第72話 新しい旅立ち
タラシア邸の玄関に、一台の馬車が止まったのは、すっかり日が暮れてからのことだった。馬車から降りたソフィアは、足元に置かれたトランクを持ち上げ、目の前の屋敷を見上げた。王城を出てから、直接ここへ向かってきた。母の形見をはじめ、身の回りのものはすべてトランクに収まっている。
玄関の扉を叩くと、ほどなくして年配の侍女が姿を現した。
「夜分に前触れもなく申し訳ありません。イレーネ様にお会いしたいのですが」
侍女は一瞬、不思議そうにソフィアの顔を見つめたが、すぐに表情を明るくした。
「まあ、ソフィア様! お久しぶりでございます。何年ぶりでしょう」
「ご無沙汰しています。こんな時間にごめんなさい」
「とんでもございません。イレーネ様もきっとお喜びになりますわ。さあ、どうぞお入りください」
侍女はソフィアを招き入れると、傍らのトランクに少し驚いた様子を見せたものの、何も尋ねず応接室へ案内した。ずいぶんと久しぶりの訪問にもかかわらず、快く迎えてくれる侍女の気遣いが、今のソフィアにはありがたかった。
そういえば、自分が王城で働くようになり、屋敷へ帰ることが少なくなってから、デルフィ家の使用人たちも随分と質が落ちてしまった。家計や財産の管理は今も自分が続けているが、日々の使用人の教育や監督までは目が届かない。そんなことを考えながら、つい目の前の侍女と比較してしまう。
応接室で待つことしばし。廊下の向こうから、どこか弾むような足音が近づいてきた。
「ソフィア!」
扉を開けたイレーネの顔が、ぱっと明るくなった。こんな時間の訪問は予想外だったが、待ち望んでいた友人の姿に、自然と笑みがこぼれる。
「来てくれたのね! ……あら、その荷物は?」
「イレーネ、話があるの」
いつになく張り詰めたソフィアの声に、イレーネも表情を改めた。その琥珀色の瞳が、真剣な光を宿す。
「……何かあった?」
「明日、あなたに出頭要請が来るわ」
「出頭要請?」
イレーネは怪訝そうに眉を寄せた。
「ええ。元第二練習艦隊司令として、確認したいことがあるそうよ。でも、事情聴取だけで済ませるつもりはないみたい」
ソフィアは、王城で耳にした計画を説明した。調査を理由に一週間でも二週間でも引き留め、タラシア家の動きを止めようとしていることを。
「出頭したら、すぐには帰してもらえないと思う」
イレーネは眉をひそめた。
「……近衛隊長のグレゴリ、ではなくて……?」
「違うわ。今回は海軍に任せたみたい。父と海軍大臣が話しているのを偶然聞いたの。憲兵隊の担当者にも、すでに話をつけてあるそうよ」
「海軍大臣かあ……」
イレーネは露骨に嫌そうな顔をした。
「オーレルね。あの人ならやるわ」
「心当たりがあるの?」
「あるなんてもんじゃないわ。昔から、何かにつけて面倒なことを言ってくる人だったもの」
イレーネはうんざりしたように椅子へ腰を下ろし、腕を組んだ。
「自分の権限を振りかざすのは大好きなくせに、責任を取るのは大嫌い。何か問題が起きると、すぐ部下のせいにするのよ。私が海軍にいた頃から、ずっとそうだったわ」
「……随分と嫌っているのね」
「嫌ってるというか、信用してないのよ。規則を持ち出して人を縛るのは得意なくせに、自分に都合が悪くなると、途端に解釈を変えるんだから」
そこでイレーネは、何かを思い出したように顔をしかめた。
「そういえば、第二練習艦隊のことで何度も揉めたわね。あの人、外洋航海そのものに反対だったもの。予算がどうの、危険がどうのって、いつも同じことばかり。新しいことをするのが、怖くて仕方ないのよ。波の高さに怯えて最初から陸に引きこもるくらいなら、船乗りをやめればいいのに」
「でも、正式な出頭要請なのでしょう?」
「そうね」
イレーネは少し考え込んだ。
「近衛隊長のグレゴリなら、まだ話は別なのよ。あの人は融通が利かないけど、筋は通すから。調査が必要だと言われれば、私だって協力するわ」
「でも、今回は違う」
「ええ。オーレルが相手なら、あなたの言うとおり、帰してもらえなくなる可能性が高いわね」
