第76話 集結
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王都の空が、ゆっくりと茜色に染まり始めていた。地平線の彼方から広がった残照が、雲の端を燃えるような琥珀色に焼き、刻一刻と夜の影を広げていく。
タラシア邸では、最後の荷物を運び出す作業が続いていた。かつて美しい調度品で飾られていた広間には、すでにほとんど何も残っていない。壁に掛けられていた絵画も、磨き上げられた飾り棚も姿を消し、広々とした床に窓から差し込む夕日が長い影を落としていた。ガランとした空間には、歩くたびに靴音が寂しく反響する。
屋敷の中では、わずかに残った使用人たちが最後の仕事を続けていた。大半の者は、すでに陸路や民間船でアルカディアへ向かっている。王都に残っている者も、今夜は宿を取り、翌朝には出発する手筈になっていた。
ただ、屋敷の一角にある事務室だけは、まだ普段どおりの仕事が続いていた。造り付けの頑丈な木製カウンターには帳簿や書類が広げられ、パウロとイレーネ、ソフィアが最後の確認を進めている。
「これで、こちらの作業はほぼ終了でございます。屋敷の売却につきましても、レアンドロ様を通じて手配が整っております」
「ありがとう、パウロ。この短期間でこれだけの規模を動かすのは、ずいぶん大変だったでしょう」
「いいえ。すべて予定どおりでございます」
パウロはいつもの穏やかな表情で答えた。そのあまりにも涼しい返事を聞いたイレーネは、思わずおかしそうに笑った。
「あなたの『予定どおり』って、本当に頼りになるわね」
「恐れ入ります」
そこへ、ルシウスが姿を現した。その足取りは軽いものの、目元は鋭い。
「お嬢」
「あ、ルシウス。どうだった?」
「船の準備は整ったよ。いつでも出港できる状態だ。積み込みも、すべて終わった」
「よかった」
イレーネは安堵したように頷いた。
ルシウスはカウンターの上の書類を一瞥すると、行儀悪くカウンターの端に尻を乗せた。そして、声を少し潜めて続ける。
「ただまあ、昼間に少しだけ面倒なことがあったけどな」
「面倒なこと?」
「海軍省勤務の士官が、船の積み荷を確かめに来たんだ。妙に鼻が利く奴でね。海運局にも問い合わせたらしい」
ソフィアは二人が何の話をしているのか分からず、顔を上げた。
「えと……二人とも何を言ってるの?」
イレーネとルシウスは顔を見合わせると、イレーネがソフィアの方を向いてウィンクしながら言った。
「ソフィアにはまだ言ってなかったわね。あとで教えてあげる」
疑問が浮かんだままの顔をしながらも、ソフィアは黙ってうなずくと、ルシウスは続けた。
「で、話を続けるとだな、この件は海運局の方でうまく対応してくれた。明日、もう一度確認に来るそうだ」
「明日?」
イレーネは一瞬だけ考え、すぐに悪い顔になってにやりとした。その瞳には、窮地を楽しむような悪戯っぽい光が宿っている。
「じゃあ、その頃にはもういないわね。みんな、海の上だもの」
「そういうことだ」
ルシウスも不敵に口元を緩めた。
「船の方は問題ない。あとは暗くなるのを待つだけだよ」
「分かったわ」
イレーネはカウンターの上に置かれていた書類を一つにまとめ、パウロへ向き直った。
「じゃあ、パウロ。みんなのことはお願いね」
「お任せください。宿の手配も済んでおります。私どもも、明朝の民間船で出発いたします」
「うん。それから、ネイモでは、ベアトリスの様子を見てきてちょうだい。本店の準備も忙しいでしょうから」
「かしこまりました。そちらも手配済みでございます」
「何か困っているようなら、手を貸してあげて」
「承知いたしました」
イレーネは満足そうに頷いた。パウロは長年仕えてきた主人に、いつもと変わらぬ丁寧な礼をした。
「では、お気をつけて」
