第79話 王城への報告
昨日は諸般の事情でアップ出来ませんでした。申し訳ありません。一応、物語の構想といたしましては折り返しを過ぎました。最後まで頑張って生きたいと思います。よろしくお願いします。
王都軍港で起きていた混乱が、単なる無断欠勤ではないと分かり始めたのは、朝もかなり過ぎてからだった。各部署から提出された名簿が海軍司令部へ集められ、ようやく不在者の全体像が見え始める。
練習生はほぼ全員が姿を消していた。艦隊勤務の兵士や下士官にも相当数の欠員があり、工廠では熟練工を中心に多くの職人が姿を見せていない。海運局に至っては、水路調査部や海図作成部を中心に、部署そのものがまともに機能しない状態になっていた。
「……これ、本当に全部今日の話なのか?」
積み上げられた報告書を前に、王都軍港司令官がこめかみを押さえ、呆然と呟いた。最終的な数字はまだ分からない。それでも、目の前に並んだ報告だけで、にわかには信じ難い規模であることは十分に分かった。
「昨日までは勤務していた者が大半ですが……」
答えた士官の声にも、強い焦燥が滲んでいる。
「これまでにも退職者は出ていただろう」
「はい。特にアルカディア出身者や、タラシア家と関係の深い者はかなり減っていました」
第二練習艦隊の解隊が決まる以前から、その傾向は続いていた。海軍を辞めて故郷へ戻る者。あるいは、商船会社や造船所へ移る者などは増えていた。
一人ずつ見れば、特に不自然な話ではなかった。王都での立場を失ったタラシア家に見切りをつけた者もいれば、逆に王国に見切りをつけてアルカディアへ戻った者もいる。
それを一つ一つ追及する者はいなかった。婚約破棄以降のタラシア家への処置を考えれば、仕方のないことだとさえ思う者もいた。
だが、今朝起きたことは規模が違った。少しずつ悪化していた病巣が、一夜にして急激に進行し、致命的な状態へ陥ったかのようだった。
「残っていた連中まで、一気に消えたということか」
「……そう考えるのが妥当かと」
司令官は返事をせず、もう一枚の報告書へ目を落とした。そこには海運局の状況が記されている。
水路調査部。
海図作成部。
航路調査部。
どれもタラシア家が長年にわたって育成してきた人材が多く入り込んでいた部署だった。王国の組織でありながら、実務を担っていた者の多くが、タラシア家やアルカディアと何らかのつながりを持っている。
「資料庫の確認は?」
その問いに、報告をしていた士官が一瞬だけ口を閉ざした。その沈黙そのものが、不吉な答えを含んでいた。
司令官が顔を上げる。
「何だ」
「……現在、確認中です。ただ」
「ただ?」
「海図や測量記録の一部が見当たらないという報告があります」
司令官の表情が引きつったように変わった。
「一部とは、どの程度だ」
「まだ分かりません。管理を担当していた職員そのものが出勤しておらず、どこに何が保管されていたのか、それを確認するところから始めています」
「冗談だろう」
誰も笑わなかった。
海図は単なる紙ではない。何年、何十年という航海と測量の積み重ねであり、暗礁の位置、水深、潮の流れ、季節ごとの風向き、港へ入るための航路まで、王国海軍が海を航くために必要な知識そのものだった。
それが、人間と一緒に消えている。
司令官はしばらく報告書を見つめたあと、低い声で呟いた。
「これは、単に人がいなくなった、逃亡したというだけの話ではないな」
その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「失礼します!」
若い士官が肩を激しく上下させ、息を切らしながら入ってくる。
「何だ」
「昨夜の出港記録を確認しました」
室内にいた者たちの視線が一斉に集まった。
「元第二練習艦隊の旗艦が、昨夜出港しています」
司令官の表情が固まる。
「……旗艦が?」
「はい」
「目的地は」
「届け出では、東方への航海となっています」
司令官は眉をひそめた。
「東?」
思わず聞き返し、それから怪訝そうに士官を見る。
「アルカディアは西だろう」
「はい。ですから、旗艦がアルカディアへ向かったと申し上げているわけではありません」
「なら、何だ。なぜ今その話をする」
若い士官は一瞬言葉に詰まったものの、すぐに答えた。
「今朝、これだけの人間が一斉に姿を消しています。その前夜に、つい先日までイレーネ・タラシアが座乗していた元旗艦まで王都を離れております。まったく無関係な出来事と考えてよいのか、判断がつきません」
司令官は答えなかった。
練習生をはじめ、兵士や下士官、工廠の熟練工、海運局の職員まで、朝になって大量の人間が姿を見せなくなっている。そのうえ海図や測量記録の一部まで失われ、同じ夜には元第二練習艦隊の旗艦まで王都を発っていた。
行き先は東方。
