第91話 アシュフォード少佐
領主館の応接室には、ミハイルとコンラッド、そしてイレーネの三人が並んだ。
向かいの長椅子にはルパートとセシリアが腰掛けている。簡単な挨拶が済み、侍女が茶を置いて退室すると、室内にはそれまでとは違う、肌を刺すような張りつめた静けさが残った。
「それで、私から質問するのも気が引けるが、王都ではどうなっている?」
ミハイルの重々しい問いに、ルパートはカップへ伸ばしかけた手を止めた。こちらの用件を言わなくても分かっているのだろう。あえてミハイルから話しかけてくれたのだ、乗らない手はない。
「まあ、端的に言いますと――大混乱ですねえ」
口調は相変わらず軽かったが、話し始めた内容は決して軽くなかった。
初めは、海軍。イレーネが王都を去った前後から、王国海軍に関わる人間が次々と姿を消した。士官、海運や航路に関わる担当者、工廠の技術者。そして練習艦隊に所属していた練習生たちまでが、あらかじめ決まっていた計画に乗るかのように、まとまって王都からいなくなっている。これが正規の軍事作戦であったならば、まったく見事なものだと公然と賞賛したいくらいだ。
「昨日まで普通に仕事をしてた人間が、次の日にはいない。こっちの部署へ聞きに行けば、そこも人が足りない。練習生までまとめていなくなって、軍港も海軍省も大騒ぎですよ」
ルパートはそこで茶を一口飲み、静かにカップを戻した。陶器の触れ合う僅かな音が、静寂に響く。
「しかも、第二練習艦隊の旗艦まで行方不明です。さすがにそこまで重なると、『全部イレーネ・タラシアが裏で糸を引いたんじゃないか』って声も出ますよねえ」
ルパートが見透かしたようなイレーネへ視線を送る。当のイレーネは何も答えず、澄ました顔で茶を飲んでいた。その表情は否定も肯定もしない。
「さらに、海図や水路資料、航路に関する記録まで一緒に持ち出されたんじゃないかって疑いも出ています。海軍省が一番神経を尖らせているのは、むしろそっちかもしれませんね」
そこまで聞いて、ミハイルの目が鋭くなった。大貴族としての威圧感が、室内の温度をわずかに下げる。
「それは、我々が王国海軍の機密を盗み出したと言いたいのか?」
声も先ほどより一段低い。
ルパートはその変化を見逃してはいなかったが、気圧された様子もなく、困ったように肩をすくめた。
「いやあ、怖いなあ。そんな目で見ないでくださいよ、タラシア卿。僕ちゃんがそう言ってるわけじゃありません。王都でそういう疑いが出ている、という話です」
「では、君自身はどう考えている?」
今度はコンラッドが問いを向けた。ルパートは一度だけイレーネを見てから、何でもないことのように首を傾けた。
「さあ。証拠がありませんからねえ」
それ以上は言わなかった。本当に分からないから言わないのか、分かっていて言わないのか。その表情から読み取ることは難しかった。
「それと――」
ルパートは一度言葉を切り、今度は話題を少し変えた。
「海軍とは別に、王都の方もなかなか大変なことになってますよ」
「王都が?」
少し驚いたかのように、ミハイルが眉を上げる。
分かっているくせに。いかにも知らなかった風な反応をして。これだから大貴族は面倒くさい。ルパートは内心苦笑いしながらも、飄々とした表情を崩さずに答えた。
「ええ。最近、アルカディアへ移る人間がずいぶん増えてるでしょう。職人や技術者だけじゃなく、読み書きや計算のできる人間まで、王都を離れてこちらへ向かってる。特にギフト持ちは好待遇で募集しているじゃないですか。商会や工房じゃ人を取られたと騒いでますし、あちこちで人手の奪い合いになってるそうですよ。王城では、これもタラシア家が王都を混乱させるためにやってるんだなんて騒がれてますねえ。アレクシオス殿下なんて相当お怒りなんだとか」
こちらは海軍内部の混乱とは違い、王城をはじめ、王都そのものに広がっている話だった。ミハイルはアレクシオスが激怒していると聞いても少しも動じなかった。