「ええ。アルカディアで待ってるわ」
何も特別な別れではない。パウロは翌朝、残る使用人たちを連れて別の船で出発し、やがてアルカディアで再び顔を合わせる。それぞれが任された仕事を果たし、次の場所へ向かうだけのことだった。
パウロが退出すると、ソフィアは窓の外へ目を向けた。
夕日に照らされた庭園では、最後の木箱を運ぶ馬車が門を出ていくところだった。門が閉まる音が、終わりを告げるようにどこか遠く響く。
「……本当に、何もなくなってしまったのね」
ソフィアが感慨深げに呟くと、イレーネも室内を見渡した。
「そうね。少し寂しい気もするけど」
「あなたがそんなことを言うなんて、意外だわ。もっとドライに割り切るものかと」
「失礼ね。私だって、思い出くらいあるわよ」
イレーネは心外だとばかりに口をへのじに曲げ、それから空になった棚へ目を向けた。
「でも、まあ、持っていきたいものは、ちゃんと持っていくから言うほど寂しくもないのか」
ソフィアは、その言葉に小さく微笑んだ。大切なものは、必ずしも家具や装飾品ではない。彼女自身、今ではたった一つのトランクに収まるだけの荷物しか持っていなかった。それでも、以前よりずっと身軽な気がしていた。
「そうね」
ソフィアは頷いた。
「私も、もう忘れ物はないわ」
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。まずは食事でもして少し時間をつぶしましょう。今夜の計画のこと話すわ。びっくりするわよ」
イレーネはそう言って立ち上がった。
外では、夕日は沈みきり、王都を包み込むように夜の帳が下りようとしていた。
◇
夜の軍港には、昼間とは違う静けさがあった。今夜は新月。月明かりのない空には星々が瞬いていた。潮の香りが立ち込める中、岸壁に並ぶ軍艦の多くは灯りを落とし、巨大な黒い影となって海面に身を潜めている。当直の兵士たちが定められた持ち場で警備に当たり、遠くからは波が石造りの岸壁に打ち寄せる音が聞こえてくる。ときおり、巡回兵の規則正しい足音が静かな港に響いていた。
イレーネ、ソフィア、ルシウスの三人は、軍港の裏手にある通用門へ向かっていた。そこは物資の運搬や夜間勤務の兵士が利用する小さな門で、正門ほど人の往来が多くない。錆びついた鉄格子の門は、夜の闇に溶け込むようにひっそりと佇んでいた。
門の脇に立っていた見張りの兵士が、三人の姿を認めて素早く姿勢を正した。
「お待ちしておりました」
「ご苦労さま」
イレーネは声を潜めて小さく頷いた。彼女もソフィアも海軍の軍服を纏っている。暗がりで遠目に見れば、その華奢な体つきも、訓練中の少年兵に見えなくはない。
兵士は周囲を油断なく確かめると、音を立てないよう慎重に通用門を開いた。
三人は何事もなかったように門をくぐり、軍港の敷地へ入った。
夜間とはいえ、基地内の仕事がすべて止まっているわけではない。翌朝の出港に備える艦もあれば、当直を交代する兵士たちもいる。ときには、荷車を引く水兵が足早に通り過ぎることもあった。
ドラペテスでも、翌朝のアンティアへの回航に向けた最後の準備が続いていた。船倉では積み荷の固定を確かめ、甲板では索具や帆装の点検が進められている。乗組員として手配されたベテラン船員や技術者たちも、順次艦へ乗り込んでいた。
彼らにとって、乗船を隠す必要はなかった。回航命令書が整えられている以上、必要な人員が集まり、翌朝の出港に備えるのは当たり前のことだった。
もっとも、夜も更けた軍港である。作業の指示も自然と声が低くなり、甲板では不必要な物音を立てぬよう気が配られていた。
当初、ドラペテスには三百五十名を超える人員が乗り込む予定だった。ドラペテスほどの大型ガレオンなら収容できる人数ではあったが、長い航海になることを考えれば、余裕があるに越したことはない。
