第83話 同じ答え
翌朝。領主館の執務室には、まだ低い朝の陽が斜めに差し込み、磨かれた床の上へ窓枠の長い影を落としていた。遠く港の方角からは、一日の仕事を始めたばかりの荷車の軋む音や、人々の声が微かに届いてくる。
大きな机の向こうでは、ミハイルがすでに仕事を始めていた。黒に近い焦茶の髪には年齢相応にわずかな白いものが混じり、朝の光を受けて淡く艶めいている。
コンラッドは机から少し離れた窓辺に立ち、書棚へ軽く背を預けていた。陽光を反射する赤い髪は、イレーネと同じ母譲りのものだ。片手には何枚かの書類を持っていたが、今は読むでもなく、妹が来るのを待っていたらしい。
やがて廊下に軽い足音が響き、扉を開いてイレーネが姿を現した。
「おはようございます、お父様」
「ああ。おはよう、イレーネ」
「兄さんも、おはよう」
「おはよう。昨日は眠れたか?」
開口一番それか、とイレーネは少しだけ眉を寄せる。
「眠れました。朝食もちゃんと食べました」
まだ何も聞いていないミハイルへ先回りするように付け加えると、父は何か言いかけたまま、わずかに口を開き、そのまま閉じた。その横で、コンラッドが喉の奥で笑いを噛み殺しきれず、いかにも面白そうにニヤニヤしている。
「先に言われましたね、父上」
「……別に聞こうとはしていない」
「絶対に聞くつもりだったでしょう」
「八日間も船に乗って帰ってきた娘の体調を気にするのは、父親として当然だろう」
昨日とまったく同じ理屈だった。イレーネは呆れながらも、胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じ、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫です。もう元気ですから」
「ならいい」
ミハイルはそれ以上追及せず、机の上に広げていた書類を端へ寄せた。その仕草だけで、それまでの家族らしい空気が少しだけ引き締まる。
「さて、王都の話を聞こう」
「はい」
イレーネは父の前まで進んだ。
王都を出てから、何度も考えていたことだった。書簡には必要なことを書いたし、自分が何をしたのか、なぜそうしたのかも伝えてある。それでも、顔を合わせなければ言えないことがあった。
父と兄を順に見て、イレーネは一つ息を吸い、少し言いにくそうに口を開く。
「お父様、兄さん。まず……ごめんなさい」
窓辺に立っていたコンラッドの手が止まった。
ほんの一瞬だったが、その顔には明らかな警戒が浮かんでいる。王太子から婚約を破棄され、その場で海軍を辞め、王都でタラシア家が築いてきたものを片っ端から引き揚げ、最後には三百人以上を軍艦へ乗せて帰ってきた妹である。その一連の行動そのものは、コンラッドにしてみれば驚くほどイレーネらしかった。
嵐の中へ自ら舵を切るような妹が、いきなり殊勝に謝っている。
イレーネは兄の視線に気づき、わずかに目を細めた。
――何よ。
コンラッドは何でもないように視線を逸らし、イレーネも気を取り直して父へ向き直る。
「私の婚約のことで、こんなことになってしまって。王都でタラシア家が築いてきたものまで失わせてしまいました。お父様にも、兄さんにも、たくさん迷惑をかけたと思っています。私一人のことならまだよかったんです。でも、タラシア家まで巻き込んでしまった。それは、本当に申し訳ないと思っています」
ミハイルは何も言わず聞いていた。組んだ指の上に静かに視線を落とし、娘の言葉の一つひとつを量るように受け止めている。
「それと、もう一つ。もし、お父様が今回のことを収めて、王家との関係を修復することを望むのであれば、私を切り離してください」
今度はコンラッドの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
「王都でやったことは、すべて私一人の判断だったことにして構いません。婚約のことも、その後のことも、全部私が勝手にやったことにすれば――」
「イレーネ」
ミハイルの静かな声が、娘の言葉を遮った。
「お前は、私が何も考えていなかったと思っているのか?」
イレーネは口を閉じた。
ミハイルは椅子の背へ身体を預けながら、しばらく娘の顔を見つめる。
「私はアレクシオス殿下を何度も見てきた。お前が婚約してから、昨日今日始まった付き合いではない。あの方がお前をどう見ていたかも、私をどう見ていたかも、アルカディアをどう見ていたかもな。今回のことで初めて気づいたわけではない。いずれ何かは起きるだろうと思っていた」
そこに怒気はなかった。だからこそ、その言葉には錨のような重みがあった。
