第87話 休暇の終わり
昼を少し回った頃。イレーネとソフィアは、港へ続く大通りから一本脇へ入ったところにあるカフェテリアで、少し遅めの昼食を取っていた。
昼時の混雑はひと段落していたが、店内にはまだ、仕事の合間に食事を取る船員や工房帰りらしい職人たちの姿が残っている。開け放たれた窓からは潮の匂いを含んだ風が入り込み、それに混じって、遠くから荷を運ぶ男たちの野太い掛け声や時を告げる港の鐘の音が聞こえてきた。
王都にいた頃なら、昼食といえば学院か王城の食堂で済ませることがほとんどだった。こうして活気溢れる町の中で、行き交う人々を眺めながら食事をするだけでも、ソフィアにはまだ少し新鮮に感じられる。
もっとも、向かいに座るイレーネにはそんな感慨はないらしい。こんがりと焼かれた白身魚を器用に切り分けながら、今朝、工房であったことを次から次へと話していた。
二年ぶりにガストンと会ったこと。ルシウスたちがドラペテスの船首を改良していること。そして、最終的には二個艦隊、まず一個艦隊三十隻を造りたいと話したところ、二人揃って呆れられたこと。
「それは呆れられるでしょうね」
ソフィアはパンをちぎりながら、さも当然という顔で答えた。
「ソフィアまでそう言うの?」
「三十隻を『まず』なんて言う人を見て、普通の反応をしただけでしょう。むしろガストンさんたちが正常だと思うわ」
「でも必要なのよ」
「分かってるわよ。反対してるわけじゃないもの」
淡々と返しながら、ソフィアはスープへ口をつけた。口いっぱいに広がる優しい魚介のうま味が、張り詰めていた身体を内側から解していく。
ここへ来てからの三日間、彼女は本当に何もしていなかった。
初日こそ、わずかばかり下船の手伝いをしたが、それ以外はあてがわれた宿でほとんど寝て過ごし、夕方になってから茜色に染まるアルカディアの港町をかるく散策した。
二日目は町へ出て、丘の上まで足を延ばした。途中、何軒かの店を覗き、気に入った臙脂色のベストを一着買った。王都にいた頃なら、たぶん選ばなかった色だ。その間、イレーネは父や兄と今後のことを話し合っていたらしく、顔を合わせたのは日が暮れてからだった。夜になって、ようやく二人でゆっくり食事をした。
そして今日は、午前中を本を読んで過ごしている。
誰かに呼ばれることもなければ、机の上へ新しい書類が積まれることもない。夕食のあとに仕事へ戻る必要もなく、夜になれば眠るためだけに部屋へ帰ればいい。
最初の一日は、その何もなさが不思議だった。二日目になると、少し落ち着かなくなった。そして三日目。
ソフィアは手にしていたスプーンを静かに皿へ戻した。陶器の重なる小さな音が、会話の合間に響く。
「ねえ、イレーネ」
「何?」
「そろそろ、何か仕事をさせてくれない?」
魚を口へ運ぼうとしていたイレーネの手が、ぴたりと止まった。
「仕事?」
「ええ」
ソフィアはごく普通のことを頼んでいるような顔をしている。
イレーネはしばらくその澄んだ表情を眺めてから、持っていたフォークを皿へ置いた。
「まだ休んでていいのよ。こっちに来て、まだ三日でしょう?」
「いいえ。十一日よ」
イレーネは一瞬ソフィアが何を言っているのか分からず目を瞬かせたが、すぐに渋い表情になった。
「……八日間は船の上でしょうが」
「でも仕事はしてなかったわ」
「それを休みに数えるの?」
「数えるわよ。むしろ、あの八日間が一番楽しかったくらい」
「楽しかったからって休暇になるの?」
渋い顔をするイレーネを見て、ソフィアの口元がわずかに緩んだ。
「冗談よ。でも、こっちに来てからだって、もう三日も休んだわ」
ソフィアはカップを置き、眼鏡越しにまっすぐイレーネを見返した。
口調こそいつもと変わらないが、どうやらそこは譲る気がないらしい。一度こうと決めたときのソフィアが驚くほど頑固なのは、学院にいた頃からよく知っている。
「イレーネ、王都で言ったでしょう。『仕事のことなんてあとでいい』って」
「言ったわね」
「だから、ちゃんとあとにしたわ。三日も」
まるで十分な休暇を取った証明でもするようにソフィアが言い切った。
イレーネは困ったように眉を下げた。
「……それで十分なの?」
「十分よ」
答えは早かった。迷う素振りすらない。そして、ソフィアは窓の外へ少し目を向けた。青い空の下、その向こうに見える港では、今日も何隻もの船が出入りしている。
「でも、船旅が楽しかったのは本当よ。日がな一日、あなたたちが帆を動かしたり、船を走らせたりしてるのをただ眺めてた」
「沿岸部を走ったわけじゃないから、海しか見えなかったでしょう? 退屈じゃなかった?」
「全然。初めての経験ばかりで、何もかもが楽しかったわ」
帆が風を受けて膨らむ音も、船首が波を切って進んでいく様子も、朝と夕方で、まるで魔法のように違って見える海の色も、ソフィアには新鮮だった。
そして夜になれば、町の灯り一つない広い海原の上で、頭上いっぱいに星が広がった。空と海との境さえ曖昧になる暗闇の中、船だけが波の音を立てながら進み、その周囲を数え切れない星々が取り囲んでいる。
自分には何一つできないのに、昼は甲板に座って海を眺め、夜にはただ空を見上げているだけで、不思議と飽きることがなかった。
