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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第4章 富国強兵

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第90話 来訪者

朝の海は穏やかだった。


東の空から昇り始めた朝日が、まだ淡い色を残す海面を照らしている。風は弱く、緩やかなうねりだけが、静かな海の上をゆっくりと渡っていた。


その海を、王国海軍の快速船がアルカディア半島の沿岸に沿って進んでいた。船がうねりを越えるたび、船腹に触れた波が低い音を立てて崩れていく。


船首の向こうには、朝靄に霞んだ半島の海岸線がうっすらと白く長く続いている。まだ目的の港そのものは見えないが、岬を一つ、また一つと越えるたびに、その距離が確実に縮まっていることだけは分かった。


沖合を進む間いっぱいに張られていた帆も、港が近づくにつれて少しずつ絞られていく。少し肌寒い中、甲板では水兵たちが入港に備えて動き始め、帆綱を引く音や短く交わされる掛け声が、静かな海の上へ流れていた。


海そのものは、何事もなかったかのように穏やかだった。だが、この船が向かっている先では、王都を騒がせている幾つもの出来事について、少なくとも何かしらの答えが待っている。


船尾楼では、一人の男が手すりに身体を預け、その海岸線をどこか眠そうに眺めていた。


ルパート・アシュフォード少佐。二十代も後半に差しかかったところだが、薄い金髪で丸みのある顔にややふっくらとした身体つきをしており、日に焼けた精悍な海の男という印象からはほど遠い。軍服を脱いで町中を歩いていれば、王国海軍の軍艦を任される士官だとは、まず思われないだろう。


アシュフォード家、そのルーツは北方から流れてきた傭兵であり、代々軍人、とりわけ多くの海軍士官を輩出してきた貴族である。現在の王国海軍提督エドガー・アシュフォードもその一門だった。ルパートはその本家筋の嫡男として生まれ、エドガーを叔父に持つ。


そのためか、本人の雰囲気とは裏腹に身なりには隙がない。濃紺の軍服は襟元から袖口まできちんと整えられ、磨かれた靴も腰に下げた剣も手入れが行き届いている。もっとも当の本人は、せっかく整えた軍服のまま手すりへだらりと体重を預けているのだが。


その隣には、副官のセシリア・グレイ中尉が立っていた。アシュフォード家に代々仕える家の出で、ルパートとは幼い頃からの付き合いでもある。海軍士官として正式に彼を補佐する立場ではあるが、それとは別に、アシュフォード家の当主から直々に「こいつが余計なことをしないよう見ていろ」と言いつけられた、半ばお目付役でもあった。


それだけに、主家の嫡男だからといって遠慮するような間柄ではない。


「それにしても、今回、アルカディア方面への捜索を少佐がご自分から手を挙げられたと聞いたときは驚きました」


隣に立っていたセシリアが硬い声で切り出すと、ルパートは海から目を離さないまま首を傾けた。


「そう?」


「そうです。こういう面倒な仕事は、真っ先に避ける方だと思っていましたので」


「ひどいなあ」


口では非難したものの、セシリアの指摘を否定する気はないらしい。長く付き合ってきたセシリアもその辺りは承知しているので、そのまま得心のいかないといった様子で問いを重ねた。


「それで、なぜ今回は?」


「イレーネ殿の行き先なんて、最初から分かってたからね」


あまりにもあっさりと返され、セシリアが怪訝そうに横を向く。


「アルカディアだと?」


「他にどこへ行くのさ。王都から追い出されて、実家がここにあるんだよ?」


ルパートたちは王都を出たあと、スローナを皮切りに半島沿岸の港を一つずつ確認してきた。海軍省から命じられた捜索範囲を律儀に潰してきたわけだが、本人にしてみれば、最初から終着点は分かっていたらしい。