そこでルシウスは、準備を進める過程で計画を少し変更していた。海運局の事務官や工廠の職人など、別の経路でも移動できる者を中心に、陸路や民間船へ振り分けたのである。
その結果、今夜ドラペテスへ集まるのは三百名余りとなった。操船の要所を担うベテラン船員や下士官、九十名ほどの元練習生、そして航海に必要な技術者たちが中心だった。
当然、かつて第二練習艦隊に所属していた者も少なくない。解隊後、残務のために残った者もいたが、それぞれ別の職場に移った者も多い。そうした者たちが再び顔を合わせ、以前と変わらぬ調子で言葉を交わしていた。
「おう、久しぶりだな」
「お前、来ると思ってたぞ」
「当たり前だろ。こんな面白そうなこと、置いていかれてたまるか」
「声が大きい。もう少し静かにしろ」
小声で交わされる軽口に、周囲の者たちが肩を揺らして笑いをこらえた。懐かしい顔が集まるたびに、緊張の中にも少しずつ以前の空気が戻ってくる。
だが、誰もが堂々と乗り込めるわけではなかった。再訓練中の少年兵たちである。
彼らは正式な回航要員には含まれていない。本来なら消灯後の兵舎にいるはずであり、許可なく抜け出したことが知られれば、当然ながら問題になる。
少年兵たちは二人、あるいは三人ずつに分かれ、時間をずらして兵舎を抜け出していた。巡回兵と鉢合わせしないように注意しながら、それぞれドラペテスを目指していた。
そのうちの三人が、兵舎の裏手から倉庫沿いの道を歩いていたときだった。
「おい、お前たち!」
突然の声に、三人は思わず足を止めた。
「こんな時間に何をしている? もう消灯時間だろう」
巡回兵の一人が近づいてくる。
「え、あ、その……」
少年兵たちは青ざめた顔で互いを見た。まずい。ここでドラペテスへ向かっていることを詳しく聞かれれば、厄介なことになる。どう答えるべきか迷っていた、そのときだった。
「……ん?」
巡回兵が不意に鼻をひくつかせた。
「お前、酒を持っているのか?」
「えっ?」
三人のうち、一人の少年兵が反射的に腰へ手をやった。そのあからさまに動揺した様子を見て、巡回兵の目が細くなる。
「おい。その水筒、何だ」
「い、いえ、これは……」
「見せてみろ」
少年兵はしぶしぶ、腰に下げていた小型の水筒を差し出した。巡回兵が栓を開けると、かすかに酒の匂いが漂った。
「……まったく」
巡回兵は呆れたように深くため息をついた。
「お前ら、さては寝所を抜け出して、隠れて一杯やるつもりだったな?」
「い、いえ! そんな……」
「言い訳するな。こんなものを持ち歩いておいて」
巡回兵は水筒を返し、萎縮する三人を見て苦笑いした。
「お前ら、元第二練習艦隊だろ? ま、酒でも飲まないとやってられないか……」
巡回兵は少しばかり同情したような顔になった。
「仕方ない。今夜のところは見逃してやるが、次に見つけたら上官に報告するからな」
「は、はい!」
「いいか。ほどほどにしておけよ。明日の訓練に響くようなことはするな」
巡回兵はそう言い残すと、呆れたように首を振りながら歩き去っていった。三人はその背中が見えなくなるまで動かなかった。
やがて、一人がようやく息を吐いた。
「……助かった」
「助かった、じゃないだろ」
隣の少年兵が、怒気を含んだ小声で言った。
「お前、何でこんな大事なときに酒なんか持ってるんだよ」
「いや、王都ともこれでお別れだし、最後だから、ちょっとくらい……」
「ばか野郎。こんなときに何考えてるんだ。心臓が止まるかと思ったぞ」
「でも、おかげで見逃してもらえたろ……」
三人は顔を見合わせ、安堵から思わず小さく笑った。ただ、その笑いには、先ほどまでの緊張がまだ混じっていた。
「ほら、急ぐぞ」
彼らは足早に岸壁へ向かった。
◇
夜半を過ぎる頃には、ドラペテスの甲板にも落ち着きが戻り始めていた。
