第89話 彼女が特別
その二日後。朝から晴れていた空は、昼を過ぎても雲一つなく、領主館の窓からは港へ続く街並みが遠くまで見渡せた。
執務室では窓が半分ほど開けられ、外から吹き込む風が帳簿の端をわずかに揺らしている。
室内に響いているのは、紙をめくる音とペンを走らせる音。そして、時折交わされる短い相談の声だった。だが、その空気は二日前とは明らかに異なっていた。
「ソフィアさん、こちらもお願いできますか?」
若い文官が一束の書類を抱えて、どこか頼るような面持ちで机へ近づく。
「そこに置いておいてください。ただ、その港湾局からの照会は先にこちらへ。午後の打ち合わせで必要になるでしょうから」
ソフィアは手元の書類から目を離さず、流れるような手つきでペンを走らせながら答えた。
「分かりました。あと、昨日の南倉庫の――」
「先月分が混ざっていた件でしょう? 午前中に確認をお願いしてあります。返事が来たら私の机へ」
「あ、はい」
若い文官は素直に頷き、感心したように一礼して自分の席へ戻っていった。
ソフィアが領主館の執務室で働き始めて、まだ二日しか経っていない。初めこそ互いにぎこちなかったものの、コンラッドの飾らない人柄ゆえか、慌ただしさはあるものの、流れる空気は穏やかで、初日の午前中にはすっかり馴染んでいた。
そして、二日目。それまでとは少しずつ部屋の流れが変わり始めていた。
窓際には急ごしらえで一つ机が増やされ、そこにソフィアが座っている。眼鏡越しに資料へ鋭く目を走らせ、必要な数字を拾い、別の書類へ書き写す。何か引っかかればそこで手を止め、脇に積まれた帳簿や過去の記録を開く。作業は恐ろしいほど速かった。しかも、速さだけではない。
「コンラッド様」
呼ばれたコンラッドが顔を上げると、ソフィアが数枚の紙を手に立っていた。その背筋は美しく伸びており、白いシャツの上には、アルカディアの町を散策したときに買った臙脂色のベストを重ねていた。落ち着いた茶色の髪にもよく映えている。
「どうした?」
「昨日いただいた造船用木材の支出ですが、一か所だけ港湾局の帳簿と数字が合いません」
ソフィアは机の前まで来ると、二枚の書類を並べた。コンラッドが身を乗り出す。
「どのくらい違う?」
「銀貨百二十八枚です」
「そんなに?」
「はい。ただ、横領や記載漏れではないと思います」
ソフィアの白く細い指先が、二枚の書類の別々の箇所を示す。
「こちらが港湾局の支出で、こちらが工房側です。同じ日に、同じ船から荷を降ろした運搬費が計上されています。たぶん、港湾局と工房の双方が自分たちの支出だと思って記録したんじゃないかと」
コンラッドは二枚を見比べた。確かに日付も金額も一致している。
「二重計上か」
「おそらく。念のため港湾局には先ほど確認を出しました。工房側の担当者も午後こちらへ来る予定です」
「……もうそこまでやったのか?」
「確認しないと、どちらを直すべきか分かりませんから」
ソフィアは当然のように答えた。
コンラッドは何も言わず、昨日自分が渡した書類の束へ目を向けた。
最初は単純な集計を頼んだだけだった。王城の財務局で働いていたというなら、数字をまとめる程度は問題ないだろう。そう考えて渡した。
ところが、夕方には集計を終え、その途中で見つけた不一致や確認事項まで一覧になって戻ってきた。そこで今朝、もう少し範囲を広げてみた。その結果が、目の前にある。
「これ、全部見たのか?」
「はい」
「昨日の夕方に渡したよな?」
「そうですね」
ソフィアは何を聞かれているのか分からないという顔をしている。
「特に夜遅くまで働いているわけでもなかったよね。いつ終わった?」
「今朝です。こちらへ来てから続きを確認しました」
コンラッドは椅子の背へ身体を預け、しばらくソフィアを見た。
「……そうか」
「何か問題が?」
「いや。何でもない」
ソフィアはわずかに首を傾げたものの、すぐに自分の机へ戻っていった。
俯いて再び書類に集中する姿を見ながら、コンラッドは反対側の机にいた古参の文官へ身を寄せた。ソフィアには聞こえないように小さな声で問いかける。
