第85話 一個艦隊
翌朝、イレーネは朝食を済ませると、すぐに領主館を出た。港を抜けて町外れの工房へ向かい、開け放たれた扉をくぐる。
「おはよう。ルシウス、いる?」
「おお、お嬢様じゃねえか!」
聞き慣れた太い声が工房の奥から返ってきた。積み上げられた材木の向こうから顔を出したガストンは、イレーネの姿を認めた途端、手にしていた木片を近くの作業台へ放り出した。大股でこちらへ歩いてくる。
「ガストン!」
イレーネの表情も一気に明るくなった。目の前まで来たガストンは、何か言うより先に大きな両手でイレーネの肩を掴み、そのまま顔を覗き込んだ。二年前と比べてどう変わったのか、確かめでもするような目だった。節くれだった掌は硬く、変わらず温かい。
「よく帰ってきたな。……うん、元気そうじゃねえか」
「ちょっと、痛いってば」
老人とは思えないくらいの力に苦笑いしながらも、イレーネはその手を振り払おうとはしなかった。
「ガストンも元気そうね。全然変わってないじゃない」
「当たり前だ。まだまだ若いもんには負けねえよ」
ガストンは満足したように何度か頷くと、ようやく肩から手を離した。それでもすぐには離れず、昔から知る少女の顔を改めて眺めている。
最後に会ってから二年ほどになる。それでも、幼い頃からイレーネの突飛な思いつきに散々付き合ってきた相手だけに、顔を合わせてしまえば二年という時間はあっという間に消えた。
「しかしまあ、一昨日帰ってきたばかりだってのに、朝からもうここか。家族との団らんはいいのか?」
ガストンが呆れ半分、嬉しさ半分といった顔で腕を組む。
「何よ。早く来たら駄目なの?」
「駄目とは言ってねえよ。ただな、お嬢様が朝っぱらからこの工房へ来て、挨拶だけして帰るとは思えねえんだ」
「失礼ね。今日はまだ何も頼んでないでしょう」
「“まだ”って自分で言ってるじゃねえか」
ガストンが歯を見せたところで、少し離れた作業台からルシウスの声が飛んできた。
「親父、その辺にしとけ。お嬢がここへ来た時点で何かあるのは、今さら確認するまでもねえだろ」
イレーネが振り向くと、ルシウスは小さな船体模型を片手に、こちらのやり取りを面白そうに眺めていた。袖を肘までまくり上げ、目の下にはうっすらと隈が浮いている。
「ルシウスまで何なのよ」
「だったら今日はその珍しい日にしてくれ。俺たちは昨日から寝る間も惜しんで働いてるんだ」
「それを私に言われても困るわよ」
「まあ、そうなんだけどな」
自分でも筋の通らないことを言ってるのを自覚したのか、ルシウスが肩をすくめる。そのまま大きなあくびを一つ噛み殺した。
「まあ、昔話はあとだ。お嬢に見せたいもんがある。たぶん、こっちを見たら挨拶だけで帰る気なんかなくなるぞ」
気を取り直すかのように話を変えたルシウスが向かった先には、長い水槽と、形の異なるいくつもの船体模型が並んでいた。
イレーネもすぐにそちらへ歩み寄る。
「ドラペテス?」
「船首だけな。今の形がこれで、こっちは水の下を少し前へ出してある。丸みを付けたのも何種類か試してる」
ルシウスは模型を一つ水槽へ浮かべた。昨日から何度も試したのだろう。木肌には水が染み込み、脇に置かれた紙には線や数字が何度も書き加えられている。
「向かい波で頭を突っ込みすぎる癖があるって話しただろ。船首の浮き上がりをもう少し良くできないかと思ってな。形を変えて引いてみたら、波の立ち方も、沈ませたあとの戻り方も思った以上に違った」
別の模型も浮かべ、同じ条件で引いてみせる。細い紐を引く手つきは慣れたもので、速さも角度も、ほとんど同じに揃っていた。
イレーネは水槽の縁に身を寄せ、しばらく二つの波を見比べていた。水面に走るゆらめきが、模型ごとに違う形で左右へ広がっていく。
「こっちの方が波が小さい。それに、前を沈めたときも戻るのが早いわね」
「ああ。ただ、だからこれで決まりってわけじゃない。船首だけ良くなっても、船全体の釣り合いを崩したら意味がねえ。ドラペテスでも少しずつ試しながら詰めるつもりだ」
「ちょうどいいわね」
イレーネの言葉に、ルシウスが顔を上げた。
「前から話してた船、そろそろ本格的に進めたいの」
その一言だけで、ルシウスには通じたらしい。模型を水槽から取り上げると、濡れた船底を布で拭きながら作業台へ戻した。
「艦隊の話か」
「ええ」
王国海軍にいた頃から、二人の間では何度も話してきた構想だった。
ドラペテス一隻だけを特別な艦として終わらせるのではなく、その設計思想を発展させ、似た速力と機動性を持つ艦を揃える。一隻一隻が勝手に動くのではなく、同じ命令で同じように動く艦隊を作る。第二練習艦隊ではついぞなしえなかったことだ。
速力を生かして敵との距離を選び、白兵戦ではなく砲戦を主体とすることも含めて、ルシウスには今さら説明する必要はなかった。
ガストンも、王都から届く息子の手紙を通して、その構想自体は以前から知っている。ただし、これまではあくまで将来の話だった。
「でも、今回は少し事情が違うの」
イレーネの声音が変わったことに気づき、ルシウスが手を止めた。
ガストンも図面から顔を上げる。
