第80話 消えた命令
翌朝、海軍大臣オーレルは王都軍港司令部にいた。
窓の外では、朝の光を受けた軍港の水面が鈍く輝き、岸壁では早くも荷役の掛け声や滑車の軋む音が響いている。普段なら規則正しく動き始めるはずの軍港だったが、その朝はどこか落ち着きがなく、行き交う兵士や職員たちの足取りにも、昨夜から続く混乱の影が残っていた。
オーレルは王城を出たその足で軍港へ戻り、ほとんど眠ることもなく、元第二練習艦隊旗艦の出港経緯を調べさせていたのである。
アレクシオスから命じられたのは、逃亡者たちの行方を突き止め、元旗艦を追うことだったが、その前にどうしても明らかにしなければならないことがあった。
そもそも、なぜあの船は、誰にも止められることなく王都軍港を出港できたのか。
「出港に関係する書類は、一通り確認しました」
王都軍港司令官が、机の上に何枚もの書類を並べた。朝から何度も開かれたのだろう。紙の端は少しめくれ、机の脇には確認済みの記録が何束にも積み上げられている。
オーレルは険しい表情のまま、そのうちの一枚を手に取った。
「不備は?」
「ありません。出港申請、回航に関する書類、港務への通知、いずれも所定の様式に則っています。署名も印も本物で、偽造された形跡は見つかっておりません」
オーレルはしばらく黙って書類を睨みつけた。偽造であれば、まだ話は単純だった。誰かが命令書を作り、印を盗み、船を勝手に出したというのなら、その者を探せばよい。
しかし、目の前に積まれている書類は、どれも正規の手続きを踏んだものだった。紙面のどこを探しても、露骨な不自然さは見当たらない。
「では、誰が許可した」
軍港司令官が一枚を抜き出し、オーレルの前へ差し出す。
「最終承認は、副司令官です」
オーレルの眉がわずかに動いた。
「呼べ」
ほどなくして、副司令官本人が部屋へ入ってきた。差し出された書類を手に取り、署名と印を確かめる。そのまましばらく黙っていたが、やがて苦々しい表情で顔を上げた。
「……確かに、私の署名です」
「覚えているのか」
「署名したこと自体は否定いたしません。しかし、この艦をアンティアへ回航せよと、私が命じた覚えはありません」
「では、なぜ承認した」
「海軍省ですでに処分先が決定した案件だと思っておりました」
オーレルの眉間に深い皺が寄る。
「海軍省から、そのような命令は出していない」
その言葉を聞いた瞬間、副司令官の表情が固まった。わずかに開いた口が、しばらく閉じない。
「……では、あれは」
「誰から回ってきた」
「後方担当です」
すぐに後方担当の大佐が呼び出されたが、その男の答えも要領を得なかった。
「私は、副司令官閣下へ回すために必要な書類を整えただけです」
「誰の命令でだ」
「海運局から回ってきた案件だったと記憶しております」
「海運局?」
オーレルの声が低くなった。
「海運局に軍艦の配置を決める権限はないぞ」
「もちろん承知しております。ただ、すでに海軍省と軍港司令部の間で話がついている案件だと聞いておりましたので……」
「誰から聞いた」
大佐はそこで言葉に詰まった。
海運局へ確認させれば、そこにも確かに元旗艦の回航に関係する書類が残っていた。ところが、その先を辿ろうとすると、途端に話が曖昧になる。
軍港司令部から依頼が来たものと思っていた。担当者同士で話がついていると聞いていた。すでに上層部で決裁済みの案件だと認識していた。誰もが、自分より前の段階ですでに話は決まっていたのだと考えていた。
「その担当者は?」
「……昨日から出勤しておりません」
似たような答えは、一つの部署だけではなかった。
書類を追っていけば、その都度、処理した職員も、承認した士官も見つかる。それぞれの署名も印も正しく、少なくとも表面上は、誰かが命令を偽造した痕跡などどこにもない。
それなのに、最初に誰が元旗艦をアンティアへ回航すると決めたのか、その起点だけがどうしても見つからなかった。
