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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第1章 婚約破棄

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第9話 ドレスとブーツ

第二練習艦隊の帰還から二日後、王城の正門前で一台の馬車が止まる。

御者が素早く回り込んで扉を開けると、イレーネは音もなくしなやかに地面へ降り立った。


普段の潮風にさらされた濃紺の海軍制服ではない。

今日は王城へ上がるために仕立てられたドレス姿だった。


とはいえ、その装いは社交界の令嬢たちが競い合うような華美さとは程遠い。

深い紺色の生地に、金や銀の刺繍といった装飾は最小限。スカートの裾は広がらず、身体の線に沿うだけのすっきりとしたシルエット。歩きやすさを何よりも優先した、どこか軍服の機能美を思わせる仕立てである。


夏の日差しはすでに石畳をじりじりと照らし始めていた。

これから気温はさらに上がるだろう。


イレーネは着慣れないドレスの襟元を、指先でかすかに緩めかけた。

その時、前方の王城内へと続く階段を歩く、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

背筋を美しく伸ばし、立ち姿にも品格の漂う女性。


「カサンドラ様」


呼ばれた女性が衣擦れの音をさせて優雅に振り返る。


「あら、イレーネ様。お戻りとは聞いていましたが、お元気そうで何よりです」


一瞬だけ目を丸くしたあと、イレーネの装いを上から下までまじまじと眺める。


「……ようやく、お考えを改められたのですね」


「え?」


「いつもの武骨な制服ではなく、ちゃんとドレスをお召しになって。少しは王太子妃の自覚が芽生えたのかしら」


イレーネは自分の裾をつまみ、その場で自慢げにくるりと一回転してみせた。


「どう? 動きやすいと思いませんか? 歩幅もそのままで歩けますし、階段も楽で裾を踏むこともありません。これなら船に乗っても困りませんわ。我ながら傑作の仕立てだと思うんです。それに――」


イレーネは、いたずらっぽく微笑むと、右足を前に突き出し、スカートを大胆に持ち上げる。


「ヒールの高い靴もちゃんと履いてきました」


裾から覗いたのは、黒く頑丈そうなショートブーツだった。

得意げに胸を張るイレーネから、王城の衛兵たちは慌てて視線を逸らす。

カサンドラは思わず額にそっと手を当てた。


「……褒めているわけではありません。とにかく、今すぐその足を隠しなさい」


「そう?」


言われて、素直に足をスカートの奥へ戻すイレーネ。

カサンドラは、形の良い眉をひそめて小さくため息をつく。


「せっかくおきれいなのですから、もう少し華やかなお召し物になさいませ。王太子妃ともなれば、どのような装いで人前に立つかも務めの一つです。ましてやドレスの下にブーツなど……いったい誰がそんな発想をするのですか」


イレーネは肩をすくめる。


「うーん、私はこっちのほうが機能的で好きなんだけど」


「それではいけません」


呆れ果てた様子のカサンドラだったが、イレーネのその飾らない態度に少しだけ口元を緩めた。


「まあいいですわ。これからは王城に上がる時間も増やせるのでしょう? 私が、ふさわしい言葉遣いからドレスの選び方まで、きちんとお教えいたしますわ。覚悟しておいてくださいませ」


言い残すと、裾を華麗にさばきながら王城の中へと歩いていった。

イレーネはその後ろ姿を見送り、苦笑した。


「……海図の読み方なら、いくらでも覚えられるんだけどな」


誰に聞かせるでもなく呟き、カサンドラの後を追うように王城へ足を向けた。

その足取りは軽く、どこか弾んでいた。

お読みいただきありがとうございます。

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