めがけて急降下した!
「今です!」
風切り音が聴こえ、遠ざかる。黒い影よりほんの僅か早く、火矢が手袋に刺さり、そして……。
(人間なら)耳をつんざくような轟音が響く。
黒い影が瞬時に吹き飛ぶ。
炎が地面を這って広がり、強い風で舞い上がる。
干し草が燃え上がり、上空へ逃げようとする南風のフェアリーの残党を飲み込んだ。
悲鳴のような羽音は、やがて休耕地を埋め尽くした炎の海に沈んでいった。




