第73話 召喚状
昼を少し過ぎた頃、タラシア邸の門前に、海軍憲兵隊の馬車が止まった。
馬車から降りてきたのは、制服姿の士官と二人の憲兵だった。士官は門の脇に掲げられたタラシア家の紋章を一瞥すると、手にしていた書類を確かめ、門番に声をかけた。
「海軍憲兵隊の者だ。イレーネ・タラシア殿に、海軍省から召喚状が出ている。取り次いでもらいたい」
「少々お待ちください」
門番は一礼すると、屋敷へと引き返した。
ほどなくして姿を現したのは、タラシア家の家令パウロだった。
「これはこれは、海軍憲兵隊の皆様。わざわざご足労いただき、恐れ入ります」
パウロはいつもの穏やかな表情で一礼した。
「私は当家の家令を務めております、パウロと申します。どのようなご用件でございましょう」
「イレーネ・タラシア殿に、正式な召喚状が出ている。本人に会いたい」
尊大な態度で士官が書類を示すと、パウロは申し訳なさそうに眉を下げた。長年大貴族の差配を任されてきた男の物腰は、憲兵たちの放つ威圧感をそよ風のように受け流す。
「あいにく主人は不在でございまして」
昨夜、イレーネから受けた指示を思い返す。
――明日、海軍憲兵隊が来ると思うけど、私は留守ってことにしておいて。戻るのは三日か四日後くらいでいいわ。
何とも大雑把な指示だったが、その意図は十分に理解している。
実のところ、イレーネは屋敷の中にいた。今頃はソフィアと一緒に、アルカディアへ持っていく荷物の仕分けでもしているはずだった。だが、もちろんパウロはそんなことを顔には出さない。完璧に仕立てられた「困惑の仮面」を貼り付けたまま、静かに言葉を続けた。
「不在だと?」
「はい。せっかくお越しいただきましたのに、申し訳ございません」
「いつ戻る予定だ?」
「さて……三日後だったか、四日後だったか。何分、予定が少々流動的でございまして」
士官は眉をひそめた。今一つつかみどころのないパウロに対し苛ついたのか、声が固くなる。
「行き先は?」
「主人の予定につきましては、私どもには詳しく知らされておりませんので」
「家令なのに、主人の行き先も知らないのか?」
「お恥ずかしい限りでございます」
パウロは少しも動じず、丁寧に頭を下げた。
「ご存じのとおり、主人は昔から大変行動的な方でございまして。私どもがすべてのご予定を把握するのは、なかなか難しゅうございます」
士官は見下すように、小さく鼻を鳴らした。確かに、イレーネ・タラシアが海軍にいた頃から、あちこちへ出かけていたことは知られている。艦隊司令を解任されたとはいえ、今も王都からの撤収作業で忙しいのだろう。何より、目の前の家令の卑屈な態度が、士官の警戒心を緩ませた。
「まあ、よい。では、この召喚状を預かってもらおう」
「承知いたしました」
パウロは差し出された書類を、両手で恭しく受け取った。
「本人が戻り次第、速やかに海軍省へ出頭するよう伝えてくれ」
「かしこまりました。必ず主人にお伝えいたします」
「頼むぞ」
「はい。ご足労いただき、ありがとうございました」
パウロは深々と頭を下げた。士官たちはそれ以上追及することなく、馬車へ戻っていく。
門前では、タラシア家の荷物を積んだ馬車が何台も行き交っていた。使用人たちが木箱を運び出し、屋敷の装飾品や調度品も次々と積み込まれていく。
憲兵たちはその光景を見ても、特に何も思わなかった。タラシア家が王都から引き払うことは、すでに広く知られている。大きな屋敷を畳むのだから、これくらいの荷物が出るのは当然だった。
「随分と忙しそうですな」
若い憲兵の一人が呟いた。
「そりゃあ、あれだけ大きな家だ。片付けるだけでも一仕事だろう。とにかく用は済んだ。戻るぞ」
士官は何気なく答えると、馬車へ乗り込んだ。
馬車が走り去るのを見届けてから、パウロはようやく頭を上げた。手元には、海軍省の印章が押された召喚状がある。
「……さて」
書類を軽く眺めると、何事もなかったかのように屋敷へ戻った。
憲兵たちには、主人が戻り次第、出頭するよう伝えると約束した。もちろん、その約束は守るつもりだった。
もっとも、主人が実際に出頭するかどうかまでは、何も申し上げていない。パウロの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
◇
海軍憲兵隊からの報告は、その日のうちに海軍省へ届けられた。
報告書には、イレーネ・タラシア本人は不在であり、召喚状を家令パウロに交付したこと、帰邸予定は三日から四日後と説明されたこと、帰邸後に本人へ伝達する旨の回答を得たことが、簡潔に記されていた。
対応は終始協力的で、抵抗や妨害もなかった。屋敷で進められていた撤収作業については、特に記載されていない。憲兵隊にとって、今回の任務とは関係のない事柄だった。