「どう思う?」
五十を少し過ぎたその男は、テミストクレスの代から三十年以上、領主館で仕事をしている大ベテランだ。聞かれて、口髭の端を指で整えながらソフィアの方を見た。
「正直に申し上げますと、最初は財務局勤めだったとは言え、お嬢様のお友達と伺いましたので。それほどには――」
「私も似たようなもんだ」
コンラッドが苦笑する。古参の文官も、少しだけ表情を緩めた。
アルカディアでは文官が常に足りない。船乗りや兵士を集めろと言えば、どこからともなく人が湧いてくる。腕のいい職人を探せと言えば、誰かが必ず名前を挙げる。
ところが帳簿を任せられる人間となると、途端に皆が黙り込む。だから、イレーネの友人だろうが、若い女性だろうが、最低限仕事ができるなら誰も文句は言わない。
もっとも、最初から大きな期待をしていたわけでもなかった。財務局勤めだったとは言え、王都の高位貴族の令嬢だったのだ。
それに、イレーネがべた褒めしていたが、友人としてのひいき目があるのも当然だと思っていた。だから、人並みであれば十分だった。
「昨日、私が倉庫の在庫表を渡しましてな」
古参の文官が声をさらに潜めて話を続ける。
「半刻ほどで戻ってきました」
「半刻?」
「ええ。しかも数字をまとめるだけでなく、三年前までの消費量を確認して、『今年は冬前に塩が足りなくなる可能性があります』と、対策案まで添えてありました」
コンラッドが眉を上げた。
「そんなことまで見てたのか」
「念のため私も確認しましたが、計算は合っております」
古参の文官は感心したように顎へ手をやった。
「王城というところは、随分人材が余っているのですな」
「いや」
コンラッドはソフィアの机を見る。ちょうど別の文官から質問を受け、書類の一部を指し示しながら穏やかに説明しているところだった。
「たぶん、彼女が特別なんだと思うぞ」
午前中が終わる頃には、室内の空気も随分変わっていた。
昨日は初日でもあり、貴族籍を抜いたと本人が語ったものの、さすがに元高位の貴族令嬢、「デルフィ嬢」「ソフィア様」とどこか遠慮がちに呼んでいた者たちが、今では自然に「ソフィアさん」と声をかけている。
理由は単純だった。聞けば答えてくれる。分からないことは曖昧に誤魔化さず、分からないと言う。その代わり、できると判断したものは、あっという間に終わらせる。さらに調べると言ったことは必ず調べて返す上に、ソフィアなりの見解が添えられてくる。それがまた的を射て、かつ分かりやすい。
そして何より、その結果、自分たちの仕事が楽になる。いや、楽になるというよりは、いつもより早く終わるといった方が正しいだろう。とにかく仕事がはかどるのだ。それが分かれば、出自も年齢もあまり関係なかった。
昼食を挟み、午後になる頃にはソフィアの机の上にも相当な量の書類が積まれていた。それでも、本人に慌てた様子はない。
コンラッドはしばらくその姿を眺めていたが、やがて自分の机から一束の書類を抜き取った。
「ソフィア嬢、少しいいか」
呼ばれたソフィアが眼鏡を押し上げ、席を立つ。
「はい」
コンラッドは机へ書類を広げた。
「港の倉庫と工房への資材配分なんだけど、これからはソフィア嬢に任せたい」
ソフィアの目がわずかに見開かれた。
「私に、ですか?」
「ああ。もちろん、新しい契約や大きな支出は俺に上げてもらう。ただ、もう予算が決まってる範囲なら、毎回私の確認を取らなくていい。各部署と調整して、ソフィア嬢の判断で進めてくれ」
ソフィアはすぐには返事をしなかった。机の上の書類へ目を落とし、それからもう一度少し不安げにコンラッドを見る。
「私が決めてしまっていいんですか?」
「そのために任せるんだろ」
コンラッドの答えには、特別な意味を持たせた様子すらなかった。当たり前のことを口にしているだけだ。
「でも、私はまだ来たばかりです。領内の仕組みも、全部把握しているわけではありません」
「全部分かるまで待ってたら、何年かかるんだ」
コンラッドは穏やかな笑顔を見せながら、机の向こうにいる古参の文官たちを顎で示した。