「それについては、こちらにも言い分があるな」
「と言いますと?」
「王太子殿下のご意向に従って、王都ではこれ以上活動ができないのでな。そもそも、アルカディアは以前から人手が足りていない。役人も、技術者も、職人も必要だ。だから広く人材を募集している。それだけの話だ。」
ミハイルはルパートから目を逸らさず、そのまま続ける。
「募集は公に行っているし、ここへ来た者たちは自分の意思で応募している。こちらも正規の手順を踏んで受け入れているだけだ。王都から人を連れ出すよう、誰かに命じた覚えはない」
「なるほど」
ルパートがゆっくり頷いた。
「タラシア家は王都で活動が出来なくなったため、より領地を発展させることに尽力したい。だからアルカディアは人が欲しい。それで人材を幅広く募集した結果、王都の人たちがこぞって応募してきた、と」
「そういうことになるな」
「なるほどねえ」
またしてもルパートの目がイレーネへ向いた。イレーネは相変わらず、まさに貴族の令嬢の手本のように優雅に茶を飲んでいる。カサンドラの薫陶がこのような場で生きていた。
海軍から人が消えたことも、王都からアルカディアへ人が流れていることも、時期だけを見れば随分と都合よく重なっている。だが、それだけだ。どちらについても、イレーネが誰かに強制したという証拠は何一つ残っていない。
ルパートはしばらくイレーネを眺めていたが、やがて興味を失ったように視線を外した。
「まあ、そういうことなら、僕ちゃんから言えることはありませんねえ」
「少佐は、ずいぶん物分かりがいいのだな」
コンラッドが半ば探るように言うと、ルパートはにこりとする。
「疑わしいだけで犯人扱いするのも面倒じゃないですか」
その本音とも建前ともつかない答えに、コンラッドは何とも言えない顔をした。
ミハイルは改めてルパートを見る。
「では、王国はどうするつもりなのだ」
「僕ちゃんに下っている命令は情報収集だけですからねえ」
今度の返答は早かった。
「イレーネ殿の所在を確認する。海軍関係者や練習生たちがどこへ行ったのかを調べる。第二練習艦隊旗艦についても、行方が分かれば確認する。そして、見たこと、聞いたことを王都へ持ち帰る。それだけですよ」
ルパートは自分に与えられた命令を淡々と説明すると、何も持っていないことを示すように両手を軽く広げる。
「実力行使の命令は受けていません。第一、僕ちゃん、争い事嫌いなんだよねえ」
「少なくとも、君自身にはここで事を構える意思はない、と?」
ミハイルが確認すると、ルパートはすぐに頷いた。
「ありませんよ。それに快速船一隻でアルカディア相手に何をしろっていうんです。僕ちゃん、そこまで勇敢じゃありません」
冗談めかした言葉だったが、ミハイルの視線から鋭さがわずかに薄れた。
アルカディア側とて、王国が突然軍を送り込み、力ずくで何かを始めると本気で考えていたわけではない。少なくとも、まだそこまで事態は進んでいないと見ている。だが、王国海軍旗を掲げた軍艦が突然港へ姿を現せば、警戒するのは当然だった。
ミハイルはしばらくルパートの顔を見たあと、ゆっくりと椅子の背へ身体を預けた。
「どうやら、何やら行き違いがあったようだな」
「行き違い、ですか?」
「先ほども言ったように、こちらとしては、王太子殿下より王都から退去するよう申し渡されたので、それに従っただけだ。海軍もしかり、商会を含め王都での活動すべてな。我々のものを引き上げただけに過ぎん」
あまりにも平然と言うものだから、ルパートは一度だけ瞬きをした。さすがは大貴族、ものはいいようだ。
隣ではコンラッドが何も言わず茶を飲み、イレーネも相変わらず澄ました顔でカップを手にしている。
「……なるほど」
ルパートはそれ以上追及しなかった。
王都で何があったのかは、彼もおおよそのところを聞いている。ミハイルの言葉にどれほどの含みがあるのかも分かっていたが、それを一つずつ問い質したところで、話が面倒になるだけだった。