ミハイルは机の上に置かれていた一通の書簡へ目を落とす。それは王都からイレーネが送ったものだった。何度も開かれたのだろう、折り目は柔らかく擦れている。
「お前からの書簡はすべて読んだ。書かれていたことだけではない。その先にお前が何を考えているのかも分かっていた。そのうえで私は止めなかった。それどころか、お前が送り出した人間も物も仕事も、こちらで受け入れる準備を進めた」
そこで顔を上げ、娘を真っ直ぐに見る。
「ならば、それはもう、お前一人がしたことではない。タラシア家がしたことだ」
窓の外から、遠く港の方角で鳴る鐘の音が澄んだ余韻を引いて聞こえてきた。イレーネはしばらく父を見つめたまま、胸が詰まって何も言えなかった。
「それに、私がお前の立場だったとしても、おそらく同じことをした。だから、お前を切り捨てて王家との和解を求めるなどという選択肢は、最初からない。我々を切ったのは、こちらではない。向こうだ」
イレーネは少しだけ俯いた。けれど、もうそこに先ほどまでの気まずさはなかった。肩にのしかかっていた見えない重りが、ふっと軽くなったようだった。
やがて顔を上げると、ミハイルも娘の表情がいつものものに戻ったことに気づいたのか、ほんの少しだけ口元を緩める。
「それで、イレーネ。お前は、どこまで考えている?」
問いかけられた意味を、イレーネはすぐに理解した。
父を真っ直ぐに見つめる。兄弟の中で唯一、父から受け継いだ琥珀の瞳が、目の前にある同じ色の瞳と真正面からぶつかった。朝の光を溶かし込んだ二つの琥珀が、揺らぎもせず互いを映す。
言葉にしなくても、ミハイルには伝わった。
「……そこまでか」
「はい。独立を考えています」
室内に静けさが落ちる。しかし、ミハイルの顔に驚きはなかった。
「やはりな。私も同じ考えだ」
イレーネは答えず、苦笑する父を見つめたままゆっくりと頷いた。
海を隔てた王都と、この港町、別々の場所で、別々に考えていた。それでも二人が辿り着いた答えは同じだった。
「ただし、独立を口にする以上、その先も考えなければならん。王国が認めなければどうする」
「戦います」
即答だったが、その声音に勇ましさはなかった。あるのは、静かな落ち着きだけだった。
「もちろん、こちらから戦争を望むつもりはありません。話し合いで済むなら、その方がいいです。でも、独立を守るために必要なら戦います。人が死ぬことも分かっています。私たちの側にも、王国の側にも」
海軍に身を置き、船と人を率いてきた。海賊との交戦で血を見たこともあれば、帰らなかった部下もいる。だから、戦うという言葉が、地図の上で駒を動かすだけのものではないことくらい、イレーネには分かっていた。
「それでも必要なら、私は命令を出します」
ミハイルは何も言わず娘を見つめた。その目に迷いがないことを確かめると、彼女が背負おうとしているものごと受け入れるように、ゆっくりと一度だけ頷く。
「そうか」
その横で、コンラッドが盛大なため息をついた。
――似たもの同士。
そう言わんばかりに父と妹を見比べ、いかにも仕方がないというように肩をすくめる。その仕草の意味を二人はすぐに察したらしく、次の瞬間、二対の琥珀の瞳が揃ってコンラッドへ向けられた。
コンラッドは矢のようなその鋭い視線を軽く受け流し、再び肩をすくめる。
「僕まで一緒にしないでくださいよ。二人ほど短気じゃありません。もっと穏便にやりますとも」
イレーネの眉がわずかに動き、ミハイルも何も言わず、ムッとした様子で息子を見ている。コンラッドはそれ以上何も言わなかった。涼しい顔のまま、口の端だけがかすかに上がっている。
少なくとも、独立そのものには一言も反対していない。
ミハイルが机へ視線を戻した。
「では、次だ。独立するとして、何が必要になる?」
イレーネは少し考えてから答えた。
「全部です」
「全部?」
「船も、大砲も、銃も、火薬も。兵士も水兵も必要ですし、造船所や工廠も今以上に動かさなきゃいけません。それを支える人も、お金も必要です。それに、軍備だけ膨らませたって長くは続きませんから、アルカディアの経済そのものを今よりずっと大きくしないと」
そこまで聞いたコンラッドが、口元をわずかに歪めた。
「……うん。本当に全部だね」
「だから、そう言ってるでしょ」
イレーネは当然のように返す。
「でも、一度に全部はできません。差し当たっては船ね」
ミハイルが僅かに首を傾けた。
「今ある船では足りんか?」
「足りません」
アルカディアにも、ガレオンを含めればおよそ半個艦隊分の艦艇がある。ただ、それらは沿岸の哨戒や商船護衛、海賊対策を目的として、その時々の必要に応じて継ぎ足すように整備されてきたものだった。一隻、あるいは二隻で海へ出て、それぞれの任務をこなすのであれば、何の問題もない。