イレーネは二人を順に見たあと、言った。
「昨日、お父様と話したの。私たち、アルカディアの独立を考えてる」
ルシウスの表情から笑みが消えた。ガストンも腕を組んだまま動きを止める。工房では変わらず木槌や鋸の音が響いていたが、二人ともすぐには何も言わなかった。
「……お嬢、それ、本気で言ってんのか?」
やがてルシウスが低い声で尋ねた。
「本気よ。お父様も同じことを考えてた」
「ご領主様までもか」
ガストンの太い眉が上がる。
王家との関係がこれまで通りに戻らないことくらいは、二人にも分かっていただろう。それでも、アルカディアそのものを王国から切り離すところまで踏み込んでいるとは聞かされていなかった。
「もちろん、すぐに独立を宣言するわけじゃない。でも、本当に独立するなら、王国が黙って認めてくれるとは思ってない」
そこまで言えば、二人にも続きは分かった。ルシウスが腕を組む。
「戦になる可能性まで見てるんだな」
「ええ。戦わずに済むなら、それが一番よ。でも、ならないことを期待して何もしないわけにはいかないでしょう?」
ルシウスは答えず、作業台の上に広げられた図面へ目を落とした。ドラペテスを発展させた艦隊を作る。それ自体は以前から話してきた。
だが、その艦隊が王国海軍と戦う可能性まで考えることになるとは、さすがに想像していなかったのだろう。かつて同じ旗の下で訓練を受けた相手と砲を向け合う光景が、脳裏をよぎったのかもしれない。
ガストンも船渠の方へ目をやったあと、太い息を吐いた。窓の向こうでは、建造中の船の肋材が、朝日を受けて黒々と浮かび上がっている。
「なるほどな。それで、帰ってきた早々から船の話ってわけか」
「ごめんなさい。久しぶりに会って、いきなりこんな話で」
「謝ることじゃねえ。ただ、思ってたよりずっとでけえ話になったと思っただけだ」
ガストンは難しい顔で、もう一度図面へ目を落とした。太い指で顎を撫でながら、しばらく黙り込む。
「だったら、中途半端なもん造ってる場合じゃねえな」
その言葉に、イレーネの表情が少しだけ和らぐ。張り詰めていた肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
「船の考え方そのものは、今まで話してきた通りでいいと思ってる。でも、これからは造り方まで変えたいの」
「数を急いで揃えるためか」
ルシウスが尋ねる。
「それもあるわ。それに今後のことを考えても、その方がいいでしょう?」
イレーネは図面の上に描かれた部品へ指先を移した。
「同じ型の船を造るなら、船体だけじゃなくて、滑車や軸、砲架みたいなものも、できるだけ寸法を揃えたい。同じものを繰り返し作れるようにして、どの船でも使えるようにする。そうすれば、造るのも早くなるし、修理や補給だってずっと楽になるはずよ」
ルシウスはすぐには答えず、図面を見ながら考えていたが、やがて頷いた。指先で図面の端を何度か叩く。
「やる価値はあるな。今までは同じ型って言っても、一隻ごとに細かいところが違うのは当たり前だった。そこまで揃えるなら、艦隊になったあとも扱いやすい」
「ただ、造る側は今まで通りじゃ無理だぞ」
ガストンが続ける。
「一隻なら、その場で削って合わせりゃ済む。だが、何隻も同時に造るなら、最初に寸法を決めて、どの職人が作っても同じものになるようにしなきゃならねえ」
「だから、それも含めて変えたいの」
イレーネが答えると、ルシウスが怪訝そうに目を細めた。
「ところでお嬢。何隻造るつもりなんだ?」
イレーネは少しだけ間を置いた。深く息を吸い、言葉を選ぶように視線を巡らせてから、はっきりと口にする。
「最終的には、二個艦隊欲しい」
ルシウスの手が止まった。ガストンもゆっくり顔を上げる。
「……二個?」
「ええ」
「……待て。二個ってことは、最終的に六十隻か?」
「理想はね。いきなり六十隻なんて言ってないわよ。まずは一個艦隊、三十隻」
「三十隻を“まず”って言う奴、初めて見たぞ」
ルシウスはしばらくイレーネを見つめ、それから額に手を当てた。ガストンも呆れたように鼻を鳴らす。
「一隻二隻じゃねえぞ、お嬢様。三十だ。木材も鉄も帆布も、使う量が桁違いになる。砲だって載せるんだろうが」
「簡単だなんて思ってないわよ。だから今から準備するの」
イレーネは少しも引かなかった。真っ直ぐに向けられた琥珀の瞳に、迷いはない。
「船の基本設計を詰めるのに、三か月くらいは使っていいと思ってる。その間にドラペテスで試せることを試して、造る側の準備も始める。三か月で全部決めきれなければ、そのときは延ばせばいい」
ルシウスはしばらく図面と模型を見比べていたが、やがて頷いた。
「分かった。三か月を目安にやってみる。ただし、期限に合わせて無理に仕様を固める気はねえぞ」
「そこは任せるわ」
「なら、問題は造る方だな」
ガストンがそう言って工房の奥へ顔を向けた。
「ちょうどいいもんがある。お嬢様にも見せてやるよ」
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