イレーネは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「まったく、最後まで面倒なことをしてくれるわねえ」
ぼやいたあと、あっさりと言った。
「じゃあ、王城には行かないことにするわ」
「……いいの? 形だけとはいえ、正式な要請を断ることになるわ」
「よくはないでしょうけど、行ったらもっと面倒なことになるんでしょう?」
「そう思う」
「だったら、行かない方がいいわ」
イレーネは当然のことのように言い切った。その決断の早さは、まるで次の航路を決めるかのようで、いかにもイレーネらしかった。
「どうせ向こうも、まともに調査をするつもりなんてないんでしょう? それなら、こちらが付き合ってあげる義理もないわ。大丈夫、居留守でも使って受け取らなきゃいいだけだから」
ソフィアはようやく肩の力を抜いた。ずっと胸を圧迫していた重苦しい緊張が、ため息とともに消えていく。王城からの正式な要請を拒むことが、実際そんなに簡単な話ではないのは分かっている。イレーネは受け取らなければいいというが、それも時間稼ぎにしかならない。それでも、何も知らずに出頭してしまうよりはずっといい。あとはイレーネとタラシア家が判断することだった。
「ありがとう、ソフィア。知らせに来てくれて助かったわ」
「……間に合ってよかった」
「本当にね。知らなかったら、私、普通に行っちゃったかもしれない」
「でしょうね」
「そこは否定してほしかったんだけど」
「あなた、そういうところは真面目だもの」
「そう?」
「そうよ」
二人は顔を見合わせ、笑顔を見せあった。イレーネは子供のように白い歯を見せ、ソフィアはしおらしく口に手を当ててくすくすと肩を揺らす。
張り詰めていた空気が和らぎ、イレーネはそこでようやく、部屋の隅に置かれたトランクへ目を向けた。
「……それはそうと、ソフィア」
「何?」
「その荷物、どうしたの?」
「ああ、これ……」
ソフィアはトランクを見つめ、少しだけ言葉を探した。イレーネは何も言わず、ただ温かい眼差しで返事を待っている。
「あなたに、もう一つ話があるの」
「うん」
「この前、アルカディアへ来ないかって誘ってくれたでしょう?」
「ええ」
「考えたの。ずっと」
ソフィアは一度だけ息を整え、親友の顔をまっすぐに見つめた。その瞳には、もう迷いの影は一切なかった。
「……行くわ。あなたと一緒に、アルカディアへ」
イレーネが何度か瞬きをした。
「いいの?」
「だから、私もアルカディアへ行くって言ってるの」
「本当に?」
「ええ」
「本当に、本当?」
「何度言わせるのよ」
イレーネは椅子から勢いよく立ち上がった。
「やった!」
次の瞬間には、ソフィアは力強く抱きしめられていた。イレーネのひだまりのようなぬくもりが、ソフィアの体を包み込む。
「ちょっと、イレーネ!」
「嬉しい! すっごく嬉しい!」
「わ、分かったから! 少し落ち着いて!」
イレーネは構わず、さらに腕に力を込める。
「だって、もう会えなくなるかもしれないって思ってたんだもの!」
「……苦しいわ」
「あ、ごめん」
ようやく腕を緩めたイレーネは、少し照れくさそうに笑った。その目には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいるようにも見えた。
「でも、本当にいいの? お父様のこととか、仕事とか」
「全部、片付けてきたわ」
「全部?」
「今日、退職届を出してきたの。それから、貴族籍を離脱する手続きも済ませた」
イレーネの目が、大きく見開かれた。
「……ええっ!?」
「そんなに驚かなくても」
「驚くわよ! だって、あなた、あんなに悩んでたじゃない!」
「悩んだから、決めたのよ」
ソフィアは静かに微笑んだ。その微笑みは、王城にいた頃の誰の目にも触れさせなかった、彼女自身の本当の笑顔だった。
「もう、デルフィ家の娘として生きるのはやめるわ。これからは、自分のやりたいことを、自分で決めたいの。イレーネが誘ったんだからちゃんと責任取ってよ?」