少なくとも、アルカディアへまっすぐ向かったわけではない。だからこそ、その出港が何を意味するのかは分からなかった。
一つ一つなら、別々の出来事として説明できたかもしれない。だが、それらすべてが同じ時期に重なっている以上、元旗艦の出港だけを単なる偶然として切り離すこともできない。誰かが緻密に計画し、静かに実行した結果だと見るほかなかった。
「……海軍省へ報告する」
司令官は椅子から弾かれたように立ち上がった。
「オーレル閣下にも至急お伝えしろ。一刻を争う」
◇
報告が王城へ届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
王太子執務室には、アレクシオスのほか、海軍大臣オーレルと数人の海軍省高官、士官たちが集められていた。
アレクシオスは最初、その内容を理解できなかった。あまりにも現実離れした報告に、思考が拒絶を起こしていた。
「……何人だ?」
執務机の向こうから、アレクシオスが問いかける。
その正面に立つオーレルは、手にした報告書へ目を落とした。
「げ、現在も集計を急がせておりますが……」
「だから、何人いなくなったと聞いている。私の問いに答えろ!」
オーレルの肩が小さく跳ねた。
残暑の残る時期ではあったが、開け放たれた窓から流れ込む乾いた風はひんやりとして心地よい。それでも、オーレルの額にはうっすらと汗が浮いていた。懐から取り出したハンカチでこめかみを拭いながら、言葉を探すように口を開く。
「正確な数が、まだ出せておりません」
アレクシオスの眉が吊り上がった。
「朝から何をしていた!」
怒声が執務室に響き、居並ぶ役人や士官たちが一斉に首をすくめ、身を硬くした。
オーレルもまた息を呑み、慌てて説明を続ける。
「部署によっては人員管理を担当する者まで不在でして、その、照合作業そのものに時間がかかっております。ただ……練習生については、全員が姿を消しております」
「全員?」
「はい」
「一人も残っていないのか」
「少なくとも、今朝の点呼には誰も姿を見せておりません」
アレクシオスの頬に、さっと血が上った。怒りと屈辱が、その白い肌を急速に赤く染めていく。
「馬鹿な。百人近くいたはずだろう。それが、一人残らずいないというのか」
「練習生だけではございません。現役の兵士、下士官、海運局の職員、工廠の熟練工にも、多数の不在者が出ております」
「脱走だろう! なら憲兵を出せ! 一人残らず捕らえろ!」
声を荒らげるたびに顔はさらに赤みを増し、目尻はきつく吊り上がっていった。先ほどまで困惑の色を残していた表情は消え、今や怒りだけがむき出しになっている。
オーレルは一瞬、言葉を失った。額に浮かぶ汗が、こめかみを伝って頬へ流れる。それを慌てて拭いながら、恐る恐る口を開いた。
「で、殿下……恐れながら、それだけでは説明がつきません」
「何?」
アレクシオスの視線が鋭くオーレルへ突き刺さった。
オーレルの喉が上下する。
「海運局では、海図や測量記録を含む資料の一部が失われております。また昨夜、元第二練習艦隊の旗艦が王都を出港しております」
アレクシオスの表情がぴたりと止まった。
「……旗艦が?」
「はい」
「どこへだ」
「届け出では……東方です」
「東?」
困惑を示すように、アレクシオスの眉間に深い皺が寄った。
「それが何の意味がある。アルカディアは西だぞ」
「はい。仰るとおりです」
「ならば、なぜその船の話をする」
オーレルはハンカチを握り締めたまま、一瞬言葉を選んだ。
「我々にも、出港の意図はまだ分かっておりません。ただ、今朝これだけの人員が一斉に姿を消した、その前夜に、元第二練習艦隊の旗艦まで王都を離れております。あまりにも時期が重なっておりますので、無関係とは考えにくいのではないかと……」
「では何だ。東へ逃げたというのか?」
「それも、現時点では何とも……」
「何とも分からない。人数も分からない。船がどこへ行ったのかも分からない。お前たちは一体、何が分かっている!」
苛立ちが再び噴き出した。
「も、申し訳ございません!」
オーレルが慌てて頭を下げる。
しかし、アレクシオスはその姿を睨みつけながら、次第に口を閉ざしていった。
これまで少しずつ減っていたアルカディアと縁の深い者たちを中心に、残っていた者まで一斉に姿を消した。海図や測量記録まで失われ、同じ夜には、かつてイレーネが率いていた艦隊の旗艦まで王都を離れている。
向かった先は東。
その意味だけは分からない。だが、だからといって、すべてが無関係だとは到底思えなかった。
アレクシオスの右手が、ゆっくりと机の上で強く握り締められる。爪が皮膚に食い込むほどに。
「……イレーネか」
誰も答えなかった。
オーレルも、視線を床へ落としたまま何も言わない。しかし、その沈黙こそが最も確実な肯定だった。
「イレーネ・タラシアがやったのか」
