第74話 二人の提督
王国海軍司令部の一室では、二人の提督が一つのテーブルに向かい合って書類に目を通していた。
一人はエドガー。王国海軍でも古参に数えられる老提督で、幾度もの遠征や艦隊指揮を経験してきた人物である。北方民族の血を引き、背が高く、がっしりとした体格をしていた。年齢を重ねて髪はすっかり白くなっていたが、鋭い眼光と彫りの深い顔立ちには、長い軍歴で培われた威厳が漂っていた。
もう一人はバルタザール。王国の有力貴族の家に生まれ、その縁故を背景に海軍での地位を築いてきた男だった。大きな実戦を経験したことはないものの、仕立てのよい軍服を隙なく着こなし、堂々とした立ち居振る舞いには、提督としての自信が満ちていた。
ちょうど王国海軍では、大規模な合同航海訓練を控えていた。テーブルには海図や航路計画書が広げられ、その周囲には各艦隊の補給状況や艦船の整備計画、各地の基地から届いた報告書がうず高く積み上げられている。二人は、それらを確認しながら、訓練の最終調整を進めていた。
窓の向こうには、夏の終わりの柔らぎ始めた陽光に照らされた王都の軍港が広がっていた。大小の軍艦が整然と岸壁に並び、水兵たちが忙しなく行き交っている。荷役用の起重機がゆっくりと動き、沖合では訓練を終えた小型艦が港へ戻ろうとしていた。
その一角に、ひときわ目立つ船影があった。かつて第二練習艦隊の旗艦を務めた大型艦だった。数日前、イレーネがドラペテスと勝手に名付けたそれだ。
「あの船も、ようやく処分が決まったようですな」
書類から顔を上げたバルタザールが、窓の外を眺めながら言った。その声には、厄介払いが済んだというような安堵が混じっていた。
「らしいな」
エドガーは短く答え、手元の書類に気づいたことを書き込んでいた。
「ここしばらく、ずいぶん慌ただしくしております。どこかの地方基地で輸送船にでもするのでしょう」
「そうかもしれんな」
「元旗艦とはいえ、今となっては使い道もありますまい。あのようないわくつきの船を、いつまでも王都の軍港に置いておくわけにもいきませんからな」
エドガーは答えず、次の書類を手に取り航路図と見比べ始めた。ドラペテスの回航先について、二人とも詳しいことは知らなかった。艦艇の配置転換や処分は担当部局が進める仕事であり、前線の指揮を執る提督たちが一隻一隻の行き先まで把握する必要はない。
バルタザールも、処分先についてはそれ以上話題にする様子はなかった。だが、第二練習艦隊のこととなると、つい口が回ってしまう。
「しかし、第二練習艦隊も、ずいぶん金のかかった艦隊でしたな」
彼は確認し終わった書類をテーブルに置き、呆れたように肩をすくめた。
「艦隊を名乗りながら、結局は新造艦がたった一隻。新しい試みだ何だと、失敗するたびに予算をつぎ込んで。あれだけの金をかけて、いったい何が残ったというのでしょうな。不敬かもしれませんが、王はさらに投資をしようとしていたとか。解隊の判断はまこと、王太子殿下の英断だったと思いますな」
「……あれは、よくできた艦だった」
エドガーが、書類に目を通したまま、低くよく通る声で静かに言った。
「ほう?」
バルタザールは意外そうに声を上げた。エドガーがイレーネの船を評価するとは思わなかったからだ。バルタザールの体がやや前のめりになる。
「練習生を乗せていただけでしょう? 確かに、訓練には熱心だったようですが」
「だから、貴殿は何も見ておらんのだ」
エドガーは顔を上げ、バルタザールを射抜くような視線で見据えた。バルタザールは思わず身を引く。
「最初はひどいものだった。新しい船体に慣れぬ乗組員、思うようにいかぬ操船。試験航海に出るたびに問題が見つかり、港へ戻っては改良を繰り返していた」
「それはそうでしょう。何しろ実験的な新造艦ですからな。ずいぶんと金もかかったようですが」
「そうだ。失敗も多かった。だが、あの娘はその失敗を無駄にはしなかった。問題が出るたびに原因を理解し、次への糧にしていた」
エドガーはそこで言葉を切り、窓の外へ目を向けた。
「帆の扱い、回頭の速さ、風向きが変わった際の対応。初めの頃は乗組員も戸惑っていたが、航海を重ねるごとに動きが変わっていった。入港から係留までの手際も、見違えるほどよくなった」
「訓練を重ねれば、多少は上達するでしょう」
「多少どころではない」
エドガーの声が、わずかに厳しくなった。
「もちろん、艦そのものにも改良が重ねられていたが、それ以上に変わったのは乗組員、特に新兵どもだ。初めは上の指示を待って右往左往していた者たちが、次第に自分の役割を理解し、互いの動きを読んで働くようになった。命令が出る前から次の作業に備え、一つの判断に全員が応じる。あれは、一朝一夕にできることではない。あれは徹底的な反復と、互いの信頼がなければできん」
バルタザールは、あまり納得していない様子で腕を組んだ。
「しかし、所詮は練習生でしょう。実戦となれば話は別です。敵の砲火を浴びても、訓練どおりに動けるとは限りますまい」
「そのとおりだ」
エドガーはあっさりと認めた。
「訓練と実戦は違う。だが、訓練でできぬことが、実戦でできるようになるわけでもあるまい」
「それは、まあ……」