回航に必要な物資はすでに積み込まれ、船倉では最後の固定作業が終わろうとしている。艦内の設備も点検を終え、当直以外の者たちは、それぞれ出港に備えて休息を取っていた。張り詰めた夜の冷気が、甲板の木床を白く湿らせていく。
イレーネは甲板に立ち、懐かしい顔ぶれを眺めていた。
かつての練習生たち、熟練の船員、技術者たち。第二練習艦隊が解隊されたとき、それぞれの道へ散っていった仲間たちが、今こうして再び集まっている。魔晶灯の仄暗い光に照らされた彼らの横顔には、かつて苦楽を共にした誇りと、新たな旅への高揚感が静かに宿っていた。
「……すごいわね」
隣に立つソフィアが、めがねの奥の瞳をわずかに丸くさせながら、小さく呟いた。
「何が?」
「みんな、本当に来たのね」
イレーネはどこか誇らしげに少し笑った。
「ええ。来てくれたわ」
「あなたのことを、信じているのね」
「私だけじゃないわ。みんな、もう一度この船で海へ出たいと思ってくれたんでしょう。……自分の意思でね」
答えたイレーネの声は、いつもより少し穏やかだった。それは命令によって動く軍人としてではなく、自らの未来を選ぶ船乗りとしての響きを持っていた。
ソフィアは甲板を行き交う人々に目を向けた。夕方、イレーネから計画の詳細を聞かされたときには、本当に驚いた。王都を離れる覚悟は決めていたけれど、まさか王国海軍の軍艦を勝手に持ち出して出港するとは思ってもみなかったのだ。それは大胆不敵を通り越して、あまりにも無茶な選択だった。
だが同時にイレーネらしいと妙に納得してしまう自分がいた。そのせいなのか、今は不思議と落ち着いていた。目の前では誰もが自分の仕事を理解し、当然のように準備を進めている。秘密の逃亡という言葉から想像していた慌ただしさとは、ずいぶん違っていた。
そこへ、ルシウスが二人のもとへ歩み寄ってきた。
「お嬢、乗船はほぼ完了だ。あとは通用門の当直だけだな」
「分かったわ」
イレーネは頷き、もう一度岸壁へ目を向けた。
やがて、通用門の当直についていた兵士たちが、交代を終えて姿を現した。互いに目配せを交わしながら、静かに艦へ向かってくる。最後まで持ち場についていた協力者たちだった。
彼らが乗船すると、副官は名簿を手に人数の確認を始めた。正規の回航要員に加え、ひそかに乗り込んだ少年兵たち。今夜、この船に集まる予定だった者が、一人も欠けることなく揃っているかを確かめていく。
やがて確認を終えた副官は、名簿を閉じてイレーネの前に立った。
「イレーネ様」
「どう?」
「予定していた者は、すべて乗船を終えました」
一拍置いて、姿勢を正して副官は静かに告げた。
「乗船者、総員三百十二名、集合完了。 出港準備、すべて整っております」
イレーネはゆっくりと、深く頷いた。
「ありがとう。みんなにも伝えて。出港までは、それぞれの持ち場で待機してちょうだい」
「了解しました」
副官が去ると、甲板には再び静けさが戻った。
空には月の姿がなく、無数の星だけが瞬いていた。魔晶灯が照らす範囲を外れれば、海は深い闇に沈んでいる。軍港の奥では、当直の兵士たちがいつもどおりの仕事を続けていた。
王国海軍の記録上、この艦は翌朝、アンティアへ向けて回航されることになっている。そのための準備はすべて整っていた。だが、実際に向かう先は、東のアンティアではない。
イレーネは船首の方へ目を向けた。その視線は、星空の向こうに広がる、自由な海へと向けられている。もう、引き返すつもりはなかった。
隣に立つソフィアも、何も言わずに同じ方向を見ていた。二人の肩が、かすかに触れ合う。もう孤独ではないという確信が、冷えた身体を温めていた。
出港まで、あとわずか。ドラペテスは岸壁に繋がれたまま、夜の闇に身を沈めていた。解き放たれるその瞬間まで、静かに息を潜めて。




