第75話 出港準備の完了
王都の軍港は、朝から慌ただしかった。
大小の軍艦が並ぶ岸壁では、水兵たちが補給物資を運び、木製の起重機が滑車を軋ませながら重い荷を吊り上げている。出港を控えた艦からは帆装を点検する声が響き、帰港した艦では水や食料の積み替えが行われていた。
その一角で、かつて第二練習艦隊の旗艦を務めた大型艦、ドラペテスにも、次々と荷物が運び込まれていた。
ここ一週間ほど、艦の周辺では出港に向けた準備が続いていた。甲板には木箱や樽が並び、船倉へ降ろされた荷物は、乗組員の手によって手際よく所定の場所へ収められていく。
「おい、あの船、まだ積んでるのか」
隣の岸壁で作業をしていた水兵が、額の汗を拭いながら言った。
「ようやく処分先が決まったらしいぞ」
「へえ、どこに?」
「東だって聞いてるな。アンティアとかなんとか。詳しくは知らないが」
「アンティアか。ずいぶん遠くへやるんだな」
「輸送船にでもするんじゃないか?」
「さあな。あれだけ大きけりゃ、使い道はいくらでもあるだろうさ」
水兵たちはひとしきり話すと、すぐに自分たちの仕事へ戻った。
王国海軍では、任務を失った艦を別の用途に回すことは珍しくない。ましてや、回航のついでに途中の港へ物資を運ぶことも、ごく普通に行われていた。空いた船倉を遊ばせておく理由などないからだ。
そのため、ドラペテスの甲板に大量の木箱が並んでいても、特に気に留める者はいなかった。
木箱の側面には、食料、衣類、工具、日用品などの大まかな品目と、荷下ろし先とされる港の名前が記されている。中にはアンティアへ向かう途中の港を行き先とするものもあり、見た目には通常の物資輸送と何ら変わらなかった。
だが、実際の積み荷は少々事情が違っていた。長期航海に必要な食料や飲料水、予備の帆布、索具などに加え、タラシア家から運び出された衣類や寝具、食器、書籍、生活用品などが収められていた。
しかも、それらのほとんどは、記載された港で荷下ろしされる予定などなかった。すべて、アルカディアへ運ぶための荷物だった。
甲板では、かつてイレーネの副官を務めた士官が、積載表を片手に作業を監督していた。無論、海軍の正式な書類である積載表にはそんなことはこれっぽっちも書いてはいないが、彼にしか分からない記号が振られていた。
「その三箱は後部船倉だ。水樽の隣には置くな。揺れたときに中身を傷める」
「了解しました」
「そちらの帆布は上へ。まだ使わんものを通路に積んでおくなよ」
水兵たちは慣れた様子で返事をし、荷を運んでいった。副官は積載表へ目を落とし、進捗を確かめた。予定より少し早い。この調子なら、日没までにはすべて積み終えられるだろう。
予定どおりに事が進み、若干気が抜けたのか、楽観的な考えが浮かんでしまう。そのときだった。
「おい、そこの士官」
岸壁から、聞き慣れない声がした。
振り返ると、海軍大臣の直属部局に所属する士官が、二人の水兵を従えて立っていた。
副官は積載表を閉じ、何事もなかったように敬礼した。
「何か御用でしょうか」
「この艦の回航準備を担当しているのは貴官か?」
「はい。積み込み作業を監督しております」
士官は甲板に積まれた木箱へ目を向けた。
「随分と積んでいるな。回航にしては荷が多くないか?」
「途中の港へ運ぶ物資も積んでおりますので」
「ほう。アンティアへ向かう途中で荷を下ろすのか」
「そのように手配されております」
士官は近くの木箱に記された文字を読み、さらに奥の積み荷へ視線を向けた。
「誰の指示で積んでいる?」
「誰と言われましても……。海運局から回された積載計画に従っておりますので」
「何のために、これだけの物資を運ぶ?」
「申し訳ありません。私どもは指定された物資を積み込むよう指示されているだけですので、輸送の目的までは承知しておりません」
「積載明細はあるのか?」
「こちらにございます」
副官は手元の書類を差し出した。
士官は明細に目を通した。食料、飲料水、衣類、寝具、工具、その他の日用品。数量は多いが、長距離の回航と途中の港への物資輸送を兼ねるのであれば、特別に不自然な品目ではなかった。
「……ふむ。書類は揃っているようだな……。ん、なんだこの記号は」
「ああ、それは自分の作業用のメモです。積み荷が多いので、バランス良く積むために区画とかをあらかじめ決めて、割り振ってます」
士官は説明に納得したように頷いた。
「なるほどな。よく考えてるな。しかし、輸送の必要性までは分からんのか」
「はあ、まあ、仕事ですんで。あと、詳しい事情は海運局へお問い合わせいただければと存じます」
士官は書類を返し、しばらく考え込んだ。
彼は何か特別な密命を帯びて、ここへ来たわけではなかった。別件で軍港を訪れた際、解隊された艦の積み込みが妙に多いと感じ、声をかけただけである。