「分からないことは昔からいる連中に聞けばいい。間違えたら直せばいい。その代わり、分かることまでいちいち俺のところへ持ってくる必要もない。そこで止まったら、任せる意味がない。その範囲なら、全部君の判断でやってくれてかまわない」
ソフィアは黙った。わずかに俯いたため、窓から差す光が眼鏡に反射してその瞳をうかがい知ることは出来ない。刹那の間、王都での仕事が頭をよぎった。
自分で調べ、自分で数字を揃え、自分で考えた政策でも、最後に判断するのは別の誰かだった。名前が残らないことすら珍しくなかった。けれど、ここでは違う。
目の前の青年は、わずか二日しか働いていない自分の仕事を見て、次の仕事だけではなく、その仕事を決める権限まで渡そうとしている。
――あなたがやった仕事は、ちゃんとあなたの仕事になる。
王都でイレーネに言われた言葉が、ふと蘇った。本当に、そうなるのかもしれない。胸の奥から込み上げる熱いものを悟られないよう、ソフィアは眼鏡の位置を直した。
「……分かりました」
声はいつも通りだった。けれど、書類を受け取る手つきは、いつもよりほんの少し慎重だった。
「やってみます」
「ああ。頼む」
席へ戻ったソフィアは、すぐに仕事へ取りかかった。ただ、その横顔には、先ほどまでなかったわずかな明るさが残っていた。窓の外では太陽が少しずつ西へ傾き始め、机の上へ落ちる影も長くなっていった。
◇
その日の夕方。日はすっかり沈み、水平線の際はまだオレンジ色を残していたが、上を見上げれば夜のとばりが落ちようとしていた。
工房から戻ってきたイレーネが自室に戻ろうと、領主館の廊下を歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「おい、イレーネ」
振り返ると、執務室の扉からコンラッドが顔を出している。
「何?」
「ちょっと来い」
「何よ。怖い顔して。何か問題でも起きたの?」
「いいから、こっちに」
珍しく兄が強引に手招きをするものだから、不審そうにしながらもイレーネが部屋へ入る。
中ではまだ数人の文官が帰り支度をしていたが、その表情は明るい。見渡すと、ソフィアの姿はなかった。彼女にあてがわれたであろう窓際の机の上は綺麗に整理され、処理済みの書類だけが種類ごとに整然と積まれている。
コンラッドは扉を閉めると、妹へ向き直った。
「なあ、ソフィア嬢なんだが、彼女はいったい何者なんだ?」
いつになく真剣な表情で自分を呼ぶのだから、何事かと構えていたイレーネが目を瞬く。
「……何よ、いきなり」
「だからさ。ソフィア嬢だよ。何者なんだ、あれ」
「私の親友だけど? あれ扱いしないで」
「それはすまん。でも、そういう意味じゃない」
コンラッドは額を手で押さえ、どう伝えればいいのか逡巡した。
「いや、つまりさ、お前が『すごく優秀』って言うからさ」
「だから言ったでしょう?」
イレーネはコンラッドの言わんとしていることが、なんとなく分かった気がして、コンラッドを半眼で睨む。
「親友贔屓で、実力の二倍くらいは盛ってると思ってたんだよ」
兄の思わぬ言葉に、イレーネの眉が跳ね上がった。
「失礼ね! 私の話をまともに聞いてなかったのね。ソフィアのことで私が適当なこというわけないじゃない」
「悪かったよ。でもお前だって言葉が足りなかったぞ。『優秀よ』だけでは、さすがにこっちだって、話を盛ってるとしか思わない。もう少し、なんていうか、具体的に伝えてくれても、いいんじゃないかと思う。ソフィア嬢、想定より二倍、いや、三倍は上だったよ。あんな優秀な子見たことがない。臙脂色のベストもよく似合っていた」
コンラッドは真顔で妹をじっと見つめる。
イレーネは一瞬ぽかんとしたあと、ゆっくりと口元を緩めた。そして、いかにも自分が褒められたかのように得意げに胸を張る。
「でしょう? でしょう? やっぱり、さすが私のソフィア」
「何でお前が威張るんだ」
親友を褒められてはしゃぐイレーネを、コンラッドは冷めた目で見る。
「だってソフィアだもの」
