第10話 南の帝国の内情
イレーネは、中庭を右手に望む廊下を、いつもより幾分歩幅を落として淑やかに進む。いつもなら士官服に身を包み、大股で歩くところだ。
先ほどのやる気に満ちたカサンドラを思い出す。
次に会ったときには、少しは驚かせてやろうと、いたずら心にも似た闘志をひそかに燃やしていた。
すると、少し先、左手にみえる重厚な扉が、内側から開いた。
先に出てきた従者が道を譲ると、中から一人の青年が姿を現す。
濃い茶色の髪に、澄んだ青い瞳。旅の日焼けを残した精悍な顔立ちは、半年に及ぶ外遊の名残を感じさせた。
従者に二言三言話すと、その青年はこちらへ歩き出しかけたところで、ふと足を止める。
「……イレーネ?」
イレーネも目を見開いた。
「レオン!」
二人は自然と歩み寄り、互いに笑みがこぼれる。
「帰ってたのか」
「一昨日ね。あなたこそ、外遊お疲れさま」
「ありがとう。先週帰ってきたばかりでね。今、ふるさとのあっさりとした味を堪能しているところさ。南は刺激が強すぎてね」
そう言って肩をすくめるレオンに、イレーネは小さく笑う。
「半年だったでしょう? ずいぶん長かったわね」
「ああ、親父にしっかり見てこいなんていきなり言われてね。西の小国家群を回って、それからセルカーン帝国にも寄ってきた」
その国名に、イレーネの笑みが少しだけ引き締まる。海運を生業とする家のものとして、海を挟んだ隣の大国の動向は無視できない。
「外務大臣子息ともなると大変ね。で、どうだった?」
レオンは従者に先に行くよう目配せし、イレーネを中庭に面した柱の陰にいざなう。
回廊を吹き抜ける夏の風が、二人の間に少しだけ緊張感を運んできた。
そして、少し考えて、声をひそめる。
「表向きは平和そのものだった。市場も港も活気がある。皇帝の威光も健在だ」
レオンの青い瞳が、真剣な光を帯びた。
「でも、税が重い」
イレーネは黙って続きを待つ。
「商人も、農民も、船乗りも……。誰と話しても、最後は税の話になった」
レオンは腕を組み、柱に体を預ける。
その表情には、冷徹に情勢を分析する外交官の片鱗が見える。
「酒場に行っても同じさ。それに最近は、治安も悪くなったって」
「みんな、不満を抱えている?」
「そう感じた」
レオンは静かに頷く。
「兵士もなんだか慌ただしかった。ただ、今すぐ何かが起きるとは思わない。あの国の空気は外じゃなく、内へ向いていた。無理に押さえ込んでいるような、そんな息苦しさがあったよ。何も起きなければいいが……」
イレーネは右手で左の二の腕を軽く抱くようにし、小さく息を吐く。
「考えすぎならいいけど」
「もっとも――」
レオンは努めて軽い口調で続ける。重くなった空気を和らげるように、ふっと表情を緩めた。
「あの国は皇族同士の権力争いなんて珍しくもない。そのせいで軍がバタバタすることもある。だから今回もその程度なのかもしれない」
二人は目を合わせ、小さく笑った。
真夏の陽光は中庭の石畳を白く照らし、柱の影はくっきりと伸びていた。
噴水の水音が、夏のしじまに静かに溶けていく。
少しだけ軽くなった雰囲気を味わうかのように、レオンはイレーネを改めて見た。
「……ところで」
「ん?」
「そのドレス――」
イレーネは何か粗相があったかと、あわてて裾へ視線を落とす。
「――似合ってる」
イレーネは顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「本当?」
「ああ。君らしい」
その言葉に、イレーネは心底ほっとしたように笑う。
「良かった。さっきカサンドラ様には、まだまだって言われちゃった」
レオンは苦笑する。
「カサンドラ様は王太子妃とはどうあるべきかで、君をご覧になる。それはそれで、あの方らしい見方であり、尊敬すべきところでもある」
そして、声を一段と穏やかにして続けた。
「でも俺はイレーネを見てる」
イレーネは少し照れくさそうに笑い、気恥ずかしさを隠したいのか、カサンドラの時と同じように、くるりと一回転してみせた。
「ブーツも駄目なんですって」
スカートの裾を少し持ち上げて、無邪気に笑う。
覗くのは、磨き込まれた黒いショートブーツ。
レオンは足元へ目をやり、肩を揺らす。
「いつもどおりだ」
「歩きやすいもの」
「見れば分かるって」
二人は思わず目を見合わせる。
笑いが収まった頃、レオンが思い出したように、いたずらっぽい視線を向けた。
「でも、さすがに短剣は――」
言い終わる前に、イレーネは胸を張った。
「今日は置いてきたわ」
一瞬の沈黙。
レオンは耐え切れずに吹き出した。
「『今日は』か」
「今日はよ」
得意げに言い切るイレーネに、レオンは額へ手を当てて笑うしかなかった。
「相変わらずだな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
そのとき、いつの間にか戻ってきたレオンの従者の声が響く。
「レオン様。外務大臣閣下がお待ちでございます」
「ああ、今行く」
レオンは軽く手を上げた。別れを惜しむように、一度だけイレーネの目をまっすぐに見つめる。
「じゃあ、また」
「ええ。また」
二人は笑顔のまま別れ、それぞれの用件へ向かって歩き出した。
イレーネは王宮の奥へと歩を進める。
立哨する近衛騎士の姿が増えるにつれ、喧騒は遠ざかっていく。
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