第82話 ただいま
昨日もアップ出来ませんでした。申し訳ありません。
今週はいろいろと限界でした。来週からはまたこれまで通りアップ出来る……と、信じたい。
朝の澄んだ光を受けながら、ドラペテスは穏やかな海面を進んでいた。
外洋を離れてから、景色は少しずつ変わっている。遠くには対岸の山並みが霞み、ところどころに島影が浮かぶ。外海のように水平線まで何もない海ではない。大小の陸地に囲まれた広い海域を、船はその中央へ向かって進んでいた。
行き交う船の姿も増えている。沿岸を結ぶ小型の帆船や漁船、荷を満載した商船。その帆や船形にも、王都周辺とは少し違う、どこか懐かしく見慣れた特徴が混じり始めていた。
そして朝が高くなるにつれ、見える景色の一つ一つがイレーネの記憶にあるものへ変わっていく。
「あの島、覚えてる」
甲板のどこかで、そんな安堵の混じった声が聞こえた。
王都を出て八日。夜明け前に軍港を抜け、一度は東へ向かったあと大きく針路を変え、それからは一度も港へ寄ることなく走り続けてきた。
イレーネは船縁に手を置き、故郷の海岸線を眺めていた。何度も通った海だった。幼い頃にも、海軍に入ってからも、この海を船で行き来している。どこに浅瀬があり、どこで潮が変わり、どの岬を回れば次に何が見えるのか、おおよそのことは頭に入っていた。
それでも今日は、いつもとは少し違って見える。
王都へ戻るための途中でも、訓練航海を終えた後の寄港でもない。長い間、自分の居場所だと思っていた王都を離れ、もう一度ここへ帰ってきたのだ。もう王都へ戻る必要はないのだという実感が、胸を静かに満たしていく。
近くに立っていたソフィアも同じ海を眺めながら、わずかに目を細めた。
「綺麗ね」
「ありがと」
「王都を出るときは、こんな景色を見る余裕なんてなかったもの」
その言葉に、イレーネも小さく笑った。
あの夜から、ずっと先のことばかり考えていた。追跡を避けること、人を無事に運ぶこと、王都から持ち出したものを何一つ失わないこと。船がアルカディアへ近づいてようやく、何かを考えなくてもいい時間が戻ってきたような気がした。
やがて船首の先に、見慣れた海岸線が現れた。その先には港へと続く岬が伸びている。まだ岸壁の姿までは見えないが、ここまで来ればもう近い。王都では見ることのできなかったガレオン型の船も、この海域では行き交う船の中にちらほらと姿を見せている。珍しさは残るものの、すでにそれほど目立つ存在ではない。海の新しい時代は、王都ではなく、この場所から始まっている。
何故かは分からないが、イレーネは、ふと、誇らしげな気持ちになった。もちろん表には出さない。もう王都へ戻らなくてもよいという安堵なのか、見慣れた故郷の海に帰ってきたゆえの郷愁なのか。少し感傷的になりすぎたなと、イレーネは自嘲する。
まだ、旅は終わっていない。両手で軽く顔を叩いて気を引き締めると、視線を空へ上げた。帆の張り具合を見て、頬を撫でていく風を確かめる。
「少し、風が強すぎるか」
呟くと、凜とした声を張り上げて命令を出す。
「クローアップ、トップスル」
港はまだ見えていない。それでも、命令を早いと疑うものはもう誰もいなかった。船員たちは即座に動き、トップスルが次々と畳まれていく。トップスルに続き、残りの横帆もイレーネの命令従って畳まれていく。
横帆がすべて畳まれ、船足がみるみる落ちていったその時――
「港が見えたぞ!」
見張り台から声が落ちてくる。甲板のあちこちで地鳴りのような歓声が上がった。
アルカディア出身者は見覚えのある場所を指さし、初めて訪れる者たちは船縁へ集まって港を眺めている。三百人を超える人間を乗せた最新鋭の巨艦が近づいてきたことで、岸壁でもこちらに気づいたらしく、作業の手を止めて見上げる者が次第に増えていった。
