第8話 アンナとの出会い
港を離れる馬車の中で、アレクシオスは窓の外へ目を向けていた。
桟橋では、濃紺の軍服をまとったイレーネが、相変わらず忙しなく動き回っている。副官を呼び止め、何事か指示を出したかと思えば、今度は水兵たちの輪へと歩いていく。
相変わらず、軍服を着て走り回っている忌々しい女だ。
これからは艦隊を離れて、王太子妃教育に専念すると言っていたが、どうだか。
アレクシオスは小さく息を吐いた。
それに引き換え、アンナは――。
初めの頃、アンナが王城にいることを不思議に思ったことがある。
「また君か」
まだ肌寒く薄暗い冬の廊下で声を掛けると、アンナは振り返り、驚いたように瞬きをして、少し困ったように笑った。
「父を待っておりますの。今日もお仕事が長引いているようで」
財務大臣の娘である以上、王城へ出入りすること自体は珍しくない。
それから何度か、同じように顔を合わせた。廊下の曲がり角や、図書室の近く。
外套がいらなくなる頃には、アンナを見かけるのはごく当たり前になっていた。
イレーネが三か月の訓練航海へ出てからは、アンナと顔を合わせれば、しばらく話し込むことも珍しくなくなっていた。
彼女の柔らかい声が、激務に追われるアレクシオスの心を不思議となだめてくれた。
ある日、二人で話していると、アンナがふと窓の外へ目を向けた。視線の先にはセルリア海の淡い青色が広がっていた。
「イレーネ様は、今日もお見えにならないのですね」
「海に出てばかりだからな。父上もお認めになっていることだ」
アレクシオスは、わずかに眉を寄せた。無意識のうちに、声が少し硬くなる。
「もちろん存じておりますわ。海軍のお仕事も大切ですもの」
アンナは微笑み、ほんの少しだけ首を傾けた。
「ただ、アレクシオス様がお一人でいらっしゃることが多いので、少し寂しそうだなと思っただけですわ」
「私が?」
「ええ。でも、私の思い違いでしたら、ごめんなさい」
恥ずかしそうにアンナは視線を伏せ、両手を腕の前で小さく組んだ。その仕草にアレクシオスの胸の奥が温かくなった。
別の日には、王城を訪れた貴婦人たちの輪の中に彼女の姿があった。
身分の隔てなく笑顔を絶やさず、話題に入れずにいる者がいれば、さりげなく隣へ歩み寄って声を掛ける。
「何をしているんだ?」
客人を見送ったアンナに尋ねると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「皆様のお相手をしていただけですわ」
「なぜ君が?」
「父を待っていたら、お困りのようでしたので。せっかく王城までいらした方々を、そのままお帰しするのも失礼でしょう?」
いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。飾らない笑顔に、つられてアレクシオスの口元も緩む。
――いつからだっただろう。
王城でアンナを見かけると、ごく自然にアレクシオスの方から呼び止めるようになった。いつの間にか、愛称で呼ぶことさえ許していた。
「アンナ、少しいいか」
「はい、アレク様」
最初はアンナが父を待つ間だけだった。
やがて晩餐会や茶会にも顔を出すようになり、気づけばアンナが隣にいることが珍しくなくなっていた。彼女が隣にいる景色の方が、アレクシオスにとっては当たり前に思え始めていた。
「王太子妃ともなれば、大変なのでしょうね」
ある日の晩餐会で、アンナがぽつりと言った。
「何がだ?」
「殿下のお隣で皆様をお迎えして、お話を聞いて。それだけではありませんわ。お召し物にも気を配らなければなりませんし、王城の皆様のお顔も覚えなければ」
アンナは少し考え、困ったように笑った。
「私でしたら、失敗ばかりしてしまいそうです」
その言葉に、アレクシオスも笑った。「君なら大丈夫だ」と言いかけて、言葉を飲み込む。
だが、ふと思った。アンナはそう言いながら、すでにその多くを難なくこなしている。むしろ彼女こそが――。
二人の距離を訝しむ者がいなかったわけではない。財務大臣の娘とはいえ、近頃は少々王城に顔を出しすぎではないか。そう思う者もいた。だが、表立って口にする者はいなかった。
そして当のアレクシオス自身も、周囲からどう見られているのかなど、まるで気づいてはいなかった。ただ、アレクシオスにとってアンナといる時間が心地よかっただけだった。
馬のいななきが聞こえ、馬車がゆっくりと速度を落とした。
アレクシオスは顔を上げる。
いつの間にか、王城の門が目の前まで迫っていた。
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