「王国側に別の認識があるのであれば、いずれ正式な使者が来るだろう。そのときに改めて話を聞けばいい。こちらから今すぐ申し上げることはない」
ミハイルがそう締めると、ルパートもあっさり頷いた。
「まあ、それがよろしいでしょうねえ」
そして、ふと思い出したようにイレーネへ視線を移す。
「そういえば、もう一つ。海軍省からイレーネ殿へ召喚状が出ていたはずなんですが」
「召喚状?」
ミハイルが眉を寄せる。
「王都のタラシア邸へ届けたと聞いています」
自然と父の視線が娘へ向いた。
「私は知らんな。イレーネ、何か聞いているか?」
「いいえ、何も」
今度はルパートが少し首を傾ける。
「執事の方に伝言した、と聞いてるんですけどねえ」
「そうでしたか」
イレーネはわずかに考えるような仕草をしてから、何でもないことのように答えた。
「あいにく執事はまだこちらへ着いておりません。王都を出る前にいくつか仕事を任せて、そのあとネイモへ立ち寄っていますので」
「……なるほどねえ」
ルパートはイレーネの顔を見る。イレーネも、その視線を真っ向から受け止めた。
ほんの数秒の沈黙のあと、ルパートはふっと肩の力を抜いた。
「まあ、いいか」
隣にいたセシリアが、わずかに顔を動かす。ルパートに対する呆れと、少々の苛立ちがその横顔に滲んでいた。
「いいのですか、少佐」
「だって届いてないって言ってるんだから、しょうがないじゃない。それに、確認したいことがあるから来てくれ、って程度の話だよ。無理やり連れて帰れとは言われてないし」
そこで本当に話を切ったらしい。ルパートはカップを置くと、窓の外へ目を向けた。領主館の高い位置からは港の一部が見え、朝の光を受けた帆柱が幾本も空へ突き出している。
「しかし――やはり素晴らしいですな。アルカディアの港は」
突然変わった話題に、ミハイルがわずかに眉を上げた。
「王都の港にもひけを取らない。いや、規模だけならこちらの方が大きいくらいかもしれない。運河もあるし、工廠も船渠も多い。入ってくる途中、ずいぶん見応えがありましたよ」
「そう見えるか」
ミハイルが窓の向こうへ目をやると、ルパートもその視線を追うように港を眺めた。
「ええ。船乗りなら見ていて飽きません。さすがアルカディア。まさに、船乗りの聖地と言っても過言じゃないと感じました」
アルカディアについて絶賛すると、ルパートはふとイレーネの方へ顔を向ける。その目が、いたずらっぽく細められた。
「そういえば、その工廠の一つにですねえ。妙に見覚えのあるガレオンが入ってまして」
何を言い出すのか分かったのか、イレーネはカップを置きながら平然と答えた。
「ガレオンなら、アルカディアでもまだ珍しいとはいえ何隻かありますから。今後はもっと増えると思いますよ」
「そうでしょうねえ」
ルパートはにこにこと頷いたものの、もちろんそれで話を終えるつもりはないらしい。
「ただ、その船がですね。第二練習艦隊の旗艦に、ものすごくよく似ていたんですよ」
「そうですか?」
イレーネが何食わぬ顔で首を傾げると、ルパートは笑みを崩さないまま大きく頷いた。
「ええ。ものすごく」
イレーネは少しも表情を変えなかった。むしろ、その唇の端をわずかに持ち上げる。
「よければ、ご覧になります?」
「ぜひ」
目の前で高度な腹芸が繰り返されてるのを静観していると、あまりにもあっさりと例の船がある工廠の見学話が決まったため、セシリアだけが戸惑い、二人を交互に見た。隠す気があるのかないのか分からないタラシア家と、それを追求する気があるのかないのか分からない上司のやり取りに、頭が痛くなってくる。
「では、このあとご案内します。その前に休憩室を用意しておりますので、朝食がまだでしたら、お茶と軽いものでも召し上がってください」
「それはありがたいなあ」
「少佐は船でも朝食を召し上がっていたでしょう」
セシリアがすぐに低い声で指摘すると、ルパートは悪びれもせず答えた。
「船の保存食で作った朝食と陸の朝食は別だよ」
