第86話 工房の戦支度
工房の奥に向かって進むと、ガストンの視線の先には、一人の男がいた。
痩せた身体を古びた椅子に預け、片手で木片を弄んでいる。年の頃は三十前後。黒い髪は無造作に伸び、首の後ろで適当に束ねられていたが、結びきれなかった髪が額や頬に落ち、ところどころ妙な方向へ跳ねている。着ている服もくたびれていた。襟元はよれ、袖には木屑が付き、細い身体にだらしなく馴染んでいる。
全体に、何とも締まりがない。腕利きの職人というより、仕事にあぶれた旅人がそのまま工房へ居ついたように見えた。
ところが、三人から視線を向けられていることに気づいても、当人に気後れした様子はなかった。木片を指の間で転がす手も止めない。
「何だよ。いきなりやって来て」
「そういや、お嬢にはまだ紹介してなかったな」
ルシウスが男を指した。
「こいつがジョージ。半年くらい前から親父のところに居ついてるそうだ。ま、俺も昨日会ったばかりだけどな」
「ねえ、さすがにその紹介はちょっと酷くないか? せめて、将来を嘱望される才能豊かな若者くらい言ってくれてもいいと思うんだけど」
ジョージは椅子から身体を起こしながら、いかにも不満そうに言った。その拍子に、膝の上に溜まっていた木屑がぱらぱらと床へ落ちる。
ルシウスがその痩せた身体を上から下まで眺め、鼻で笑った。
「若者って歳かよ。それに、朝から働かせりゃ昼前に床で寝てる奴を、誰が期待の技術者って紹介するんだ」
「体力と才能は別だろ。長く働ける奴が一番偉いなら、職人じゃなくて馬でも雇っとけばいいじゃないか」
「その口の元気を身体に回せ」
年上のルシウスを相手にしても、ジョージにはまったく物怖じする様子がない。
イレーネが興味深そうに眺めていると、ようやく彼も彼女へ向き直った。服についた木屑を軽く払い、一応は姿勢を正す。ただし、背筋の伸び方はどこか頼りない。
「ジョージです。よろしく、イレーネお嬢様」
「ええ。よろしく」
イレーネが微笑むと、ジョージの目がわずかに見開かれた。
燃えるような赤い髪に、父から受け継いだ琥珀の瞳。整った顔立ちは王都でも人目を引いたが、凛とした印象の強いその顔に笑みが浮かぶと、華やかさが一気に増す。工房の薄暗がりの中で、そこだけ灯りがともったようだった。
ジョージも思わず数秒見入った。
やがてイレーネがガストンへ視線を戻したところで、ようやく我に返り、隣にいるルシウスへ少し身体を寄せる。
「……すごい美人だな」
「何の感想だ、それ」
「いや、聞いてはいたけど、実物は思ってた以上だな。ただ、俺の好みとはちょっと違うけど」
ルシウスが胡散臭そうに横目を向ける。
「聞いてねえよ」
「俺はもうちょっとこう、金髪で、髪がぐるぐる巻いてて、いかにもお姫様ですって感じの――」
「聞こえてるわよ」
イレーネが振り返った。ほんの少し口の端がひくついている。
ジョージの言葉が途中で止まる。
「……ずいぶん耳がいいんですね、イレーネお嬢様」
「普通に聞こえる距離でしょう」
「お前が声を潜めるの下手なだけだ」
ルシウスに肩を押されても、ジョージは悪びれた様子もなく首を傾げた。
「褒めてるんだけどな」
「好みじゃないってところまで聞こえたんだけど?」
「美人かどうかと好みかどうかは別の話ですから」
妙なところだけ真顔で答えるジョージに、イレーネはしばらく何とも言えない顔を向けたあと、ガストンへ向き直った。
「それで、見せたいものって?」
心なしか、口調が強くなってしまったイレーネは悪くない。
「あ、ああ。こいつだ」
若干動揺しながらも、ガストンが示したのは、ジョージのすぐ脇に置かれた見慣れない機械だった。使い込まれた樫の枠に、鉄の軸と革帯が組み合わされている。どこか不格好だが、各所の継ぎ目は丁寧に詰められていた。
長い台の上に加工する木材を横向きに固定し、足元の踏み板を動かすと、大きな車輪から革帯を介して加工物がゆっくりと回転し始める。なおも繰り返し踏み板を押し込むと、車輪が低く唸り、固定された木材が見る間に高速に回り始めた。ガストンは実際に動かしてみせながら、刃を台へ固定し、目盛りに合わせて同じ位置まで送れるようにしたことだけを簡単に説明した。刃が触れた箇所から、薄い削り屑が細く長く巻き上がって床へ落ちていく。
「元はこいつが、ろくろを横にしてみろって言い出してな。そこから俺たちで、刃を固定したり、目盛りを付けたりしていった」
加工済みの二本の木材を取り出し、イレーネへ渡す。表面は驚くほど滑らかで、指でなぞっても引っかかりがない。
イレーネは二本を並べ、端を揃え、何度か向きを変えながら表面を確かめた。太さも長さも、ほとんど同じだった。
「これ……同じ寸法で何本も作れるの?」
「今までよりは、ずっと揃えやすい」
ガストンが答える。
その一言で、イレーネの目が変わった。もう一度二本を重ね、それから旋盤そのものを見る。車輪の径、革帯の張り、刃を送る目盛り。一つずつ視線で追っていく。
「これ、すごく使えるじゃない」
最初の驚きは、すぐにその先へ向かった。
「滑車の軸も、砲架の部品も、最初に寸法を決めてこれで揃えればいいのね。同じものを何個も作れるなら、船ごとに職人が合わせ直さなくても済む。もっと精度を上げて、同じ機械を造船所ごとに置けたら、別の場所で作った部品をそのまま使えるようになるかもしれない」