だが、王国海軍と正面から戦うための艦隊となれば、求められるものはまるで違う。単艦の強さではなく、数十の船が一つの意思で動く、その統一こそが問われる。
「今ある船は、そのまま使います。哨戒も護衛も続けなきゃいけませんし。でも、それとは別に、最初から一つの艦隊として動かすことを前提にした船を揃えたいです」
「どのくらいだ?」
「できれば二個艦隊」
コンラッドの顔が固まった。
「……二個? さすがに無理だぞ」
「分かってるわよ」
イレーネは少し不満そうに口を尖らせる。
「王国には常設で四個艦隊あるの。それに、場合によっては臨時艦隊を組むこともある。だから本当は二個くらい欲しいけど……さすがに今のアルカディアで、いきなりそこまでは無理ね」
そこで一度言葉を切り、指を一本立てた。
「だから、まず一個艦隊。三十隻です」
コンラッドは額へ手を当てた。一個になったところで、十分に大きな話だった。
「それを、すぐ造り始めるのか?」
「いいえ。まず三か月ください。その間に、次に造るガレオンの仕様を決めます」
イレーネはミハイルの質問に答えると、机へ近づき、そこに置かれていた紙を一枚手に取った。指先で紙の端を軽く弾き、考えを整えるように視線を走らせる。
「船体、帆装、武装、乗員数、積載量、それから使う部材まで。ドラペテスも、今アルカディアにあるガレオンも使って、もう一度全部見直します。三十隻を揃えるのに、一隻ずつ違う船を造っていたら間に合いません」
「新しい船を作るというより、標準を決めるわけか」
ミハイルの言葉に、イレーネが頷く。
「はい。一隻だけ最高の船を造る必要はありません。同じ部材を使って、同じ方法で造れて、同じ性能の船を三十隻揃えられることの方が大事です。その仕様を三か月で固めます」
「なら、その三か月で生産する側も準備を進める必要があるな」
「そうです。設計が決まってから始めたんじゃ遅いです」
アルカディアは古くからの船の町だ。潮と木と鉄の匂いが染みついたこの町には、船台そのものが足りないわけではない。問題は、それらをどこまで高い稼働で回し続けられるかだった。
「今ある船台をできるだけ遊ばせないようにしたいです。木材や鉄、帆布、索具を切らさず運び込んで、職人も途切れなく配置する。短期間に三十隻揃えるなら、そこが一番大事になると思います」
「造船所そのものも、増やせるなら増やした方がいいだろう」
「王都から来た職人も大勢いますからね。工廠も同じです。船だけ増えても、大砲や火薬が追いつかなかったら意味がありません」
「なら、資材の流れから見直した方が早いな。木材は今の――」
「供給量だけでは足りないと思います。西側からも買い付けられるようにしておいた方がいいです。それと鉄は――」
「港から直接工房へ回せるようにするか」
「はい。その方が――」
言葉を重ねるほどに、二人のやり取りは次第に速くなっていった。まるで追い風を受けた帆が膨らんでいくように、ミハイルが一つ問題を挙げれば、イレーネはその答えと次の課題を返し、イレーネが案を出せば、ミハイルはすぐにその先に必要になるものを拾い上げる。互いに最後まで説明しなくても、相手がどこを見ているのか分かっているらしい。
窓辺からそれを眺めていたコンラッドは、半ば感心し、半ば呆れていた。
自分が父と仕事の話をするときだって、決して話が通じないわけではない。ここ数年一緒に領地を回してきたのだから、普通の親子よりずっと意思疎通は早いはずだ。それでも、ここまで説明を省いて次から次へと話が繋がることはない。
やはり、似たもの同士なのだ。
そのうち話題は、船からアルカディア全体の経済へと広がっていった。
増えた人を受け入れるなら、新しい仕事も住む場所も要る。軍備を拡張するだけで領内から金を吸い上げていては、独立する前にアルカディアの方が疲弊してしまう。必要なのは軍事力を増やすことだけではなく、それを支え続けられるだけの経済そのものの底上げだった。
「西方との交易は、これから本格的に開拓できます。それに、これまでネイモが中心だった南方との交易も、アルカディアから直接やれるものを増やしたいです。セルカーンとの交易だって、全部ネイモを経由する必要はないでしょう?」
「王国との商いはどうする?」
ミハイルの問いに、イレーネはすぐ答えた。
「そこは大丈夫です。レアンドロ様と既に話をつけてあります。王都から手を引くことと、王国との商売をやめることは別ですから。今まで通り続けられます」