「現時点では、まだ断定できるだけの証拠が――」
オーレルが辛うじてそう答えた瞬間だった。
「他に誰がいる!」
拳が執務机へ叩きつけられた。
ドンという激しい音とともに筆立てが倒れ、インク壺が跳ねる。黒い液体が書類の上を流れたが、アレクシオスは見向きもしなかった。
紅潮した顔は怒りで引きつり、血走って吊り上がった目が、眼前のオーレルを射抜くように睨みつけている。
「人を連れ出しただけではない。兵を奪い、職人を奪い、海軍の人間を奪い、そのうえ海図まで持ち去ったのか。……私の目の前で、すべてを盗み出したというのか!」
オーレルは口を開いたものの、声が出なかった。
「何をしていた!」
「……っ」
怒声に、オーレルの身体がびくりと震えた。
「お前は海軍大臣だろう!」
その一言に、オーレルの顔からさらに血の気が引いた。
「これだけの人間が動いて、なぜ誰も気づかなかった! 船が出て、兵が消えて、工廠から職人までいなくなっているんだぞ!」
「で、殿下……これまでの退職や帰郷につきましては、いずれも正規の手続きを踏んだものでして……」
ハンカチを握る手が小刻みに震えていた。
「一件一件を見れば、帰郷、家庭の事情、民間への転職と理由もそれぞれ異なり、我々といたしましても、それを拒むだけの根拠が――」
「そんな話をしているんじゃない!」
再び割れんばかりの怒声が響いた。
アレクシオスは机の上にあった書類の束を掴むと、オーレルたちの足元へ投げつけた。
紙片が床いっぱいに散った。白い紙吹雪のようなそれが、アレクシオスを嘲笑うかのように舞い落ちる。
「これは裏切りだ! いや、そんな言葉では生ぬるい。王国に対する明確な反逆だ!」
その言葉は、部屋の隅々まで明瞭に届いた。
オーレルは俯いたまま、何も言えなかった。
彼自身、数週間前から異変には気づいていた。抜けていく者に熟練者が多いことも、偶然と呼ぶには出来すぎていることも、すでにアレクシオスへ報告している。
それでも、一人一人の退職にはそれぞれ理由があり、正式な手続きも踏まれていた。何かが起きていると分かっていながら、それを止めるだけの理由を見つけることができなかった。
そして今朝、残っていた者たちまで一気に消えた。
アレクシオスは荒い息を吐き、赤く染まった顔のまま床に散った書類を睨みつけた。強く噛み締めた奥歯が、頬の上からでも分かるほどに浮き上がっている。
婚約を解消し、第二練習艦隊を解隊した。そして、タラシア家から海軍、さらに王都での活動を抑えるために、その足場を奪った。
それでも、彼らがここまでのことをするとは考えていなかった。
いや。考えようとしていなかった。次期王として、臣下は当然従うものだと信じて疑っていなかった。それがよもや、このような形で裏切られるとは。
「逃亡兵は全員捕らえろ」
声が低くなる。先ほどまでの怒鳴り声とは違う、地を這うような押し殺した怒気がそこにはあった。
「軍人だけではない。関係した者も全員だ。港を閉じろ。昨夜から今朝にかけての出港記録をすべて洗え」
「は、はい」
「旗艦もだ。東へ向かったというのなら、何のために東へ向かったのか調べろ」
「承知いたしました」
「それから船を出せ」
その言葉に、オーレルが顔を上げた。
「……殿下?」
「追え。逃げた者を追うんだ」
「し、しかし殿下。すでに昨夜出港した艦となりますと、今から追跡しても……」
「船を出せ!」
アレクシオスが再び机を叩いた。
「追いつける船を片端から出せ! 逃げた者は連れ戻せ。抵抗するなら拘束しろ!」
「ですが、広い海上で所在の分からぬ艦を――」
「オーレル!」
名を呼ばれ、海軍大臣は反射的に背筋を伸ばした。
アレクシオスの目は、もはや完全に血走っている。
「私は、追えと言っている」
「……は、はい!」
オーレルは深々と頭を下げた。
「ただちに手配いたします!」
踵を返すと、背後に控えていた士官たちへ慌ただしく目配せする。先ほどまで何度も額を拭っていたハンカチを握り締めたまま、ほとんど逃げるような足取りで執務室の出口へ向かった。
「急げ! 港へ戻るぞ! 追跡に出せる艦を全部洗い出せ!」
廊下へ出るより早く怒鳴り始め、その声は扉が閉じたあともしばらく遠ざかりながら聞こえていた。
執務室には重い沈黙が残った。それでもアレクシオスの怒りは収まらなかった。
「イレーネ……」
その名を、呪詛のように吐き捨てる。
「どこまで私を愚弄すれば気が済む……」
握り締めた拳が小刻みに震えていた。
王国海軍が失ったものが、どれほどの規模になるのか。その時点では、まだ誰にも分かっていなかった。
ただ、それが一夜の逃亡騒ぎなどでは済まないことだけは、もはや誰の目にも明らかだった。
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