第77話 ドラペテス
東の空が、ほんのわずかに青み始めていた。
新月の夜が終わろうとしている。水平線の彼方には夜明けの気配が漂い始めていたが、王都の軍港はまだ深い薄闇に包まれていた。岸壁に並ぶ艦船も巨大な黒い影となり、風の弱い海面には小さな波が立っている。夜と朝の境界で、世界は息を潜めていた。
ドラペテスでは、出港の時刻を待っていた乗組員たちが、すでにそれぞれの持ち場についていた。昨夜のうちに積み込みも点検も終わっている。船倉の荷物は固定され、帆装も索具も整えられていた。
出港の時刻が近づくにつれ、休息を取っていた乗組員たちも次々と持ち場についた。甲板では小声で指示が交わされ、帆を扱う水兵たちが命令を待っていた。
三百十二名。
王都を離れるため、今この船に運命を預けて乗り込んでいる者たちの数だった。
イレーネは甲板に立ち、軍港の出口へ目を向けた。
かつて幾度となく航海へ出た場所である。だが、今回ばかりは戻ってくるつもりはなかった。この出港は任務ではなく、王国との訣別だ。
王国海軍の記録では、これからアンティアへ回航されることになっている。しかし、彼女たちが目指すのは西のアルカディアだった。
「イレーネ」
隣から声がした。ソフィアが、遠くの王都へ目を向けていた。
「……とうとう、この日が来たのね」
「ええ。ずいぶん待った気がするわ」
イレーネも岸壁の向こうに広がる街並みを眺めた。
まだ夜明け前の王都は静まり返っている。遠くに見える王城の塔も、暗い空を背景にぼんやりと輪郭を浮かべていた。
ソフィアはしばらく、その光景を見つめていた。
デルフィ家の屋敷。毎日のように通った王城。そして、イレーネと出会った王立学園。この街には、母と過ごした日々を含め、数え切れないほどの思い出があった。辛いことばかりではなかった。けれど、もう戻りたいとは思わない。過去はすべて、この夜の闇の向こうへと置いていく。
「……不思議ね」
「何が?」
「こんなに長く暮らしていたのに、いざ離れるとなると、思ったほど寂しくないの」
イレーネは隣の親友を見つめた。その瞳には迷いが一切ないことを知り、胸の奥が温かくなる。
「そう」
「ええ。たぶん、これからの方が楽しみだからかしら」
ソフィアは、少女のように悪戯っぽく微笑んだ。
「それなら、よかったわ」
イレーネも信頼の笑みを返した。
そのとき、ルシウスが二人のもとへ歩いてきた。
「お嬢、時間だ」
「分かったわ」
イレーネは頷き、甲板を見渡した。
乗組員たちは、すでに所定の配置についていた。帆を扱う者、舵を預かる者、係留索を解く者。昨夜までの準備はすべて整い、あとは出港の命令を待つだけだった。
イレーネはゆっくりと歩き出した。ソフィアとの会話で浮かべていた柔らかな表情が消え、かつて第二練習艦隊を指揮していた頃の凛とした顔に戻っていく。
副官が姿勢を正し、敬礼した。
「司令官、出港配置につきました」
「ご苦労さま」
イレーネは答礼し、軍港の出口へ目を向けた。
ここから、幾度となく海へ出た。王国海軍の軍人として、与えられた任務を果たすために。そして、まだ誰も知らない海の可能性を確かめるために。
だが、今回は違う。王国のためでも、王太子のためでもない。自分たちが自らの意志で選んだ未来へ向かう航海だ。
イレーネは静かに息を吸い、命じた。
「出港!」
イレーネの命令を受け、甲板のあちこちで水兵たちが動き始めた。係留索を解く者、帆を扱う者、舵を預かる者。互いの動きを確かめながら、それぞれが手慣れた様子で仕事を進めていく。
その様子を、岸壁の警備兵たちは何気なく眺めていた。旧第二練習艦隊の旗艦がアンティアへ回航されることは、すでに港の関係者にも知られている。途中の港へ物資を運ぶことも、特別珍しい話ではなかった。誰も、この船が大逃走劇を目論んでいるとは夢にも思っていない。
岸壁にいた警備兵の一人が、係留索を扱っていた水兵に声をかけた。
「おい、アンティアまで回航か?」
「ああ、そうだ」
「長旅になるな。気をつけろよ」
「おう、ありがとな」
水兵は軽く片手を上げると、再び作業に戻った。警備兵も、それ以上気に留めることなく持ち場へ戻っていく。