イレーネは不意を突かれたかのように、瞬きを二、三度させ、しばらくソフィアを見つめていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「うん。ソフィアのやりたいように生きる。それがいいと思うわ。大丈夫、任せてよ。アルカディアだったらあなたが輝ける場所なんていくらでも見つけられるわ」
「……ありがとう」
「それよりも、仕事を辞めちゃったなら、今日はどこに泊まるつもりだったの?」
「とりあえず、近くで宿を取ろうかと思ってたんだけど」
「何言ってるの。ここに泊まっていきなさいよ」
「でも、急にお邪魔するのも……」
「今さら何を遠慮してるのよ」
イレーネは呆れたように言った。
「部屋ならいくらでも空いてるわ。それに、もうすぐ王都から引き払うんだから、使わないままにしておく方がもったいないでしょう?」
「……そういう問題?」
「そういう問題」
イレーネは笑いながら扉の方へ声をかけ、使用人に客室の準備を頼んだ。
「これで決まりね」
「相変わらず、強引なんだから」
「あなたが遠慮しすぎなのよ」
ソフィアは小さく息を吐いたが、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。今夜は、王城の狭い仮眠室に戻る必要はない。デルフィ家の屋敷へ帰る必要もない。それでも、こうして自分を迎えてくれる人がいる。
「……ありがとう、イレーネ」
「どういたしまして」
イレーネは満足そうに頷いた。
「そうだ、ソフィア」
イレーネは何かを思い出したよう、ぱん、と手を打った。
「何?」
「あなた、明日からもう王城に行かなくていいのよね?」
「ええ。そうだけど?」
「じゃあ、ちょうどよかったわ」
「……何が?」
イレーネは妙に嬉しそうな顔をした。その表情を見たソフィアは、思わず眉をひそめる。学園時代から、この顔にはろくな思い出がなかった。
「二日後の夜、ちょっと秘密の予定があるの」
「……秘密?」
「そう。ちょっとしたお出かけよ」
イレーネは悪戯っぽく笑うと、いかにも楽しみで仕方がないといった様子で、ソフィアの顔を覗き込んだ。
「どこへ?」
「それは内緒」
人差し指を唇に当て、わざとらしく片目をつむってみせる。その仕草に、ソフィアの眉がぴくりと動いた。
「何をするの?」
「それも内緒」
今度はイレーネが得意げに胸を張った。どうやら、何を聞いても教えるつもりはないらしい。
「……あなたねえ」
ソフィアは呆れたようにため息をついた。学園時代から、こちらが警戒すればするほど、イレーネは楽しそうにしている。昔から、本当にこういうところだけは変わらない。
「それで、私にどうしろっていうの?」
「一緒に来てほしいの」
「どこへ行くのかも、何をするのかも教えてくれないのに?」
「うん!」
イレーネは悪びれる様子もなく、満面の笑みで頷いた。
「まったく……昔から変わらないわね、あなたは」
「そう?」
「そうよ。学園にいた頃だって、行き先も決めずに私を連れ回していたでしょう」
「でも、楽しかったでしょ?」
「……否定はしないけど」
「じゃあ、決まりね!」
「まだ行くとは言ってないわよ」
「えー、来てくれないの?」
わざとらしく残念そうな顔をするイレーネを見て、ソフィアは思わず苦笑した。
「……また、ろくでもないことを考えてるんじゃないでしょうね」
「失礼ね。ちゃんと考えてるわよ」
「それが心配なのよ」
イレーネが声を立てて笑う。つられて、ソフィアも笑った。まるで、学園時代に戻ったかのようだった。あの頃も、いつもこうしてイレーネに振り回されていた。けれど、不思議と嫌だと思ったことはなかった。
王城の仮眠室でも、デルフィ邸でも、いつの間にか忘れてしまっていた、心からの笑顔だった。窓の外の夜空には、彼女たちの新しい旅立ちを祝福するかのように、無数の星が静かに輝いていた。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。
なにとぞ、いくつでも構いません、星をつけてくださるとありがたいです。




