第71話 ソフィアの決断
アレクシオスがアンナと茶会を開いたその日の夜。ソフィアは、王城の仮眠室で一人、寝台に腰掛けていた。仕事を終えてから随分と時間が経っているというのに、なかなか眠る気になれず、先ほどから机の上に置いた小箱を眺めている。
箱の中には、母ダフネが遺した色とりどりのトンボ玉が収められていた。そっと一つを取り上げ、魔晶灯の光にかざすと、硝子の中に閉じ込められた模様が万華鏡のように美しく浮かび上がる。冷たい硝子の感触が、なぜか心を静めてくれるようだった。
母が亡くなってから、もう何年になるだろう。
母の死後、デルフィ家での暮らしはすっかり変わってしまった。家の仕事を引き継ぎ、王城で働くようになり、気がつけば、ここが自分の居場所になっていた。いや、居場所というには、置いてあるのはアンナに小ばかにされた地味な服数着に、ほんの少しの私物と、母のトンボ玉が入った小さな箱。トランク一つで収まるここは、あまりにも空虚で寂しい場所かもしれない。
ソフィアは小さく苦笑した。数日前、イレーネが突然訪ねてきたときのことを思い出す。
――ソフィアもうちに来ない?
あの子らしい、唐突な誘いだった。
アルカディアへ行く。それはデルフィ家を離れ、王城の仕事を辞め、貴族の身分まで捨てるということだった。これまで自分が「家のため」と盲信して背負ってきたものを、すべて置いていくことになる。
簡単に決められる話ではない。母と暮らした「家」を捨てることになるのだ。あの夜から何度も考え、迷ってきた。それでも、最後にはいつも、イレーネの言葉に戻ってしまう。
――それに、私が、一緒に来てほしいの
仕事ができるからでも、何かを任せたいからでもなく、ただ一緒にいてほしいと言ってくれた。優秀な道具としてではなく、ソフィアという一人の人間を必要とされたのは、いつ以来だろう。
ソフィアは掌のトンボ玉を見つめた。父のことも、デルフィ家のことも、気にならないわけではない。自分がいなくなれば、困ることもあるだろう。王城で進めている仕事にも、まだ片付いていないものが山ほどある。
けれど、それを理由に残ったところで、いつか自分の人生を生きられる日が来るのだろうか。誰かのための人生のまま、この暗い城で老いていくのだろうか。
イレーネは、自分が考えた政策を自分の名前で出せばいいと言った。そして、仕事など後回しでもいいとも言った。どちらの言葉も嬉しかったが、ソフィアの心を最後に動かしたのは、やはり親友の「一緒に来てほしい」の一言だった。
「……私も、一緒にいきたいわ」
口にしてみると、驚くほど素直にそう思えた。頑なだった胸の仕えが、綺麗に溶けていくような感覚だった。
ソフィアはトンボ玉を箱に戻し、丁寧に蓋を閉めた。もう迷う必要はない。明日、仕事を片付けたら、イレーネに返事をしよう。父には、まだ何も言わない。相談すれば反対されるのは目に見えているし、何より今回ばかりは、自分一人で決めたかった。
机の上に紙を広げ、明日済ませるべきことを書き出していく。仕事の引き継ぎ、退職の手続き、貴族籍からの離脱。やるべきことを整理しているうちに、ソフィアの口元には、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。
イレーネは、どんな顔をするだろう。
きっと、あの太陽のような笑顔で迎えてくれるに違いない。
考え始めたら、久しぶりに明日が来るのが楽しみになった。
◇
翌朝、ソフィアはいつも通り財務局の執務室へ向かった。机に積まれた書類を整理し、未処理の案件を一つずつ片付けていく。進行中の政策案については、これまでの検討内容と必要な資料をまとめ、後任が困らないように引き継ぎを残した。普段から几帳面に仕事を進めていたおかげで、思っていたほど時間はかからなかった。
「ソフィア様、こちらの資料はもうよろしいのですか?」
「ええ。必要な数字はすべてまとめてあるわ。残りは担当の方にお願いできるようにしておいたから」
「ありがとうございます。それにしても、今日は随分と片付けられましたね」
「少し、整理しておきたかったの」
ソフィアは微笑むと、次の書類へ手を伸ばした。その横顔は、いつもよりずっと晴れやかだった。
めったに見せないソフィアの微笑みに、職員は思わず目を丸くする。軽く声をかけようか逡巡するが、結局、いつも以上に仕事の手が早いソフィアの邪魔をするのも気が引けたため、ソフィアの前を辞した。
昼過ぎには大方の仕事を終え、用意していた退職届を提出した。担当者には急な申し出だと驚かれたものの、必要な手続きを確認すると、続けて貴族籍離脱の届けを出すため、王城の行政部門へ向かった。
成人した貴族の子女が、自らの意思で貴族籍を離れることは、制度上認められている。父親の許可も必要なく、担当官は必要事項を確認したあと、淡々と書類を受け取った。
「デルフィ家の籍を離脱する、ということでよろしいですね」
「はい」
「では、こちらに署名をお願いします」
ソフィアは差し出された書類に、慣れた手つきで名前を記した。
ソフィア・デルフィ。
長年名乗ってきたその名前を書くのも、これが最後になるのかもしれない。そう思うと、少しだけ感慨深いものがあった。だが、デルフィの文字を書き終えた瞬間、重い鎖が外れたような奇妙な軽さを感じていた。
「承りました。手続きはこちらで進めます」
「よろしくお願いします」
礼を述べて部屋を出ると、ソフィアは静かに安堵の息を吐いた。もっと、特別な何かが起こるものかと思っていたが、実際には拍子抜けするほどあっけなかった。家という檻は、心の鍵さえ外せれば、これほどまでに脆いものだったのだ。