現場の書類に不備はない。荷の品目も、回航先も、通常の輸送業務として説明がつく。ただ、誰が何のためにこれほどの輸送を手配したのか、少しばかり気になった。
「分かった。海運局で確認しよう」
「恐れ入ります」
副官は丁寧に敬礼し、士官を見送った。その姿が岸壁の向こうへ消えると、すぐ近くで作業をしていた若い水兵を呼び寄せる。
「おい」
「はい」
「海運局へ先回りしろ。今の士官が積み荷について確認に行く。できるだけ時間を稼ぐよう伝えてくれ」
「分かりました」
「慌てるなよ。いつもどおりに行け」
水兵は頷くと、荷役の手伝いを終えた者のような顔で岸壁を離れた。
副官は別の者にも声をかけた。
「ルシウス大佐にも知らせてくれ。海軍省の士官が積み荷を確認しに来たとな」
「はっ」
伝令が去ると、副官は再び積載表を開いた。やはり気を抜くとろくなことが起きない。彼は気合いを入れ直して作業指揮を再開した。
「次の荷を上げろ。作業は続ける」
水兵たちが返事をし、起重機が再び動き始めた。
◇
海運局の事務室では、いつもと変わらぬ事務作業が続いていた。机の上には帳簿や回航計画書が積み重なり、壁際の棚には各地の港から届いた書類がぎっしりと収められている。ただ、以前に比べると、働いている職員の数は明らかに少なくなっていた。
受付に座っていたのは、四十代半ばほどの女性事務官だった。長年の勤務で身につけた落ち着いた物腰と、柔らかな笑みが印象的な女性である。机の上には、メリッサと記された小さな名札が置かれていた。
海軍省の士官が姿を現すと、彼女は書類から顔を上げた。
「あら、海軍省の方ですか。何かご用でしょうか」
「旧第二練習艦隊の旗艦について確認したい。アンティアへの回航に関する件だ」
「ああ、あの船ですか。ようやく行き先が決まったんでしたね」
「そうだ。積載物資について聞きたい」
「はいはい。少々お待ちくださいね」
メリッサは席を立つと、すぐ後ろの棚から帳簿を一冊取り出した。
「確か、こちらに……ああ、ございました」
頁をめくり、該当する項目を指で示す。
「アンティアへの回航に合わせて、途中の港へ物資を輸送することになっておりますね。明細もこちらにございます」
差し出された書類には、船側で見たものと同じ品目や数量が記されていた。
士官は椅子に腰を下ろし、一項目ずつ確認していく。
「食料、衣類、寝具、工具……随分と多いな」
「そうですねえ。あの船、大きいですから」
「それは見れば分かる」
「ふふっ、そうでしたね。失礼いたしました」
メリッサは悪びれる様子もなく笑った。
「でも、長い航海ですものね。途中の港へ物資を届けるなら、それなりの量になるのでしょう」
「ふむ……」
士官は書類を見比べた。品目も数量も、記載されているとおりであれば問題はない。ただ、これほどの輸送を誰が必要としたのか、その事情までは読み取れなかった。
「この輸送計画を立てた担当官はいるか?」
「ああ、担当の者ですか。今日は席を外しておりまして」
「いつ戻る?」
「さて……少し確認してまいりますね」
メリッサは席を立ち、奥の部屋へ向かった。
ほどなくして戻ってくると、困ったような顔で首を振った。
「申し訳ありません。本日は別の用件で出ておりまして、戻りが遅くなるそうです」
「ほかに分かる者はいないのか?」
「手続きの内容でしたら、私でもある程度は分かりますけど、輸送を決めた詳しい事情となりますと、担当の者でないと……」
メリッサは小さくため息をついた。
「本当に、最近は人手が足りなくて困っておりますのよ」
「人手が足りない?」
「ええ。ここしばらく、辞めていく方が多くて」
彼女は机の上の書類を整えながら、世間話でもするように続けた。
「特にアルカディア地方の出身者が、ずいぶん減ってしまいましたねえ。タラシア家があんなことになってしまったでしょう? 故郷へ帰るという方が多くて」
「そうなのか」
「ええ。まあ、気持ちは分からなくもありませんけど。あちらの方々にとって、タラシア家は特別な存在ですもの」
士官は少しばかり居心地悪そうに椅子を動かした。タラシア家の話題は、今の海軍省ではあまり気持ちのよいものではない。
だが、メリッサはそんなことを気にする様子もなく続けた。
「おかげで、残った者は仕事が増える一方なんですよ。私も、これからどうしようかしらって、最近よく考えるんです」
「貴官も辞めるつもりなのか?」
「どうでしょうねえ。もう長いこと、ここで働いておりますから。今さら別の仕事を探すのも大変でしょうし。でも、夫はアルカディア出なんで、帰ろうかなとか言ってるんですよ。幼なじみなんですよ。付き合いも長いから私も離れがたいし。まあ、娘はもうとっくにゴヤの商人に嫁いでまして心配してないのですけど。そうそう、ゴヤと言えば――」