「ふむ、三、四日後ですか」
報告書に目を通した海軍大臣オーレルは、少しばかり残念そうに呟いた。
「どうやら、すぐには戻られないようですな」
向かいに座るフィリッポスが頷いた。つづけて、
「王都からの撤収で忙しいのでしょう。タラシア家も、あれだけの規模ですからな。さすがに、不在のものを無理やり連れてくるわけにもいきません。数日くらいは待ちましょう」
と、神経質そうに顎に触れながら、しかたなく自分の見解を語る。
「ふんっ、まあ、数日程度なら構わんでしょう。親元に泣いて帰る準備くらいはさせてやらないと」
オーレルは報告書を机に投げ捨てた。
「戻ってから改めて出頭を求めればよろしい。それまでは、こちらも必要な資料を揃えておくとしましょう」
「それがよろしいでしょうな」
フィリッポスも異論を唱えなかった。そもそも、出頭を拒否されたわけではない。家令は丁寧に応対し、召喚状も受け取っている。現時点で強制的な措置を取る理由もなかった。
「しかし、あの娘も少しはおとなしくしてればいいものを。くだらないいやがらせをするなど、身の程をしっかり教育してやらねばな」
オーレルが、どこか楽しそうに、侮蔑を込めて笑った。
「艦隊を解隊され、王都からも引き払うとなれば、さすがに以前のような勢いはございますまい。オーレル殿には年長者としてきっちり言い聞かせていただければと」
フィリッポスは小さく頷き、オーレルにわずかに期待の込めた眼差しを向けた。
オーレルは黙ってフィリッポスを見上げると、当然だといわんばかりに得意げな笑みを浮かべ、別の書類へ手を伸ばした。
彼らにとって、イレーネの出頭は数日先へ延びただけのことだった。急いで対応する必要も、特別に警戒する理由もない。ましてや、その数日の間に何が起きようとしているのかなど、考えてもいなかった。
◇
一方、タラシア邸の執務室では、パウロがイレーネに召喚状を差し出していた。
「本日、予定どおり海軍憲兵隊の方がお見えになりました」
「そう。やっぱり来たのね」
イレーネは差し出された書類を受け取り、封に押された海軍省の印章を確かめた。
「はい。お申しつけのとおり、ご不在とお伝えいたしました」
「それで、何か言ってた?」
「三日か四日ほどでお戻りになると申し上げましたところ、それまでお待ちくださるようでございます」
「ふふっ。ずいぶん素直に帰ってくれたのね」
「ご帰邸になられましたら、速やかに海軍省へ出頭するようお伝えする、とお約束いたしました」
イレーネは一瞬きょとんとしたあと、思わず吹き出した。
「ふふっ。パウロったら、相変わらずね」
「何のことでございましょう」
パウロは澄ました顔で頭を下げた。
「私は主人のお言葉を、忠実にお伝えしたまででございます」
「ええ、そうね」
イレーネは笑いながら召喚状を開いた。元第二練習艦隊司令として、艦隊解隊に伴う諸事項について確認したいことがあるため、海軍省への出頭を求める。そんな文言が、いかにも仰々しく並んでいた。
「……まったく、今さら何を聞きたいのかしらね」
書類を机の端へ置き、パウロへ顔を向けた。
「それで、荷物の方は?」
「予定どおり進んでおります。残るのは、明日運び出す分だけでございます」
室内には、すでに整理された帳簿や書類が積み上げられていた。壁の棚もほとんど空になり、いつもそこに飾られていた品々も姿を消している。
「ルシウスからは?」
「船の準備も順調とのことです」
「そう」
イレーネは頷くと、窓の外へ視線を向けた。
庭園では、使用人たちが最後の荷物を運び出している。長年この屋敷を彩ってきた調度品も、すでにほとんど残っていなかった。傾きかけた日が、空になりつつある部屋を静かに満たしていく。王都を離れる日が、いよいよ近づいている。
「じゃあ、予定どおりに進めましょう」
「かしこまりました」
パウロが一礼した。
「パウロ、あなたたちも気をつけてね」
「ご心配には及びません。残る者たちのことは、私が責任を持ってお預かりいたします」
「頼りにしてるわ」
イレーネは嬉しそうに微笑んだ。パウロはもう一度深く頭を下げると、部屋を出ていった。
一人になったイレーネは、机の端に置かれた召喚状へちらりと目を向けたが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
明日の夜、いよいよ王都での最後の計画が動き出す。
屋敷の外では、荷物を運ぶ馬車の車輪が石畳を軋ませていた。王都の人々にとっては、タラシア家が引き払うための、いつもどおりの光景だった。その裏で、王国海軍の誰も予想していない計画が、静かに最終段階へと進んでいた。
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