だから、そんなだらしない腹になるのだと、小言の一つも言いたかったが、タラシア家当主の御前でもある。諦めてセシリアは黙ったまま目を閉じた。
「では、ありがたく頂戴いたします」
やがて侍女の案内に従って、王国側の二人が部屋を出ていき、扉が閉じる。廊下を歩く足音が遠ざかるまで待ってから、ミハイルはイレーネへ目を向けた。
「イレーネ」
「はい」
「あの男は、どういう人物だ?」
イレーネはすぐには答えず、一度だけ閉じた扉を見た。
「ルパート・アシュフォード少佐。家名からも、ご存じかとは思いますが、アシュフォード家の本家筋で、一応嫡男だと記憶しています。エドガー・アシュフォード提督の甥です。なりはああですけど、船乗りとしてはなかなか優秀ですよ。部下の評判もかなりいいです」
「……まったくそうは見えんな」
「でしょうね」
おかしそうにクスクスと笑うイレーネを見ながら、ミハイルも苦笑した。そして、先ほどまでルパートが座っていた場所へ視線を向ける。
「召喚状の件も、本当にあれで納得したと思うか?」
「まさか」
イレーネは即答した。
「全部分かってると思いますよ。私たちが何を言ったかだけじゃなく、何を言わなかったかまで」
「なら、なぜ追及しない?」
ミハイルが尋ねると、イレーネはあっさり答えた。
「面倒だからです」
父が呆気にとられたような顔をして、一瞬黙る。
「……それだけか?」
「それだけです。事なかれ主義で、争い事も嫌い。でも、何も分かっていないから動かない人じゃありません。分かった上で、やる必要がないと思ったら動かない人です。生粋の怠け者ですね」
イレーネはそこで一度言葉を切り、先ほどルパートの隣にいた女性士官を思い出すように視線を動かした。
「副官の女性を見ました? 彼女、アシュフォード家の現当主に命じられたお目付役ですよ。余計なことをしないようにって話ですが実際は逆ですね」
ティーカップに手を伸ばし、ミハイルをチラリと見る。
「むしろサボりすぎないよう見張っているのだとか」
ずいぶんと面白そうにイレーネがルパートのことを説明する横で、ミハイルはしばらく考えるように指先で肘掛けを叩いた。
「なるほど。それなら、確かに油断はできないが、取り立てて警戒し過ぎる必要もないか」
「はい。少なくとも今のところ、敵に回っている人ではありません」
ミハイルは頷いたあと、ふと思い出したように娘を見た。
「それにしても、ずいぶんお前を気に入っている様子だったが?」
「ええ。以前から、ずいぶん買っていただいているようです」
イレーネが特に気にする様子もなく答えると、ミハイルは少しだけ口元を緩めた。
「なら、うちに引き込むか? アシュフォード家の嫡男なら申し分ない。ちょうど婚約者もいなくなったところだしな」
「父上!?」
隣で聞いていたコンラッドがぎょっとして父を見る。
だが、話題の当人であるイレーネは眉一つ動かさず、あっさりと首を横に振った。
「それはないと思いますよ」
「そうなのか?」
「はい。彼から恋愛的な感情は感じません」
イレーネはそこで少し考え、どう説明したものかと視線を上へ向けた。
「なんというか……見守られているというのか。劇場の人気女優を贔屓にして、舞台へ出てくるたびに喜んでいる客みたいな……」
言葉にしてみても自分でよく分からなかったらしく、イレーネはわずかに首を傾げた。
「うまく言えませんけど、とにかく、ちょっと違う感じがします」
「……そういうものか」
ミハイルは面白そうに娘を眺めていたが、コンラッドだけはまだ何とも言えない顔をしている。
「父上も、いきなり何を言い出すんですか」
「少しくらいからかってもいいだろう。せっかく娘が家に戻ってきたんだからな」
「お父様まで、朝から何を言ってるのよ」
イレーネは呆れたように返したものの、その声に本気で嫌がっている様子はなかった。張り詰めた対談のあとの、穏やかな家族の時間がそこにはあった。
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