「では、初めからアルカディアへ向かえばよかったのでは?」


「命令だからしょうがないじゃない。僕ちゃん、こう見えて仕事は真面目なの」


セシリアはしばらくその緊張感のない横顔を眺めたあと、半ば呆れたように口を開いた。


「……さすが少佐ですね」


「お。もっと言って」


「我々にできないことを、平然とやってのける」


ルパートが満足そうにふんぞり返って頷いたところで、セシリアは淡々と付け加えた。


「別に、憧れたりしませんけどね」


「えー。そこは僕ちゃんに痺れてよ。憧れてよ」


自分をもっと褒めろとばかりに地団駄を踏むルパートを尻目に、セシリアは何も答えず、前方へ視線を戻した。


ちょうどそのとき、見張りから港が見えたとの声が上がる。ルパートも騒ぐのをやめ、手すりに乗り出し少し目を細めた。


朝靄の向こうから現れ始めたアルカディアの港は、近づくにつれて想像以上の広がりを見せていった。海へ大きく開いた港湾にはすでに何隻もの商船や漁船が出入りし、その奥には船渠や工廠が並び、町の中へ向かって何本もの運河が伸びている。岸壁では早くも荷役が始まり、帆柱の向こうには倉庫や工房の屋根が幾重にも重なっていた。


「へえ……」


ルパートの目に、船乗りらしい興味の色が浮かぶ。


王都の軍港を見慣れている彼でさえ、まず大きいと思った。軍港として整備された王都とは性格が違うが、船と交易を中心に発展した港町としてなら、こちらの方が広いのではないかとさえ思える。


船が速度を落としながら港口へ入っていく途中、ルパートの視線がふと一つの船影で止まった。


「……セシリア」


「はい」


「あれさ」


ルパートが指した先は、運河に近い工廠の一角だった。建物の隙間から、船渠へ入れられた一隻のガレオンが見えている。


「第二練習艦隊の旗艦に、ものすごくよく似てない?」


セシリアも目を凝らし、しばらくその巨大な船影を追った。


「……似ていますね」


「だよねえ」


ルパートはそれ以上何も言わなかった。ただ、快速船が向きを変えて見えなくなるまで、そのガレオンをじっと見つめていた。


◇


王国海軍旗を掲げた軍艦が入港した。


その知らせが領主館へ届けられたのは、朝食が始まるかどうかという早い時間だった。


報告を受けたイレーネは、ほとんど身支度もそこそこに港へ向かった。髪を結う時間も惜しかったため、燃えるような赤い髪は普段とは違って背中へそのまま流れている。その焦りを映すかのように、急ぐイレーネの歩調に合わせて、髪が朝日の中で大きく揺れていた。


彼女が岸壁へ着いた頃には快速船はすでに横付けされ、水兵たちが手際よく係留作業を進めていた。


やがて舷梯から降りてきた男の顔を見て、イレーネの足が止まる。


「やあ、イレーネ殿。久しぶり。やっぱりここにいたね」


「……ルパート・アシュフォード少佐?」


見間違えようもない。王都を出てから、まさか最初にアルカディアまで追ってくる海軍士官が彼だとは思っていなかった。


ルパートはイレーネの姿を一通り眺めると、とりわけ普段とは違う髪に目を留めた。そして、何やらひとり、うんうんと、何度もうなずく。


「なるほど、いつものキリッとした制服姿もいいですが、髪を下ろしてるのもまたいいですねえ。ふるさとに戻るとまた別の心境になるのでしょうか」


「朝っぱらから何を言ってるのよ」


早朝から張り詰めた面持ちでやってきたイレーネは、なんとも気の抜けたルパートと対峙して、思わず肩の力が抜けた。不測の事態があってはと引き連れてきた兵士たちにも軽く合図を送り、警戒を緩めさせる。


ルパートの後ろから降りてきたセシリアが、申し訳なさそうにイレーネへ頭を下げた。


「少佐。せめて上陸して最初の一言くらい、もう少しまともにできませんか」


「久しぶりなんだからいいじゃない」


「よくありません」


二人のやり取りにイレーネは呆れたが、すぐに快速船へ目を向けた。なぜ王国海軍の士官が、今この時期にアルカディアへやってきたのか。問いただすまでもなく、おおよその理由は想像できる。


「……とりあえず、領主館へ行きましょう。話があるのでしょう? お父様にも会ってもらいます」


「そうだねえ。それじゃ、お邪魔しますか。グレイ中尉はついてきてね」


軽い返事とは裏腹に、ルパートの目は一瞬だけ港の奥へ向いた。先ほど海上から見つけたガレオンのある方向だった。その瞳の奥には、いつもの昼行灯らしからぬ、鋭い光が隠されていた。

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