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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第4章 富国強兵

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第78話 王国海軍の朝

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夜明け前の王都軍港は、まだ薄い川靄《かわもや》と潮混じりの霧の中に沈んでいた。


停泊する艦艇の帆柱が黒い影となって並び、岸壁では夜勤を終える者と、これから勤務につく者が交代の時刻を迎えている。いつもなら、冷え込む朝気に身を震わせ、眠そうな顔をした兵士たちが行き交う、ごくありふれた朝だった。


最初の異変は、その当直交代で起きた。


「まだ戻っていないのか?」


詰所で報告を受けた当直士官が眉をひそめる。手元の書類から顔を上げ、魔晶灯に照らされた部下の顔を睨みつけた。


「はい。第三埠頭の二名と東倉庫の警備兵、それから南門の一名が戻っていません」


「交代要員は?」


「そのまま待機させていますが、夜勤の連中が持ち場を離れた形跡はありません。ただ、姿だけがないのです」


第二練習艦隊の解隊が決まって以来、軍港では配置換えや転属の連絡が相次いでいた。命令の行き違いや引き継ぎの不備も増えており、当直士官も最初はその類だろうと考えた。


「持ち場を確認させろ。どこかで油を売っているなら、さっさと連れ戻せ」


命じられた兵が慌ただしく詰所を飛び出していく。


その頃、練習生宿舎では、朝の点呼が始まろうとしていた。


「おい、どうした? 起床時間はとっくに過ぎてるぞ。なぜ誰も出て来ない?!」


よく通る怒声が、まだ静かな中庭に響く。


声の主は、長く海軍で教官を務めてきた古参の男だった。左腕の先には手の代わりに使い込まれた鉄の鉤があり、練習生たちから恐れられている人物でもある。


ところが、その朝は誰も出てこなかった。いつもなら怒鳴られる前に飛び出してくるはずの、規則正しい足音が一切聞こえない。


教官は眉を寄せた。


「何があった! 全員、集合!」


もう一度、今度はさらに大きな声を張る。肺腑を震わせるような咆哮だった。


それでも宿舎は静かなままだった。


普段なら遅刻寸前で飛び出してくる者が一人や二人はいる。だが、今日はその一人すら姿を見せない。不気味なほどの静寂が、中庭の冷気に混ざっていた。


「中を確認してこい」


傍らにいた兵へ命じると、兵はすぐさま宿舎へ駆け込んだ。


しばらくして戻ってきたその顔には、明らかな困惑が浮かんでいた。顔色を失い、額にはうっすらと汗さえ浮いている。


「教官……誰もいません」


「誰も?」


「はい。部屋には一人も」


教官の表情が険しくなる。


「全室見たのか」


「はい」


「便所は」


「確認しました」



「裏手も見ろ。倉庫もだ。寝ぼけて妙なところに入り込んでいる奴がいるかもしれん」


「はっ!」


兵をもう一度走らせると、教官自身も宿舎へ入った。


並んだ寝台には昨日まで使われていた形跡がある。室内が荒らされた様子もなく、何か騒ぎが起きたようにも見えない。ただ、私物や制服の一部だけが、持ち主を失ったように整然と残されていた。


ただ、練習生だけがいなかった。一人や二人ならともかく、全員となれば話が違う。


教官は鉤の左腕を腰に当てたまま、無言でもぬけの殻となった室内を見渡した。


やがて勤務開始の時刻を迎えると、軍港の各所でも同じような異変が目立ち始めた。


出港準備に必要な水兵が揃わない艦があり、倉庫では鍵を預かる下士官が出勤していない。砲術科では整備担当の兵が何人も姿を見せず、朝の作業を始められないまま時間だけが過ぎていた。


「ロイドはまだか?」


「来てません」


「今日はあいつの当番だろう」


「そのはずなんですが」


「宿舎を見てこい」


そんな会話が、軍港のあちこちで交わされていた。


初めのうちは、誰もそれらが同じ原因によるものだとは考えていなかった。無断欠勤か、配置換えの連絡漏れか、このところ続いていた混乱がたまたま同じ朝に重なっただけだと思われていた。


