第百三便 さよならなんて言わないでっ!
朝日を背後から感じながらお兄ちゃんがオレを停めた。
森に突き当たって、これ以上進めないってのもあるけど、それより、オレが「もう無理」って言ったから。
お腹が空いて、もう、気力がない。
走れても多分後数キロ。その後はバッテリーが切れるのを待つだけ。
お兄ちゃんがこれからどこへ行こうとしてるのか、この先何をしたいのか、オレにはもう、確認する時間がない。
野営地に置いて来たグリシーヌたちにも、もう会えない。会ってもオレにはそれがわからない。
でも、バッテリーが切れるまで動かない景色を眺めているのも、何だか怖い。
だからせめて、バッテリーがあるうちにOBD2も切ってもらって、〝夢〟の中で自称女神に文句言いまくろう。
一人残すお兄ちゃんが心配だけど。
どうにかグリシーヌやヴィオレットたちを説得して残し、出発した後、オレはお兄ちゃんに、自称女神には否定されたことを訊いてみた。
「お兄ちゃんって、実は元の世界だと、特殊機関の秘密のエージェントとかだったんじゃない?」
お兄ちゃんは、最初は笑って、「そうだといいね」なんて言ってたけど、オレがマジだってわかると、優しい笑顔を浮かべた。
「それはないよ。俺はただの職業ドライバーだ。ほとんどの部分で、はっきりとした記憶もあるしね」
「それ、実は誰かが植え付けた記憶だとか?」
「洗脳みたいなのがあったとしたら、それが絶対ない、なんてそもそも言えないけど、でも、仕事をしてた記憶自体は不自然じゃないし。フッフこそ、どうしてそう思うの?」
「だって、普通の人がいきなり異世界に来て戦えるって、おかしくない? しかも、実質二日で島の英雄だよ?」
「うーん」
お兄ちゃんが少し考え込んでから言った。
「まず、俺にはフッフがいた。これは、この世界の人たちとの圧倒的な差だよね。フッフがいたから、馬では追いつかれてしまう南風のフェアリーを引き離すことができた」
「う、うん……」
何だか自分で振ったみたいで居心地が悪い。
「それに、手持ちのグラインダー、ガソリン、ライター、それから積み荷には電動ネイラー、カーバイド、ブートジョロキア、パラグライダー、ドローンという、いわゆる文明の利器があった。水や車載用冷蔵庫も役に立っている。積み荷に関しては、まるで誰かがこの状況をあらかじめ想定していたみたいに」
それはオレも思う。
自称女神も怪しいし。
「でも、それ以上に、俺はここへ来て、一度も〝戦って〟はいないよ」
お兄ちゃんが真顔でオレ(ホルダーのスマホ)を見た。
「え、でも、戦闘続きじゃ……」
「南風のフェアリーについては、フッフにさえ乗っていれば振り切れるってわかってた。パラグライダーからの攻撃は一方的だ。敵の攻撃が当たらないところからだからね。両方とも、絶対的な優位を利用した一種の〝殺戮〟だ。ナパームで森を焼き払うっていう、あれだよ」
「あ……」
「モーヴ少将については、目が見えないのを知って人質に取った。彼女を解放し、ディレター中将たちと対峙した時は、既にシェーヌさんたち東の国の兵士が追い付いていたし、数の上で圧倒的に有利だった」
「そ、そう言えば」
「しかも、年端のいかないグリシーヌ姫様やヴィオレット姫様を、何だかんだでかどわかしてる状態だ」
あ、自覚あったの?
実は既にグリシーヌでさえこの世界じゃ適齢期だってのは黙っておくけど。
「俺も元の世界で良く〝チート〟って言葉を聞いたけど、俺がやってることこそまさしくその〝チート〟っていうか、もっとストレートに言えばズルだよね」
確かに、全てがお兄ちゃんに都合よく動いてる。
そしてお兄ちゃんも、それをうまく利用してる。
「でもね、今はこのチートを生かすしかない。できれば原因を突き止めたいけど、そのためには生き残らなければならない。チートであろうとズルであろうと、ね」
そりゃそうだよ。
そりゃそうだけど。
「……そういえば、結局ヴィオレットに何で水浴びさせたの?」
「ん、ああ」
お兄ちゃんは少し言い淀んだ後、苦笑しながら言った。
「助手席に乗った時もそうだったし、馬に乗せてもらった時もそうだったんだけど、ヴィオレット姫様がね、俺にお尻を押し付けて来る感じだったんだよ」
「はぁっ!?」
何それ!?
あのメスガキッ!?
つーかお兄ちゃんもお兄ちゃんだよっ!
「そ、それで水浴びって、どういう流れっ!?」
「ルーフキャリアでヴィオレット姫様の腰を支えた時、彼女の服の腰の部分には俺の血がついた。ヴィオレット姫様は、城に帰ってもその服を着替えなかった」
そ、そう言えば、グリシーヌは着替えてたけど、ヴィオレットはそのままだった。
「南風のフェアリーに噛まれ、生き残った者はいないという。そしてその俺の血を吸ったグリシーヌ姫様は、一瞬と言えどフェアリーと何らかの形で心を通わせた。それ位強力な血の匂いを、ほんの僅かだとしても一日中全身に浴びていたヴィオレット姫様は、そのせいでおかしくなったのかもしれない。その血の主の俺に対しておかしな言動をとるのかもしれない。そう思ったから、失礼だけど水浴びをしていただいた。東の砦を通過するまでにすでにおかしかったから、そこで着替えを借りておいて」
「ま、まさか一緒に水浴びしてないよね?」
「するわけないでしょ? 子供とはいえ、他人の女の子だよ」
ふう、一応紳士だった。
「まあ、温水に慣れた俺には、いくら気候がいいからって水はちょっと寒いし」
前言撤回。外道だった。
それはともかく、戻って来てからお兄ちゃんが『膝の上』を断固として拒絶してたのは、そういうことか。
ヴィオレットの様子がちょっとおかしかったのは、それまでの自分が少し恥ずかしかったのかな?
「で、でも、ちゃんとした理由があるなら、グリシーヌに言えばいいじゃん」
「言えないよ、そんなこと。グリシーヌ姫様だってまだ子供だし」
「(本人の自覚は違うけど)『君の妹、俺にお尻こすりつけて来て迷惑なんだけど』なんて言えないってこと? その結果、嫌われたり叩かれたりしても?」
「まあ、それもあるけど」
お兄ちゃんがミラーで見えない後方を見やる。
「俺がそんな話したら、そこまで強力なフェロモンというか毒というか、とにかくそれを体内に取り込んでしまったグリシーヌ姫様が不安になっちゃうかもしれないでしょ?」
いや、その前に怒り狂うと思うけど。
「素人の予想で不安を煽るなんて、大人が子供に、一番やっちゃいけないことだからね」
うん、まあ、正論だね。
でも、まあ、お兄ちゃんには……。
「まあ、俺にはそんなこと言う資格ないけどね」
いつか見たような寂しげな笑顔を浮かべて、お兄ちゃんがわらった。
そうだね。
お兄ちゃん、何だかんだでナチュラルに鬼畜だよね。
でも、それも含めて、楽しかったよ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
オレから降りたお兄ちゃんに笑いかける。
〝さよなら〟なんて言いたくないから、涙も(ほんとは出ないけど)見せたくないから。
「ありがとう、フッフ」
お兄ちゃんも笑う。
いつも通りの優しい笑顔。
そしてオレのダッシュボードを撫でると、その手をOBD2のスイッチに伸ばした……。
注1 『地獄の黙示録』