「それで全部説明したつもりになるな」
コンラッドも呆れたように言ったが、その口調には隠しきれない感心が混じっていた。おもむろに机まで戻ると、今日ソフィアが処理した書類を何枚か持ち上げる。
「数字に関しては速く、正確だ。さすが財務局に勤めていただけはある。ただ、それだけならまだ分かる。感心するのはこの後だ。こっちが指示していないところまで見て、さらに彼女なりの考えも合わせて持ってくる。昨日渡した木材の帳簿から二重計上を拾って、今日は倉庫の在庫から冬の不足まで指摘した」
一枚ずつめくりながら、コンラッドは続けた。
「しかも、自分で勝手に決めていいところと、確認が必要なところの線引きもできてる。古参の連中にもちゃんと聞くし、相手が年下でも年上でも態度を変えない。分からないものを知ったふりもしない。だから、ソフィア嬢の出す案は理路整然として、無理なところもない。誰もが納得できる」
「うん」
聞いているうちに、ますますイレーネの顔が嬉しそうにほころんでいく。親友の正当な評価が、何よりも誇らしかった。
「今日から、港と工房の資材配分はある程度彼女に任せることにした」
「もう?」
さすがにこればかりは、イレーネも少し驚いた。彼女の中のコンラッドは石橋を叩いてもなかなか渡らない人間だったからだ。この二年間でずいぶん決断も早くなったらしい。
「まだ二日でしょう? お兄様にしては早いですね」
「俺だってそれなりに場数は踏んできたんだ。特に誰かさんのおかげで、踏みたくもない場もたくさんあった。とにかくそういうことだから、ソフィア嬢に関しては二日見れば十分だった。能力がある奴に、いつまでも集計だの何だの単純な仕事だけやらせてどうする。できる奴には任せて、好きなようにやらせる。それが今のアルカディアのやり方だ」
コンラッドは自信に満ちた目で語ると、部屋の奥へ目を向けた。いつの間にか、残っていた部下たちもいなくなっていた。誰もいない机を見つめながら、コンラッドの目には、そこに座って仕事をしていた彼らの姿が重なる。
「それに、俺だけじゃない。元からいる連中も、もう普通に頼ってるよ。初日はお前の友達だから気を遣ってたみたいだけどな。今日なんて俺のところへ持ってくる前に、『ソフィアさんに一度見てもらおう』って話になってた」
その言葉に、イレーネの表情が静かに和らいだ。自分が紹介したからではない。それこそソフィア自身が、ここで働いた二日間で得た評価だった。
「……よかった」
「そんなに心配してたのか?」
「少しね」
イレーネは、整然と片付けられたソフィアの机を見た。王都で、彼女がどんな働き方をしていたのか。どれだけ仕事をしても、それが本人のものとして残らなかったこと。それらすべてを詳しく兄に話すつもりはなかった。ただ、一つだけ確認したかった。
「お兄様」
「何だ?」
「ちゃんと、ソフィアの仕事として扱ってね」
コンラッドは不思議そうに妹を見た。
「当たり前だろ」
答えに迷う様子すらなかった。
「任せた仕事をソフィア嬢がやったなら、ソフィア嬢の仕事だ。判断を任せたなら、その結果も含めて彼女の実績になる。何で俺が取るんだよ」
そのあまりにも当然の返事に、イレーネは一瞬目を丸くした。やがて、安心したように頷く。
「うん。それならいい」
コンラッドはそんな妹の顔を見て、何か事情があるのだろうと察したようだったが、それ以上は聞かなかった。代わりに、今日の書類をもう一度見下ろす。
「しかし……改めて見ても、大したもんだな」
紙の端には、ソフィアの細い字で必要な補足が書き込まれている。その横には確認済みを示す印。
二日前までは、ただ人手が一人増える程度にしか思っていなかった。だが今は違う。
「いい文官を連れてきたな、イレーネ。ありがとう」
その言葉に、イレーネは嬉しそうに兄を見上げた。
「だから、最初からそう言ってたでしょう?」
窓の向こうでは、あかね色の水平線も消え、夜の闇が空と海の境を曖昧にしていた。
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