第88話 人を持ってきた
午後になると、午前中より少し雲が増えていた。流れる白い塊が時折遮る陽光のせいで、部屋の中の明るさがめまぐるしく変わる。
領主館の二階。その一角にある執務室では、コンラッドが開け放った窓から入る風に書類を飛ばされないよう、紙の端へ重い文鎮を慎重に置きながら仕事を続けていた。
机の上だけでは足りず、脇の小卓にも書類が積み上がっている。港から届いた報告や工房から提出された予算申請。造船用木材の調達計画。さらには新しく移ってきた人々の住居と仕事。数日前まで存在しなかった仕事が、毎日雨後の筍のように増えていた。
「お兄様!」
扉が大きな音を立てて勢いよく開いた。
コンラッドは反射的に顔を上げたものの、扉の前で仁王立ちする人物を見てすぐに諦めたようにまた視線を落とした。
執務室にいた数名のコンラッドの部下たちも、扉の音に一瞬だけびくりとしたが、入ってきた人物がイレーネだと認めると、何事もなかったかのように手元の書類に戻っていく。しかし、彼ら表情はどこか楽しそうだ。
「イレーネ。せめてノックくらい――」
「人手が欲しいって言ってたわよね?」
ペン先が紙の上で止まった。コンラッドはため息をついてから、ゆっくり顔を上げる。
「……話を聞け」
イレーネはそんな兄の小言など気にも留めず、カツカツと小気味よい音を鳴らして机の前まで歩いてきた。
「それで?」
コンラッドは椅子の背へ深くもたれながら、やれやれとばかりに妹を見る。
「今度は何を思いついたんだ」
「何よ、その言い方」
「お前がそんな顔でここへ来ると、だいたい仕事が増えるんだ」
イレーネは反射的に否定しようとして、一度口を閉じた。帰郷してここ数日の自分の行動を思い返したらしい。気まずそうに視線が泳ぐ。
「今回は増えないわよ」
「本当か?」
「……たぶん」
「もう怪しいじゃないか」
「違うの。今日は仕事を持ってきたんじゃなくて、人を持ってきたの」
コンラッドが片方の眉を上げる。
「人? 誰かさらってきたとでもいうのか? しゃれにならないぞ」
「違うわよ。ソフィアよ。ソフィア・デルフィ」
「ソフィア……」
聞き覚えはある。家名から財務卿に連なるものだということは明らかだ。コンラッドはペンを机へ置き、記憶を引き出しを探るように少し視線を上げた。イレーネがまだ十三、四歳の頃だっただろうか。学院の友人として、屋敷で何度か顔を合わせた気もする。
ただ、十年以上も前のことだ。名前は何となく覚えていても、少女だった彼女の顔までははっきり思い出せない。
「……昔、お前と一緒にいた子か?」
「そう。覚えてる?」
「名前はな。顔はあんまり」
「もう、お兄様ったら。妹の親友の顔ぐらい覚えてなさいよ」
「無茶言うな。何年前だと思ってるんだ」
イレーネは少し不満そうだったが、すぐに声を弾ませて本題へ戻った。
「そのソフィアが一緒にアルカディアへ来てるの。王城の財務局で働いてたから、書類仕事も数字も慣れてるし、各部署との調整もできる。それで本人が何か手伝いたいって言ってるから、お兄様のところが一番いいかなって」
「王城の財務局か」
今度はコンラッドの反応が明らかに違った。視線が自然と、机の上の書類へ落ちる。周りいた部下たちの耳もぴくりと反応し、部屋全体の空気がわずかに張り詰めた。
正直なところ、人材を選り好みできる状況ではない。読み書きができ、計算を間違えない。頼んだ書類を期限までにまとめる。基本的なことが出来れば、それで十分だった。しかし、それだけのことができる人材を見つけることすら、脳筋自慢ばかりのアルカディアでは大変であった。
実際のところ、アルカディアは大きな町だ。探せば、それなりの数はいるのだろう。しかし、読み書きや計算に長けた人間は、貿易商会をはじめ引く手あまただ。役所にとって強力な競争相手は多い。
報酬をケチっているつもりは微塵もないが、仕事の内容と釣り合いがとれているかと聞かれれば、いささか自信がない。同じ能力があるなら商会へ行った方が稼げる。わざわざ役人を選ぶ酔狂な者が少ないというのが実情だ。だから、経験者ならそれこそ御の字だ。しかも王城の財務局上がりだ、期待はできる。