だが、定時を過ぎても人は増えなかった。


むしろ、出勤していない者の名前ばかりが、各部署の黒板に次々と増えていった。


海運局でも事情は同じだった。


メリッサはいつもの時刻に建物へ入り、受付の兵に笑顔で挨拶をすると、そのまま二階へ上がった。


昨日、海軍省から来ていた男が、今日も朝から顔を出すことになっている。上司も当然そのことを承知していたはずだった。


ところが、自分の部署へ入ったメリッサは、扉の前でわざとらしいほど大きく目を瞬いた。


「……あら?」


室内が妙に静かだった。

空いている席が多い。


何より、いつもならとっくに出勤している上司の姿が見えなかった。机の上には、昨日片付けられたままの書類が端然と積まれている。


「主任、まだ来てないの?」


少し大きめの声で尋ねると、近くにいた職員が困ったように首を振った。


「来てないんだ」


「ええ? 今日、海軍省の人がまた来るんでしょう?」


「ああ。俺もそう聞いてる」


「昨日、あれだけ話してたのに?」


メリッサは室内を見回し、いかにも困ったという顔をしてみせた。


「どうするのよ。来たら私が説明するの?」


「俺に聞くなよ。こっちだって主任がどこにいるのか知りたいくらいだ」


「困ったわねえ」


口ではそう言いながら、メリッサは空席を一つずつ確かめるように視線を巡らせた。


上司だけではない。


昨日まで普通に顔を合わせていた者が、何人も出勤していなかった。


そこへ隣の部屋から職員が顔を出す。その表情は一様に強張っている。


「そっちは何人来てる?」


「何よ、朝から」


「水路調査部が酷いんだ。ほとんど人が来てない」


メリッサは目を丸くした。


「ほとんど?」


「ああ。責任者も来てない。海図作成部も似たような状態らしい」


別の職員も会話に加わる。


「航路調査部も半分以下だってさ。朝からあっちこっち人を探してる」


「まあ」


メリッサは口元へ手を当てた。


「今日は一体どうなってるの?」


海運局の中でも、水路調査や海図作成に関わる部署は航海業務の中枢だった。多少の欠員なら周囲で補うこともできるが、責任者まで来ていないとなれば、そう簡単には済まない。このままでは、航海図の更新も艦隊の航路策定もまともに進まない。


さらに工廠でも熟練工を中心にかなりの欠勤者が出ているらしい、という話まで伝ってくる。


誰かが連絡を取りに走り、別の誰かが名簿を引っ張り出し、また別の者が他部署へ確認に向かう。その確認先でも人が足りず、戻ってくる答えはどれも曖昧だった。


午前に入る頃には、軍港の各所から同じような報告が海軍司令部へ上がり始めていた。


「練習生が全員いない?」


報告を受けた上級士官が、思わず聞き返した。手にしていたペンが、書類の上にポツリと黒いインクの染みを作った。


「はい。宿舎にも周辺にも見当たりません」


「工廠は?」


「複数の作業場で欠員が出ています。熟練工も何人か出勤しておりません」


「艦隊勤務は」


「まだ集計中ですが、こちらもかなりの数です」


「海運局までか?」


「水路調査部、海図作成部、航路調査部を中心に、多数の欠勤者が出ています」


机の上には、各部署から届いた報告が積み上がり始めていた。


朝のうちは、数人の遅刻か無断欠勤だと思われていた。だが、練習生、兵士、下士官、海運局の職員、工廠の職人まで、同じ朝にこれほど多くの者が姿を見せないとなれば、偶然で片づけることはできない。


「全部署に通達しろ」


上級士官が低い声で命じた。その声には、隠しきれない焦燥が混じっている。


「欠勤者、当直から戻っていない者、宿舎にいない者をすべて洗い出せ。艦隊だけではない。海運局も工廠も全部だ」


「はっ」


士官たちが慌ただしく部屋を出ていく。


しかし、その集計すら思うようには進まなかった。


人員を確認する担当者自身が出勤していない部署があり、別の部署へ問い合わせようにも、そこでもまた担当者がいない。人が足りないために、人がいない理由を調べる仕事まで滞っていた。


誰もまだ、正確な人数を把握できていない。


なぜ来ないのかも、どこへ行ったのかも分からない。


ただ、その朝、王国海軍の各所で、本来そこにいるはずだった者たちが、あまりにも大勢姿を見せなかった。

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