「それに、私はあの艦の出来だけを評価しているわけではない。指揮官の手腕も認めざるを得ないと言っているのだよ」
エドガーは椅子の背に体を預けた。軋む革の音が静かな部屋に響く。
「なまじ腕の立つ古参兵ばかりを集めなかったのも、賢明だった。新しい艦には、新しい操船の方法が必要になる。長年の経験が役に立つこともあれば、かえって邪魔になることもあるからな」
「しかし、経験の浅い練習生では、危険も多かったでしょうに。単に無謀だっただけでは?」
「新兵だけならな。だからこそ、要所には経験豊かな船乗りを置いていた。古参兵に若い者を教えさせ、その若い者たちには新しいやり方を覚えさせる。双方の長所をうまく生かしていたのだ」
エドガーはおもむろに立ち上がると、窓へと近寄り、再び外の大型艦に視線を向けた。
「あの娘は、ただ艦を仕上げただけではない。あの艦を動かすための、新しい乗組員まで育て上げていたのだ」
「……それほどでしたかな」
「貴殿も、一度くらいは訓練を見ておくべきだったな。現場でしか見えないものは確かにある」
バルタザールは、窓の外を見続けるエドガーの背中に向かって、苦笑した。
「エドガー殿は、ずいぶんと買っておられるようですな。あの小娘を」
「イレーネ・タラシア元提督か」
エドガーは少し考えるように顎へ手を当てた。その脳裏に、凛とした佇まいの若い女性指揮官の姿が浮かぶ。
「若い。年齢の割には経験も豊富だろうが、まだまだだ。判断を誤ることもあるだろう。だが、あれほど短い期間で新造艦を仕上げ、乗組員を鍛え上げた手腕は、やはり評価せねばならん」
「私は、いささか過大評価だと思いますがね」
「そうかもしれんな」
エドガーは否定しなかった。
「だが、相手を侮る理由にはなるまい」
その言葉に、バルタザールは肩をすくめただけだった。バルタザールは仕事に戻り、再び書類に目を落とした。一方のエドガーは、しばらくの間、外を見続けていた。
軍港からは、荷を吊り上げる起重機の軋む音や、水兵たちの号令がかすかに聞こえてくる。窓の外では、ドラペテスの甲板に新たな木箱が積み込まれていた。その木箱の数は、心なしか午前中よりも増えているように見えた。
エドガーはふと窓を開け窓枠に手をついて少し身を乗り出した。流れ込んできた潮風が、彼の白髪を揺らす。
「それにしても……」
「何ですかな?」
「あの船、随分と念入りに支度をしているな」
バルタザールも立ち上がり、エドガーの隣へ進むと、外へ目を向けた。確かにそれなりの数の木箱が積み上げられている。しかし、彼は軽く鼻を鳴らすと、肩をすくめながら詰まらなさそうに戻っていく。
「どこか遠くへ回すのでしょう。長い航海になるなら、相応の準備も必要でしょう。それに、回航の際にはついでに物資の輸送もかねて積めるだけ積むのはよくあることじゃないですか」
「……そうだな」
エドガーは頷いたが、すぐには視線を戻さなかった。ここ数日、海軍を去る者の話を以前より多く耳にするようになっていた。第二練習艦隊に関わっていた者も、すでに幾人か王都を離れたという。タラシア家が王都から引き払うのだから、その縁故を頼る者がいても不思議ではない。
それに、解隊された艦隊の後始末は今も続いている。旧第二練習艦隊の関係者が軍港で慌ただしくしていること自体は、別におかしな話ではなかった。
それでも、何かが引っかかる。エドガーはなおもドラペテスの甲板を眺めた。
荷を運ぶ水兵たちに、特に変わった様子はない。船の整備も、積み込みも、回航前なら当然行う作業ばかりだ。
だが、その手際のよさには見覚えがあった。かつて、第二練習艦隊の訓練を眺めていたときにも感じた、あの独特の統制だった。
さらに、イレーネ・タラシアには、艦隊解隊に関する確認のため、海軍省から召喚状が出されたとも聞いている。海軍大臣が何を考えているのかまでは知らないが、タラシア家との間に何らかの揉め事があることは容易に想像できた。
一方で、イレーネのあの強い意志の宿った琥珀の瞳を思い浮かべると、あの娘がただ闇雲に海軍大臣に従うとも考えにくかった。
「……あの娘、何かする気か?」
思わず、小さく呟いた。
「何か仰いましたか?」
バルタザールが顔を上げた。
「いや……」
エドガーはしばらく窓の外を見つめていたが、やがて首を横に振った。
考えてみれば、イレーネはすでに海軍を去った身だ。タラシア家も王都から引き払う。ドラペテスについても、正式な回航準備が進められている以上、今のところ問題にする理由はない。第一、新型艦とはいえ、たった一隻で、この堅牢な王都の軍港で何ができるというのだ。
単なる思い過ごしにすぎないと自分に言い聞かせた。
「……まあ、いい」
エドガーは視線を戻し、机の上の書類を手に取った。
「それより、訓練二日目の模擬戦、どちらが風上側から来ることにするのだ?」
「ああ、それでしたら……」
バルタザールが別の書類を引き寄せ、説明を始めた。二人の提督は、再びいつもの執務へと戻っていった。
窓の向こうでは、ドラペテスへの積み込みが続いていた。誰に疑われることもなく、かつての旗艦は、静かに出港の時を待っていた。
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