メリッサは曖昧に笑いながら、つらつらと家庭の事情まで話し始める。
士官はというと、聞くつもりもなかった家庭の事情まで延々と聞かされ、心底うんざりした顔で、話を切り上げる機会ばかりを窺っていた。
「――でも、こう人が減ってしまうと、毎日仕事に追われてしまって。家に帰っても、翌日のことばかり考えてしまうんですよ」
「……そうか」
士官は何とも答えようがなかった。軍人として命令を受けることはあっても、海運局の人事まで面倒を見る立場ではない。もっとも、目の前の女の事情はさておき、部下が減って仕事が増えるという話には、少なからず同情できるところもあった。
「それで、担当官には明日なら会えるのか?」
「ああ、そうでした。申し訳ありませんねえ。つい長々と愚痴をこぼしてしまって」
メリッサは軽く頭を下げた。
「明日でしたら、必要な書類も揃えておけると思います。担当の者にも、確認しておきますので」
「明日か……」
「ええ。お手数をおかけしますけど、もう一度お越しいただけます?」
士官はしばらく考え込んだ。明細は揃っている。回航先もはっきりしており、途中の港へ貨物を運ぶこと自体は珍しくない。どうしても今日中に結論を出さなければならない案件でもなかった。
「分かった。明日もう一度来る」
「ありがとうございます。今度はきちんとお答えできるようにしておきますね」
「頼むぞ」
「はい。どうぞ、お気をつけて」
メリッサはにこやかに一礼し、士官を見送った。その姿が廊下の向こうへ消えると、彼女は何事もなかったように席へ戻った。
机の上には、まだ片付けなければならない帳簿が残っている。彼女は書類を一枚ずつ揃え、必要なものとそうでないものを分け始めた。
やがて、隣の席にいた若い職員が小声で尋ねた。
「……大丈夫でしたか?」
「ええ。明日、また来るそうよ」
「明日ですか」
「そう。明日」
メリッサは口元に小さな笑みを浮かべた。
「その頃には、私たちは暇になってるかもしれないわね」
若い職員は彼女の言葉に小さく頷いた。
二人は再び書類へ目を落とし、何事もなかったように仕事を再開した。
「それはそうとして」
若い職員が書類を見ながら尋ねた。
「夫がアルカディア出で、幼なじみって。メリッサさんもアルカディア出身じゃないですか」
「あら、そうね。でも、あの方は気づきませんでしたでしょう? 話しやすい人で良かったわ」
職員が顔を上げると、メリッサは頬に手を当てながらにこやかに微笑んでいた。
彼は、このひとは見かけによらず怖いなと、内心冷や汗をかく。
海運局で過ごす、最後の午後だった。
◇
昼下がり、ルシウスのもとに報告が届いた。
海軍省の士官が積み荷について確認に来たこと。海運局の女性事務官が対応し、明日まで引き延ばしたこと。そして、士官は一応納得して引き下がったことなどだ。
ルシウスは報告を聞き終えると、手にしていた書類を机に置いた。
「……なるほど」
傍らの兵士が少し不安そうに尋ねた。
「いかがいたしましょう。積み込みを一時中断しますか?」
「いや」
ルシウスは即座に首を横に振った。
「ここで急に作業を止めれば、かえって目立つ。今までどおりに進めればいい」
「ですが、明日には……」
「明日には、もう終わっている」
ルシウスは落ち着いた口調で答えた。ここまで来るのに、どれほど多くの人間が動いただろう。物資の調達、回航手続き、積載計画、協力者の配置、出港までの段取り。どれ一つ取っても、簡単な仕事ではなかった。
とりわけ厄介だったのは、すべてを王国海軍の日常業務の中に紛れ込ませることだった。
だが、その甲斐はあった。現場では普通の回航準備が行われ、海運局には正規の書類が揃っている。積み荷について質問されても、担当者が手続きどおりに答えれば、それ以上の疑問は生じにくい。
もちろん、すべてが思惑どおりに進む保証などない。それでも、もうほとんど終わっている。
「予定は変えない。積み込みは日没までに終わらせろ」
「はっ」
「余計な動きはするな。いつもと同じように進めればいい」
「承知しました」
兵士が退出すると、ルシウスは机に広げられた積載表を確かめた。
残る荷物は、あとわずか。船の整備も、乗組員の手配も、予定どおりだった。
ルシウスは深く息を吐くと、最後の欄を確認し、静かに書類を閉じた。
窓の外では、軍港に午後の陽光が降り注いでいる。岸壁に並んでいた木箱は次々と姿を消し、ドラペテスの船倉へと収められていった。
明日の朝、海軍省の士官が海運局を訪れる頃には、そこにいるはずの人々も、確かめるはずだった艦も、すでに王都から姿を消している。
それでも軍港では、誰一人として、今目の前で進められている作業が逃亡の準備だとは考えていなかった。
話しやすい人(笑)
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