ミハイルの眉がわずかに上がった。
「そこまで話をつけていたのか」
「当然です。王国は大きな市場ですもの。喧嘩したからって、自分から商売まで捨てる必要はないでしょう?」
「確かにそうだな」
ミハイルは素直に感心したように頷いたあと、少しだけ表情を緩めた。
「ただし、足元を見られて搾り取られるなよ」
「分かってます」
間髪入れず返したイレーネに、コンラッドの口元がまたわずかに緩む。
ミハイルはそのまま別の問題へ思考を移した。
「私は領内を回ろう。独立すると決めたのは我々だが、アルカディアはタラシア家だけの土地ではない。他の領主たちにも、それぞれ守るものがある」
王国を離れる理由を説明しなければならない。戦争になった場合、どこまで協力を求めるのか。独立したあとも、彼らの領地や権利をどう扱うのか。力で従わせるのではなく、一つの国として立つつもりなら、納得したうえで同じ側に立ってもらう必要がある。
「反対する者もいるでしょうね。私のせいで……大丈夫でしょうか」
「いるだろう。だから私が話す。何も心配はする必要はない」
思わず不安を吐露してしまったイレーネを安心させるように、ミハイルは当然とばかりに力強く答える。気丈に振る舞っていようが、不安がそんな簡単に払拭されるわけでもない。娘のためなら何度でも言葉で、行動で安心させてやろう。その眼差しには娘を慈しむ確かな愛情が籠もっていた。
そうして、一つの課題を片づける前に、次の課題が見つかる。船の話から始まったはずが、いつの間にか造船、工業、交易、人口、領内政治へと話は広がり、机の上には新しい紙が何枚も並んでいた。
いつの間にかミハイルも椅子から立ち上がり、イレーネと向かい合うように机へ手をついている。
「三か月後には、仕様が決まったらすぐ本格的な建造へ入れる状態にしておきたいです」
「なら、資材の手配は今日から始める。領主たちへの話も早い方がいい」
「あと、乗員ですけど、幸いここはアルカディアです。船乗りには困りません。一から船の扱いを教える必要はないですから、水兵については三十隻を一つとして動かす艦隊行動の訓練に集中できます。その分、訓練期間はかなり短くできると思います」
「士官はどうする?」
「選抜方法や教育については私が考えます。今いるアルカディアの兵や水兵から、昇格させられる人は積極的に上げたいです」
そこでイレーネは一度言葉を止め、父を見る。
「でも、最終的に誰を上げるかは、お父様にも見てほしいです」
「私が?」
「人を見るのは得意でしょう?」
イレーネは当然のことを言うように続けた。
「能力だけじゃなくて、その人が何を考えているかとか、どこに置けば一番力を出せるかとか。そういうところは、お父様の方が私より上手です。そこは信頼してるわ」
ミハイルは少し意外そうに娘を見たが、やがて静かに頷いた。その横顔に、娘に褒められた誇らしさとも照れともつかない色がほのかに差す。
「分かった。候補が決まったら連れてこい」
「お願いします」
「ただし、船の上で使えるかどうかはお前が決めろ。そこまでは私には分からん」
「もちろん」
役割分担は、それだけで決まった。長い説明も、念押しも要らなかった。
「それから、砲の運用も今までのままじゃ駄目です。艦隊戦をするなら、撃ち方も考え直したいですし、砲兵ももっと増やしたい。ちょうど使えそうな人が二人ほどいて――」
白熱する二人の議論をよそに、コンラッドは少し前から窓の外を眺めていた。
「ちょっと、兄さん。聞いてる?」
呼ばれて、コンラッドは室内へ視線を戻した。
「聞いてるよ。三か月で船の仕様を決める。その間に造船所の稼働を上げて、人を集めて、交易を広げて金を回す。仕様が固まったら一気に量産へ入るんだろ」
「そう。だから――」
それだけ確認すると、イレーネはもう父へ向き直っていた。
「港の倉庫も見直した方がいいですね。資材の量が増えたら、今の置き方だと――」
「それなら、港湾側の人間も呼んで一度確認した方が早いな」
「そうしましょう。それと――」
再び二人の議論が始まる。
コンラッドはまたしばらく父と妹の姿を眺めていたが、やがて諦めたように再び窓の外へ顔を向け、もう一度、盛大なため息をつく。今度は二人とも気づかなかった。熱を帯びた声が、ため息をあっさりと呑み込んでしまう。
窓の向こうには、朝の光を受けたアルカディアの青い空が広がっている。
その空とよく似た水色の瞳が、諦めたように遠くを見つめた。
――また、睡眠時間が減る。誰か手伝ってくれる人いないかな。
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