「入港するぞ!」
副長の怒号が飛ぶ中、ドラペテスは落とした船足を保ったまま港内へ入った。帆を操り、舵を切り、残った勢いを少しずつ殺していく。
巨体はゆるりと岸壁へ近づき――最後には、まるでそこへ収まることが最初から決まっていたかのように、狙った位置でぴたりと止まった。
係留索が投げられ、陸側の男たちがそれを受け取る。太い綱が杭へ巻きつけられ、船体が岸壁へしっかりと固定されると、八日間続いていた心地よい揺れもようやく終わった。
下船が始まると、岸壁はすぐに慌ただしくなった。人だけでも三百人を超えるうえ、王都から運び出した荷物も少なくない。港で待機していた者たちが次々と動き、荷車が運び込まれ、名前を呼ぶ声や指示を飛ばす声があちこちから聞こえてくる。
「この船はそのままドックへ回すぞ」
ルシウスは下船するなり、待っていた技術者たちを捕まえていた。
「王国海軍の艦そのままの格好で置いておくわけにもいかん。艤装も少しいじる」
「少し?」
「ついでに前から気になってたところも直す」
最後だけ妙に楽しそうだった。
イレーネは思わずドラペテスを振り返った。つい先ほど八日間の航海を終えたばかりだというのに、ルシウスの頭の中では、すでに次の改装が始まっているらしい。
「そっちが本命でしょう」
「うるせえ。どうせ手を入れるなら一緒だ。船は俺が見ておくから、お嬢はさっさと家族のところへ行け」
ぶっきらぼうに返すと、ルシウスはもうイレーネへの興味を失ったように、技術者たちとドックの方へ歩き出していった。その背中は、おもちゃを手に入れた子供のように生き生きとしていた。
ソフィアもまた、王都から来た者たちの名簿と宿泊先の一覧を広げ、受け入れの手配を始めていた。あらかじめ連絡を受けていたアルカディア側も宿や食事を用意しており、彼女は双方の名簿を照らし合わせながら、次々と人を振り分けていく。
「家族連れは先に宿へ案内してください。荷物はあとから運びます。単身の人はこちらへ」
その姿は、つい先ほどまで八日間の航海をしていた人間には見えなかった。すでにアルカディアの一員としての顔になっている。
「手伝ってくれるのは嬉しいけど、あなたもほどほどにして、休みなさいよ」
頼んでもいないのに自ら仕事を始めてしまうソフィアに感謝しつつも、やや呆れながらイレーネが声をかけると、ソフィアは書類から顔を上げた。
「一段落したらね」
「もう。あなたはお客さんだし、ゆっくり休んでほしいのだけど。王城でもその調子だったのね……」
「気のせいよ」
「絶対に気のせいじゃないわ」
思わず顔を見合わせ、二人とも笑う。
「じゃあ、お願い。ほんとに無理しないでよ」
「ええ。こっちは大丈夫だから」
ソフィアはそこで言葉を切ると、イレーネの肩越しに岸壁の先を見た。
「それより、ほら。待ってるわよ」
その視線を追ったイレーネの足が止まった。
少し離れた場所に、四人の姿があった。父ミハイル、母ゾーイ、兄コンラッド。そして弟のテオ。
王都を離れて以来、何度も頭に思い浮かべた顔だった。父とは書簡を交わし、兄からも返事が届いている。それでも、実際に目の前に立っているのを見ると、言葉にできない感情が胸の奥から込み上げてきた。
イレーネはしばらく家族を見つめてから歩き出した。最初はゆっくりだったが、一歩進むごとに足取りは速くなっていく。
「イレーネ」
母の声が聞こえた。その瞬間、イレーネは駆け出していた。タラシア家の令嬢でもなく、艦隊司令でもなく、ただの一人の子供のように。
ゾーイは近づいてきた娘を何も言わずに受け止め、そのまま強く抱きしめた。
「おかえりなさい」
「お母様……」
子供の頃と変わらない、陽だまりのような声だった。