イレーネは、ティアがいたら狂喜乱舞していたに違いないと、今頃こちらに向かっているに違いない後輩の姿をふと思い浮かべ、心の中で苦笑した。目を輝かせて機械の周りを何周もする姿まで、容易に想像できてしまう。
ガストンは満足そうに頷く。
「そこまで持っていけりゃ理想だな。まだ改良はいるが、手だけで合わせるよりはずっと揃う」
「誰が考えたの?」
イレーネが尋ねる。
待っていましたとばかりにジョージが口を開きかけたところで、ガストンが先に親指を向けた。
「最初の思いつきはジョージだ。ろくろを横にしろってな」
「そこ、自分で言わせてくれてもよくない?」
「事実は変わらんだろうが」
ジョージが不満そうに口を尖らせるが、ガストンはどこ吹く風だ。
イレーネは二人のやり取りを聞きながら、もう一度手の中の加工物を見比べたあと、ジョージへ向き直った。
「でも、その一言がなかったら、これもできてなかったんでしょう?」
「まあ……たぶん」
「すごいわ、ジョージ。これ、本当に役に立つと思う。船だけじゃなくて、同じ形のものをたくさん作るところなら、他にも使えるでしょうし」
イレーネは嬉しそうに微笑んだ。
正面から向けられたその笑顔に、ジョージはまた一瞬だけ言葉を失う。照れ隠しのように、指の間の木片をまた転がし始めた。
「……どうも」
横で見ていたルシウスが口元を歪めた。
「好みじゃねえんじゃなかったのか?」
「だから、美人は美人なんだよ。話を混ぜるなって」
「ありがとう、とでも言えばいいのかしら?」
イレーネが茶化すように、ジョージを見上げ首を傾げる。
「い、いえ、恐れ多いことです、イレーネお嬢様」
今度こそ余計なことを言わず、ジョージは素直に一歩下がった。
イレーネはすでに旋盤へ意識を戻していた。
「これ、もっと増やしたいわね」
「ああ。俺たちもそう思ってる」
答えたのはルシウスだった。彼は足元の踏み板へ目を落とした。板の中央は、踏まれ続けて浅くすり減っている。
「昨日もその話になった。人が踏んでる限り、数を増やしたところで限界がある。だから、水車の力を使えねえかって考えてた」
ガストンも頷く。
「動力に水車を使うところまでは、俺も当然考えてた。裏に水路もあるし、水量を見て、足りなきゃ広げるなり引き直すなりすればいい。風車よりは安定して回せるだろう」
「じゃあ、問題はその先なのね」
イレーネが言うと、ガストンは旋盤の回転軸を軽く叩いた。鈍い金属音が、短く響く。
「そういうことだ。水車を作るだけなら何とかなる。だが、水車は水路の脇に置くしかねえし、こいつは工房の中に置きたい。しかも間は真っ直ぐじゃねえ。軸を伸ばすにしても途中で向きを変えなきゃならんし、革帯を引くにしても距離がある」
ルシウスも工房の奥から裏手へ目を走らせる。
「一台だけなら、多少無理してでも繋げられるだろうけどな。この先二台、三台と増やすなら、そのたびに適当に軸を引くわけにもいかねえ」
「ああ。それに、こっちはこっちで仕事がある」
ガストンは周囲で働く職人たちへ顎をしゃくった。
「ドラペテスだけ見てりゃいいわけじゃねえ。船の修理もあるし、頼まれてる仕事だってある。昨日までは、面白そうだからって全部放り出して、水車からこいつまでどう繋ぐかだけ考えてるわけにもいかなかった」
「今まではね」
イレーネの言葉に、ガストンが振り返る。
「でも、さっき話したでしょう。これからは独立して、王国と戦うことまで考えて準備する。そのために三十隻の艦隊を造るなら、今までと同じ優先順位では進められないわ」
イレーネは旋盤の台へ手を置いた。ざらりとした木の感触が、掌に伝わる。
「もちろん、今動いている船の修理や、止めたら困る仕事まで全部放り出せとは言わない。でも、急がなくていい仕事は後に回して。人が足りないなら増やすし、お金が必要ならお兄様と相談する。この機械と、その動力をどうするかは、これからの造船に必要な仕事として優先してほしい」
ガストンはすぐには答えなかった。昨日までなら、新しい旋盤も、その動力をどうするかという話も、工房の仕事の合間に試していく新しい工夫の一つでしかなかった。
だが、先ほど聞かされた話が本当なら、意味が変わる。三十隻の艦隊を揃えるために必要な設備だというのなら、それはもう余暇に試す仕事ではない。
「……分かった」
ガストンは旋盤へ視線を戻した。
「だったら話は別だ。水車をどこに置くかから考える。そこからどうやって回転をここまで持ってくるかもな」
ルシウスも頷いた。
「船の設計と並行して進めよう。三十隻造るってんなら、こっちも遊びじゃ済まねえ」
新しい船の形は、まだ決まっていない。一個艦隊三十隻。その先には二個艦隊という、今はまだ途方もない数字がある。
旋盤も一台の試作品に過ぎず、水車を使うとしても、その力をどう工房へ届けるのかという問題が残っていた。
それでも、目指すところは決まった。以前から構想してきた艦隊を、本当に形にする。そのために船を規格化し、同じものを数多く造るための設備まで整えていく。水槽の水面は静まり、模型の影が揺れながら定まっていく。
イレーネは水槽に並ぶ模型と、その向こうに置かれた旋盤を順に眺めた。どちらもまだ完成というにはほど遠く、頼りなく小さい。けれど、その先に連なる三十の船影が、確かに見えた気がした。
「じゃあ、よろしくお願いね」
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