それでも、確かに一つの区切りがついたのだ。あとは執務室へ戻り、最後の確認を済ませるだけだった。
◇
財務局へ戻る途中、これで最後だからと、ソフィアは庭園を通って戻ることにした。庭園に面した回廊へ差しかかったところで、聞き覚えのある声が耳に入った。
「まずは、イレーネ・タラシアを出頭させるべきでしょう」
ソフィアは思わず足を止め、近くの木陰に身を隠した。声の主は海軍大臣オーレルだった。回廊の柱の向こうには、父フィリッポスの姿も見える。
「殿下は、タラシア家の動きを止めたいとお考えなのでしょうな」
「昨日のお話を伺う限り、そのように受け取るべきでしょう」
ソフィアは眉をひそめた。イレーネを出頭させる? いったい何のために。
「しかし、本人が素直に応じるでしょうか」
「正式な出頭要請です。元第二練習艦隊司令として、確認すべき事項があると伝えればよいでしょう」
海軍大臣は冷酷なほど落ち着いた口調で答えた。
「一度王城へ入れてしまえば、あとは調査の進め方次第です。艦隊解隊に伴う処理、アルカディアへの人員や物資の移動など、確認すべきことはいくらでもあります」
「……なるほど」
「一週間でも二週間でも、調査が終わるまで留まっていただけばよろしい。なあに、今申しあげたとおり、理由はいくらでもつけられます。叩けばいくらでもほこりくらいは出ましょう。それに、殿下がお望みなのは、タラシア家の動きを止めることでしょうから」
ソフィアの表情が強張った。背中に、冷や汗が伝う。事情聴取のために呼び出し、そのまま難癖をつけて王城に留め置くつもりなのだ。それでは、事実上の拘束と変わらない。
王太子アレクシオスは、そこまでしてイレーネを自分の支配下に繋ぎ止めたいのだろうか。それとも父たちの独断か。様々な可能性がソフィアの脳裏を駆け巡る。
「しかし、そこまで強引なことをすれば、タラシア家も黙ってはおりますまい」
フィリッポスの声に、わずかな躊躇が混じる。
「無論、身柄を拘束するわけではありません。あくまで調査に協力していただくだけです。必要な確認が終わるまで、協力をお願いし、自発的に王城に滞在していただく。それだけのことですよ」
海軍大臣は自らの正当性を示すかのように、大げさに肩をすくめながら、何でもないことのように答えた。先ほどまでの冷酷なほど落ち着いた口調とは裏腹に、その大仰な仕草は、どこか安っぽい芝居を見ているようだった。
腕を組み、何かを考えるかのようにしばらく沈黙を続けたあと、フィリッポスが口を開いた。
「……多少、強引な手になっても、やむを得ないでしょうな。殿下も、それをお望みのはずです」
「では、明日にでも出頭を要請する方向で進めましょう。実はすでに憲兵隊の担当者には話がつけてありまして。私のいうことをよく聞く、これまたいい男でしてな」
「なるほど、すでに動いておられましたか。さすがですな」
話が終わったらしく、海軍大臣は上機嫌で、なれなれしく父フィリッポスの肩をぽんぽんと叩きながら、何やら得意げに話し続けていた。フィリッポスも相槌を打っていたが、内心迷惑がっているのがソフィアにはわかった。二人の話し声は、次第に遠ざかっていった。
ソフィアは二人の姿が見えなくなるのを待って、木陰からそっと姿を現した。何事もなかったかのように廊下へ戻ったものの、胸の内では焦燥が募るばかりだった。足早に執務室へ戻る間も、心臓が早鐘を打っていた。
まずいことになった。
父たちは、アレクシオスの意向をイレーネの動きを止めることだと受け取り、そのために出頭要請を利用しようとしている。しかも、いったん王城へ呼び寄せれば、一週間でも二週間でも引き留めるつもりらしい。
イレーネは、王城から正式に呼び出されれば応じるだろう。けれど、そこで待っているのは、単なる事情聴取ではない。逃げ場のない、王城という名の底なし沼だ。
執務室へ戻ったソフィアは、机の上に残された書類を確認する。自分の仕事は、もう終わっている。引き継ぎも済ませ、退職届も提出した。机の引き出しに残っていた私物を鞄に収め、最後に書類の束を一度だけ確かめる。
「ソフィア様、もうお帰りですか?」
近くにいた同僚が声をかけてきた。いつも何かと手伝ってくれる若手の官僚だ。
「ええ。少し体調も悪いので。今日はこれで失礼するわ」
「そうですよね。ソフィア様は普段から働きすぎでしたから。今日ぐらい早く帰られても誰も文句は言いません。本日はお疲れさまでした」
「……今まで、ありがとう」
「え?」
不思議そうな顔をする同僚に微笑みかけ、ソフィアは執務室を後にした。普段なら、まだ何時間も机に向かっている時刻だった。こんな時間に王城を出るのは、いつ以来だろう。
廊下を歩きながら、ソフィアは今夜の予定を頭の中で組み立てた。焦りで思考が散りそうになるのを、必死につなぎ止める。
まずは仮眠室を引き払う。すでに必要な荷物はまとめてある。デルフィ邸へ戻る必要はない。王城から直接、タラシア邸へ向かえばいい。イレーネに伝えなければならないことがある。
明日にも、彼女を王城へ呼び出そうとしている人たちがいること。そして、出頭すれば、当分帰してもらえないかもしれないこと。
それから、もう一つ。
数日前、あの子が差し伸べてくれた手を、今度は自分が取るのだ。
ソフィアは王城の門をくぐり、決意を胸に夕暮れの街へと歩き出した。
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