やがて最後の係留索が解かれ、ドラペテスはゆっくりと岸壁を離れ始めた。
帆が夜明け前の風を受けて膨らみ、巨大な船体がわずかに動く。岸壁との間に生まれた細い隙間は、少しずつ広がっていった。
大きな船体はゆっくりと向きを変え、軍港の出口へ進んでいく。
かつて幾度となく繰り返した操船だった。イレーネの指示に合わせ、帆が調整され、舵が切られる。乗組員たちは息の合った動きで艦を進めていた。
軍港のあちこちには、いつもどおり警備兵たちの姿がある。遠くの岸壁では夜勤を終えた水兵たちが交代の準備を始め、別の艦では朝の作業に備えて灯りが点されていた。
誰もドラペテスを呼び止めなかった。警鐘が鳴ることも、追いかけてくる者もいない。王都の軍港は、いつもと変わらぬ朝を迎えようとしていた。その中を、ドラペテスは静かに進んでいった。
◇
軍港の出口を抜けると、視界が一気に開けた。前方には、どこまでも暗い海が広がっている。左右に見えていた港の施設は次第に小さくなり、岸壁に並んでいた魔晶灯の明かりも、少しずつ遠ざかっていった。
新月の夜。月明かりのない海は、まだ深い闇に包まれていた。風を受けた帆が大きく膨らみ、ドラペテスは徐々に速力を上げていく。
やがて港の明かりが遠ざかり、陸から船影の動きを見分けることも難しくなった頃、イレーネは前方の海を見渡した。
ここから先は、アンティアへの回航ではない。アルカディアへ向かう、自分たちの航海だった。
「針路、西へ」
静かな声だった。
「針路、西!」
命令が復唱され、舵が動く。帆が調整され、ドラペテスはゆっくりと進路を変えていった。
王国海軍の回航命令書に記されているのは、東のアンティア。しかし、ドラペテスが向かうのは、その正反対にあるアルカディアだった。
イレーネは船尾へ振り返った。
王都の明かりが、遠ざかっていく。石造りの岸壁も、王城の塔も、今では夜の闇に沈み、わずかな輪郭を残しているだけだった。
「……イレーネ」
ソフィアが隣に立っていた。
「どうしたの?」
「本当に、行ってしまうのね」
「ええ」
イレーネは小さく頷いた。
「もう、戻らないわ」
ソフィアは何も答えず、遠ざかる王都を見つめた。今はもう、あの街に置いてきたものを数える気にはならなかった。私の居場所は、もうあそこにはない。ソフィアはゆっくりと前を向いた。
「……そうね」
その声は、思いのほか明るかった。
「これから、どんなところへ連れていってくれるのかしら」
イレーネは少し驚いたように親友を見つめ、それから心底楽しそうに笑った。
「退屈はさせないつもりよ」
「それは期待しているわ」
二人は顔を見合わせた。
そのとき、ルシウスが甲板の向こうから声をかけてきた。
「お嬢! 風が変わってきた。もう少し帆を使えそうだ!」
「分かったわ!」
イレーネは前方へ向き直り、帆の状態を確かめた。
「帆を調整! 速力を上げるわよ!」
水兵たちが一斉に動き出した。索具が引かれ、帆が新たな風を受けて膨らんでいく。ドラペテスは滑るように波を切り、さらに速力を増していった。
甲板には、かつて第二練習艦隊で苦楽を共にした仲間たちがいる。
だが、彼らはもう王国海軍の軍人として、この船に乗っているわけではない。それぞれが自分の意志で集まり、自分の未来を選んだのだ。
イレーネは大きく息を吸い込んだ。潮の香りが胸いっぱいに広がる。
王都は、もうほとんど見えなかった。ドラペテスは帆いっぱいに風を受け、西の海へ向かって進んでいく。
その頃、王都の軍港では、いつもと変わらぬ朝の業務が始まろうとしていた。旧第二練習艦隊の旗艦は、予定どおりアンティアへ回航されたものとして扱われている。誰も、その艦が今、西へ向かっているとは知らなかった。
東の空には、いつの間にか淡い黄金色の光が広がり始めていた。水平線の向こうから、朝日がゆっくりと昇ろうとしている。
王都を離れていくドラペテスに、ようやく夜明けが追いついてくる。
第三章 完
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