第7話 イレーネの疑念
馬車は二人の前で静かに止まると、前方の一台からアレクシオスが降り立った。
「アレクシオス様」
イレーネの顔がほころぶ。
「長い間お待たせいたしました。これでようやく王太子妃教育も――」
その言葉は最後まで続かなかった。
後ろの馬車の扉が開き、一人の女性がゆっくりと姿を現す。
アンナだった。
ここ数か月、アレクシオスとアンナの噂は王都で絶えなかった。
だが、イレーネは気にも留めなかった。
王太子である以上、根も葉もない噂が立つことなど珍しくはない。
何より、アレクシオスはそのような軽率な人ではない。
そう信じていた。
だが――。
イレーネの顔から静かに笑みが消える。
次の瞬間、そこにあったのは海軍司令官の凛とした表情だけだった。
「久しぶりだな、イレーネ」
アレクシオスは静かに口を開いた。
「第二練習艦隊、無事の帰港、ご苦労だった」
その声は平坦で、その瞳にも感情の色はなかった。
あくまで王太子の義務を淡々と果たしているだけのようだった。
イレーネはわずかに胸がざわつくのを覚えた。
確かに三年前に婚約を結んだ時から、あまり関心を持たれていないことは薄々感じていた。だが、航海に出る前はここまでよそよそしくはなかったはずだ。
この三か月の間に、何があったのだろう。
もしや王に?
いやそれならば伝令が待ち構えていたはずだ。
ふと、先ほど姿を現したアンナの姿が脳裏をよぎる。
やはり、あの噂は本当だったのだろうか。
「こちらは財務大臣の次女、アンナ・デルフィだ」
アレクシオスに促され、アンナは一歩前へ進み出た。
「初めまして、イレーネ様。アンナ・デルフィと申します」
そう言って優雅に一礼すると、アンナは人懐っこい笑みを浮かべる。
「アレク様には、いつもお世話になっておりますわ」
その呼び方に、イレーネは一瞬だけ目を瞬かせた。
胸の奥に、先ほどよりも重いものが沈んだ。王都で囁かれていた噂は、少なくとも、根も葉もないものと切り捨てられるほどの間柄ではないらしい。
だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ返す。
「こちらこそ。第二練習艦隊司令官、イレーネです」
短い挨拶だった。その後は帰還を祝う儀礼的な言葉が交わされ、港は再び慌ただしさを取り戻していく。
やがて一行はそれぞれの馬車へ乗り込み、王城へと戻っていった。
気づけば、ニコラスの姿も港にはなかった。
イレーネの胸に残った違和感だけが、静かに消えずにいる。
港ではまだ、荷を運ぶ掛け声が飛び交っていた。
小さく頭を振ると、副官に向き直る。
「撤収作業が終わり次第、訓練生は二日間の休暇だ。忘れるな。三日後には修了式だ。各自、身の回りの整理をさせとけ」
海風が弱まっていた。
もうすぐ日が沈む。
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