母の声を聞いた途端、王都を出てからずっと胸のどこかに残っていたものが、ようやくほどけていく。自分ではもう平気だと思っていた。王太子との婚約がなくなったことも、海軍を離れたことも、王都を捨てたことも、すべて自分で決めて前へ進んできたつもりだった。
それでも、帰る場所に辿り着くまでは終わっていなかったのだと、今になって気づいた。強がっていた心の殻が、母の腕の中で静かに融けていく。
やがて母の腕が離れると、今度はミハイルが娘の顔をじっと見つめた。何を言われるのだろうとイレーネが待っていると、父はしばらく眺めたあと、眉をわずかに寄せた。
「痩せたか?」
「……そんなわけ無いでしょ。食事も運動もいつも通りですよ?」
「顔色も良くない。ちゃんと食べていたのか?」
「食べてます。そもそも、八日も船の上にいたんですよ。少しくらい疲れて見えます」
「つまり、無理をしていたんだな」
「どうしてそうなるんですか……」
久々の再会にも変わらず、意味不明なことを口走る父にあきれるイレーネをミハイルは納得していない顔で見つめている。書簡にも、食事は取れ、きちんと寝ろ、無理をするなと散々書かれていた。
「もう。お父様、私は子供じゃないんですよ」
「知っている」
ミハイルは当然のように答えた。
「だが、娘がいくつになろうと、父親が心配することに変わりはない」
言い返す言葉が見つからず、イレーネは少しだけ困ったように笑った。その言葉さえ、今はひどく心地よかった。
その横で、コンラッドが呆れたように息を吐く。
「父上。その辺にしておかないと、せっかく帰ってきたイレーネがまた船に逃げますよ」
「兄さん」
「何だ?」
「久しぶりに会った妹に最初に言うことがそれ?」
「じゃあ、別のことを言おうか」
コンラッドは港に停泊するドラペテスへ目を向けた。その視線は、呆れ半分、驚嘆半分だった。
「王都から仕事を送り、人を送り、工房まで移した挙げ句、今度は三百人以上乗せた軍艦まで持って帰ってくるとはな」
「軍艦じゃないわ」
「へえ?」
イレーネも港の方を振り返った。
「もう王国海軍の船じゃないもの。私の船よ」
コンラッドは一瞬黙って数度瞬きをしたあと、堪えきれずにクスクスと控えめに笑い出した。
「……しょうがないな、お前は」
それは幼い頃から、兄が困ったときに何度も聞いてきた言葉だった。
「プーッ! 姉さんらしいよ」
コンラッドの横で神妙な顔をしていたテオが、ドラペテスを指さしながら笑い始めたので、イレーネはそちらを睨む。相変わらずこの子は笑い上戸だ。
「テオまで何よ」
「だって、帰ってきて早々いつも通りじゃないか」
「あなた、少し見ないうちに生意気になってない?」
「姉さんがいなかったからね」
「関係ないでしょう」
そんなやり取りを聞きながら、ゾーイがにこにこと嬉しそうな顔をして三人を見ている。
見慣れた海があり、見慣れた港があり、父と母と兄と弟がいる。
いつの間にか、自分の周りには王都から連れてきた者たちの声も満ちていた。これから彼らの住む場所を用意し、仕事を与え、新しい生活を始めなければならない。王国がどう動くのかも分からないし、アルカディアがこれからどの道を選ぶのかも決めなければならない。
けれど、それは今でなくてもいい。
「とにかく、話は明日にしよう」
ミハイルは、娘の肩を軽く叩いた。
「まずは家に帰ろう」
その言葉を聞いて、イレーネは家族の顔を順番に見た。
王都を離れたときには、何かを失ったのだと思っていた。けれど今は、少し違う。自分はただ、帰ってきたのだ。失ったものなど何もない。ここから、新しいすべてが始まるのだ。
イレーネはようやく心からの笑顔を見せた。
「ただいま」
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