「それに、こっちへ来てからも、朝起きて、食事をして、散歩して、本を読んで、あなたと話して。こんなに何もしなかったの、いつ以来か分からないくらい」
「だったら、もう少し続ければいいじゃない」
「嫌よ」
あまりにはっきりと否定され、イレーネは言葉に詰まる。
「……そんなに嫌なの?」
「だって、落ち着かないもの」
ソフィアは穏やかながらも迷いなく言って、再びイレーネへ視線を戻した。
少し意地になっているのかもしれない。けれど、無理をして強がっているようには見えなかった。背筋を伸ばし、静かにこちらを見つめる表情には、働きたいという意思がはっきりと浮かんでいる。いかにもソフィアらしい。
王都で自分から誘ったのはイレーネだ。仕事ができるから来てほしいのではない。まず来ればいい。少しくらい何もしなくてもいい。自分から言った以上、一週間でも一か月でも休ませてやりたい気持ちはあった。
「別に急がなくていいのよ」
イレーネはなおも、ソフィアに言い聞かせながら、テーブルの上へそっと手を伸ばした。ソフィアの手の甲に自分の指先を重ねながら、眼鏡の奥の瞳をじっと見つめる。
「私、働かせるためにソフィアを連れてきたわけじゃないんだから」
「分かってる」
ソフィアは重ねられた手へ一度視線を落とした。それから顔を上げたとき、その表情は先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。
「だから、自分から言ってるの。私だってあなたの力になりたいの」
それでも、言葉そのものは変わらない。譲るつもりはないらしい。
イレーネは何も言わず、しばらく親友の顔を見つめた。王都で最後に会った夜より、ずっと顔色がいい。眼鏡の下にあった濃い隈も薄くなっているし、以前のような痛々しいほど張り詰めた硬さもない。頬にも少し血色が戻っている。
イレーネは確かめるようにソフィアの手を一度だけぎゅっと握ってから、ゆっくりと離した。少なくとも、無理をして働こうとしているようには見えなかった。
それに――ここまで言っても引かないなら、これ以上止める方がソフィアの望みを無視することになる。
「……分かった」
「本当?」
先ほどまで頑として動かなかったソフィアの表情が、そこで初めて春の光が差し込んだように明るくなる。
イレーネはそれを見て、ようやく負けを認めるように頷いた。
「うん」
イレーネは少し考えたあと、すぐに一人の顔を思い浮かべた。
「だったら、ちょうど人手不足で困ってるところがあるの」
「どこ?」
「お兄様のところ」
「コンラッド様?」
コンラッドとは、学院時代に王都のタラシア邸で何度か挨拶を交わした程度だった。彼が卒業した年にソフィアたちが入学したため、学院で深く交流する機会はなく、人となりまではよく知らない。ただ、活動的で勝ち気なイレーネとは対照的に、学者のような落ち着いた人だったという印象だけは残っている。
「そう。領内のことはほとんどお兄様がまとめてるんだけど、元々忙しかったところに、私たちが船を増やすだの、人を集めるだの、工房を広げるだの言い始めたから」
ソフィアは半ばあきれながら、しばらく黙ってイレーネを見た。
「……半分くらい、あなたのせいじゃない?」
「半分で済むかしら」
「そこで悩むの?」
間髪入れずに返すソフィアに対し、イレーネが気まずそうに視線を逸らす。
アルカディアは昔から、身体を動かすことを厭わない者が多い土地だった。船乗りも、職人も、兵士もいる。何か問題が起きれば、とりあえず現場へ走っていく者なら石を投げればあたるくらいいた。
その反面、じっくり机に座って数字をまとめ、過不足なく文書を整え、複数の関係者を相手に物事を理路整然と調整できる人間となると、途端に数が減る。だからだろうか、アルカディア政庁では文官は常に足りなかった。
「お兄様、前から人が足りないって言ってるの。今回ますます酷くなってるみたい」
「それなら、私にできることもあると思うわ」
「じゃあ決まりね」
イレーネの表情が一気に明るくなる。
「このあと私から話を通しておくから、明日の朝、領主館に来てね」
「分かったわ」
ことは慌ただしく、あっさりとイレーネが決めていく。長年付き合ってきたソフィアは、そんなせっかちな彼女にいまさら動じることもなく、深く頷いた。
ところがイレーネは、すぐに人差し指を一本立て、椅子から少し腰を浮かせて、ぐいとソフィアに寄る。
「でも、今日は仕事しちゃ駄目よ」
ソフィアの眉間に不満げな皺が寄る。
「……まだ言うの?」
「今日までは休暇」
「たくさん休んだのに」
「航海を数に入れないの。着いてから三日しか立ってないのよ?」
ここは譲れないとばかりに言葉を返され、ソフィアはしばらく睨むようにイレーネを見ていたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「分かったわよ」
「よろしい」
満足そうなイレーネを見ながら、ソフィアは呆れたように息を漏らした。それでも、その口元にはわずかな笑みが残っていた。
明日から、また働ける。けれど今度は、誰かに押しつけられた場所ではない。
自分で選んだ場所だ。
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