コンラッドはしばらく腕を組んで考えたのち、何かを期待しているのか目が輝いているイレーネを見上げた。
「普通に書類が読めて、数字を間違えずにまとめられるなら、それだけでも助かるな」
「普通どころじゃないわよ。ソフィア、本当に優秀なんだから。財務局のエースよ。エース」
イレーネは前のめりになって、コンラッドに顔を寄せる。その瞳には絶対の自信が満ちていた。
「はいはい。そんなに顔を近づけるな」
「何よ、その返事」
コンラッドは苦笑しながら、机の上の書類を何枚か揃えた。
「お前の親友なんだろ? そりゃお前はそう言うさ」
「本当なんだから」
「分かった分かった」
飛び抜けて優秀である必要などない。任せた仕事を人並みに片付けてくれる。そうすれば、その分だけ自分が別の仕事へ手を回せる。今はそれだけでありがたかった。
「まあ、一度来てもらおう。領内のことを知らないうちは、できるところから頼めばいい。財務局にいたのなら、共通部分もあるだろう」
「じゃあ決まりね。明日の朝には来るように言ってあるから」
「もうそこまで決めてたのか?」
「お兄様なら断らないと思って」
コンラッドは、自信ありげに鼻を高くしている妹にせめて自分の合意を取ってからでもいいのではと、言い返そうとしたが、目の前にある書類の山を見て思い直した。
「……まあ、断らないけどな」
「でしょう?」
得意げに胸を張ったイレーネだったが、そこで何かを思い出したように表情を改めた。
「あ、それと」
「まだあるのか?」
「ソフィアのこと、大事にしてね」
コンラッドが怪訝そうな顔をする。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。仕事ができるからって、何でもかんでも押しつけたり、夜中まで働かせたりしないで」
「人手不足で困ってるところへ連れてくる奴が、それを言うのか?」
「だからこそ言ってるの」
イレーネは机に両手をつき、先ほどよりもさらにぐっと身を乗り出した。今度はさらに顔が近い。さっきまでの軽い表情が消える。
「王都では、ずっと無理してたの。せっかくこっちまで来たのに、また同じような働かせ方をしたら――」
「……し、したら?」
声音の低さに圧され、コンラッドの喉が小さく鳴った。イレーネの琥珀の瞳から、すっと光が消えた。
「サメの群れのいる海域で、渡し板の上を目隠しで歩いてもらうから」
イレーネからゆらりと立ち上がる殺気に、コンラッドは思わず椅子をわずかに引いた。冗談で言っている顔ではない。背中に冷たい汗が伝う。
「……それ、下手しなくても死んじゃうよね。い、妹が兄に向けて言っていいことじゃないぞ。あと、お兄様に向かってその目はないかなあ……」
「脅してるんだから当然でしょう?」
「認めるのかよ」
「もちろん」
しばらく兄妹で視線をぶつけ合ったあと、コンラッドは根負けしたように片手を上げた。
「分かったよ。無茶はさせない。大事に、丁寧に扱うから」
「約束よ」
「ああ、約束する。だからそんな顔をするのはやめなさい。兄はお前ほど荒事に慣れてないんだから」
ようやくイレーネは満足したらしく、机から手を離した。いつもの快活な笑顔に戻る。
「ソフィアの仕事を見たら、驚いて腰抜かすわよ」
言い残して、そのまま機嫌よく扉へ向かっていく妹の背中を見ながら、コンラッドは肩をすくめて再び書類へ目を落とした。
執務室全体には再び紙をめくる音とペンを走らせる音だけが戻った。心なしか、その音はいくらか軽い。
ふとコンラッドは、数日前、自分が考えていたことを思い出した。
――誰か手伝ってくれる人いないかな。
人並みに仕事のできる人間が、一人増える。今はその程度に受け止めていた。
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