誰もが自分の権限の範囲内で、回ってきた仕事を処理しただけだと主張している。その言い分を一つずつ聞けば、どれも不自然ではない。だが、それらをすべて繋ぎ合わせると、肝心の命令者だけが綺麗に消えてしまう。
「……どういうことだ」
オーレルが低く呟いたが、誰にも答えられなかった。
開け放たれた窓から潮の匂いを含んだ風が入り込み、机の上に置かれた紙の端をかすかに揺らしている。
まるで、誰も出港を命じていない船が、正規の手続きだけを積み重ねて、ひとりでに港を出ていったかのようだった。しかも、その曖昧な経路の多くが海運局へと繋がっている。
オーレルの苛立ちは、やがて明確な怒りへと変わった。
「まだ残っているのか」
「何がでしょうか」
「タラシアの息がかかった者だ」
軍港司令官が、わずかに表情を変える。
「海運局に残っているアルカディア出身者、それからタラシア家と縁故のある者を洗い出せ。重要部署から外すんだ」
「しかし、大臣。それを行えば――」
「また同じことをされてからでは遅い!」
オーレルは机を叩いた。積まれていた書類が小さく跳ね、インク壺の表面が揺れる。
「あれだけの人間を消し、船まで出しているんだぞ。内部の協力なしに、こんなことができるものか。まだ残っている者が何を仕込んでいるか分からん。配置を換えろ。今日中にだ」
命令は、その日のうちに実行された。
アルカディア出身者だけではなく、かつてタラシア家の商船に乗っていた者や、タラシア家と取引のある商家の出身者、第二練習艦隊と仕事上の付き合いが深かった者まで、少しでも縁があると思われた職員が次々と慣れた部署から外されていった。
明確な証拠があったわけではない。それでもオーレルは、そうすることで海運局に残されたタラシア家の影響を断ち切れると考えた。
ところが、その判断が新たな混乱を生み出すまでに、三日もかからなかった。
「この海図の更新記録はどこだ?」
「分かりません。前任者に聞いてください」
「その前任者が昨日、倉庫管理へ異動させられたんだ!」
「では倉庫へ問い合わせを――」
「向こうも人が足りないと言って、こちらへ戻せと言ってきている!」
別の部屋では、補給予定を巡って怒鳴り声が飛び交っていた。
「第三艦隊への水の積み込みが終わっていないぞ!」
「積み込みの順番が変更されたと聞きました」
「誰が変えた!」
「海運局です」
「海運局の誰だ!」
「担当者が昨日替わりまして……」
港でも状況は似たようなものだった。
出港を待つ軍艦が岸壁に並んでいるにもかかわらず、帆は畳まれたまま風に揺れ、船員たちは甲板や桟橋で手持ち無沙汰に指示を待っている。予定されていた曳船が来ず、積み込まれるはずだった水樽や食料箱が別の艦へ送られ、海図の写しを頼めば、どの版を使えばよいのか判断できる者がいない。
荷役場には行き先を失った樽や木箱が積み上がり、その間を伝令兵や港務職員が書類を抱えて走り回っていた。普段なら整然と聞こえる掛け声も、その日は怒鳴り合いに近い。
一つ一つだけを見れば、どれも致命的な問題ではなかった。
しかし、それが軍港のあちこちで同時に起きれば話は別である。もともと大量の熟練者が一夜にして姿を消したところへ、辛うじて仕事を回していた経験者まで強引に配置転換した結果、王都軍港全体の動きが目に見えて鈍り始めた。
数日前まで整然と動いていた巨大な軍港は、見えない歯車をいくつも抜き取られた機械のように、あちこちで軋みながら動きを止めつつあった。
人間の数だけなら足りている部署もある。
けれど、誰がどの仕事を知っているのか、どの港へ何を問い合わせればよいのか、どの記録を見れば過去の航路が分かるのか。そうした長年の経験によって積み重ねられてきた、書類には残らない知識まで簡単に引き継げるわけではなかった。
そして、その混乱は元旗艦の捜索だけには留まらなかった。
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