第70話 やはり、アンナはいい
翌日の午後。王宮の一角にある小さな応接室で、アレクシオスとアンナはいつものように向かい合っていた。
柔らかな陽射しが差し込み、磨き上げられた銀器の表面で明るく反射していた。室内に漂うのは、甘く煮詰めた果実と上質な茶葉の香り。昨日の執務室での張り詰めた空気とは、まるで別世界のような穏やかさに満ちている。
週に一度ほど設けられているアレクシオスとアンナの茶会は、ここしばらく、二人にとってすっかり当たり前の時間になっている。卓上には香りのよい紅茶と、色鮮やかな果実を添えた小さな焼き菓子が並び、その向こうでアンナは見るからに上機嫌だった。
「殿下、聞いてください。昨日、街へ出た侍女が面白い話を聞いてきたそうなんです」
「面白い話?」
「ええ」
アンナは嬉しそうに微笑むと、少し身を乗り出した。レースをあしらった袖口が揺れ、彼女の可憐さを際立たせる。
「私のことを、『王太子を射止めた魅惑の少女』なんて呼んでいる方がいるそうです」
アレクシオスは思わず、わずかに眉を上げた。
「随分と大げさな呼び名だな」
「そうですか? 私は、ちょっと素敵だと思いますけれど」
まんざらでもない様子で頬を緩めたアンナは、そのまま楽しそうに続ける。
「それに、『真実の愛を選んだ王太子』という話も広まっているそうですよ。殿下と私、とてもお似合いだって」
隠す気もなく嬉しそうに語るアンナを見ながら、アレクシオスも満足げに口元を緩めた。どうやら、思っていた以上にうまく広がっているらしい。
婚約破棄のあと、王都に残る話が「王太子が長年の婚約者を一方的に捨てた」というものだけでは、さすがに都合が悪かった。王家としての面目も、アレクシオス自身のプライドも傷つく。
そこでフィリッポスとも相談し、王宮へ出入りする商人や、社交界に顔の広い者たちを通じて、それとなく別の話が流れるように手を打っておいた。
王太子は不実な男ではない。形式だけの婚約に縛られるのではなく、本当に愛する女性を選んだのだと。
もちろん、誰かに露骨に触れ回れと命じたわけではない。噂好きな者たちが面白がって拾い、勝手に話を膨らませてくれるよう、わずかに材料を置いてやっただけだ。
その甲斐は、十分にあったらしい。大衆は婚約破棄を受けた令嬢の悲劇よりも、身分違いの恋に落ちた王太子のロマンスを好んだのだ。
「嫌ではないのか?」
アレクシオスが尋ねると、アンナは少し意外そうに大きな目を瞬かせた。
「どうしてです?」
「勝手に色々と言われるのは、煩わしくないかと思ってな」
「だって、悪いことを言われているわけではないのでしょう?」
アンナは実に素直な顔でそう答えると、可愛らしく首を傾げた。
「皆さんが私たちのことをお似合いだって思ってくださっているのなら、嬉しいです」
「そうか」
その答えに、アレクシオスは素直に満足した。余計なことを気にせず、自分たちを祝福する声をそのまま喜んでくれる。そういうところも、彼には好ましく思えた。
イレーネであれば、「こんなことで、王家が世論操作をするなど、民を愚弄するものだ」と凜としたたたずまいと琥珀の瞳で射貫くようにアレクシオスを見つめ批判したかもしれない。
――そんな嫌な比較が頭をよぎり、彼はそれを振り払うように紅茶を一口飲み、カップを静かに受け皿へ戻す。
その様子を眺めていたアンナが、今度は少しだけ不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。
「でも殿下、今日は少し難しいお顔をなさっていますね」
「そうか?」
「ええ。さっきから、時々考え込んでいらっしゃいますもの」
別に鋭く心中を見抜いたわけではないのだろう。ただ、普段より口数が少ないことに気づいただけらしい。その気遣いが、今の彼には心地よかった。
アレクシオスは少し迷ったが、やがて肩の力を抜いた。
「昨日、海軍から少し妙な報告があった」
「海軍ですか?」
「タラシア家が王都から引き揚げているのは知っているだろう」
「もちろんです」
「それに合わせて、海軍や民間の海運からも人が抜け始めている。特にタラシア家と縁の深い者が多い」
アンナは小さく瞬きをした。
「たまたまではないのですか?」
「最初はそうも考えた。だが、単に人数が減っているだけではない。熟練した者や、特定の専門分野に妙な偏りがある。どう考えても偶然ではないだろう」
「では、イレーネ様が?」
「おそらく、タラシア家が意図的に動かしている」
アンナは一度、焼き菓子を取ろうとしていた手を止めた。ほんの数秒、考えるように視線を落とす。その整った顔に、ほんの少しの庇護欲をそそるような陰が差した。そして、さほど難しいことでもないと言わんばかりの軽い調子で口にした。
「それなら、イレーネ様は殿下を困らせたいのではありませんか?」
アレクシオスの視線が止まった。
「……私を?」
「だって、殿下との婚約がなくなってからでしょう?」
アンナは焼き菓子を一つ摘み、何でもないことのように続けた。その言葉は、複雑な政治の裏をかいたものではなく、ただの子供の「いじわる」を評価するような軽さだった。
「皆さんが困ると分かっていて、わざわざ人を連れていくのなら、それくらいしか理由が思いつきませんもの」
「王都への意趣返し、ということか」
「難しいことは分かりませんけれど」
アンナは小さく焼き菓子を齧り、甘い味を楽しむように目を細めた。
「もうアルカディアへお帰りになるのなら、そのまま静かにお帰りになればいいのに。わざわざ周りの方まで困らせる必要なんてないでしょう?」
アレクシオスは答えず、しばらくアンナの顔を見つめた。昨日の会議では、タラシア家が意図的に人を引き揚げている可能性が指摘されていた。その目的が何なのか、調べる必要があると判断したのも自分だ。
だが、アンナの言葉を聞いて、胸の内にあった疑念が、にわかに輪郭を持ちはじめた。そうか。イレーネは自分への意趣返しをしているのかもしれない。
――浅ましい女だ。
「……君にも、そう見えるか」
「ええ」
アンナは何の迷いもなく頷いた。
「イレーネ様って、昔から少し変わった方ですものね」
「変わっている?」
「だって、船に乗ったり、軍のお仕事をしたり。そんなこと、わざわざ自分でする必要なんてないでしょう?」
アンナは少し困ったように笑い、今度はティーカップへ手を伸ばした。
「ソフィアお姉様もそうですけれど、どうしてあんなにお仕事ばかりなさるのかしら。軍のお仕事なんて、殿方にお任せすればいいでしょう?」
アンナは不思議そうに首を傾げた。
「私、淑女というのは、綺麗に着飾って、社交を楽しんで、殿方を支えるものだと思うんです。危ないことや難しいことに、わざわざ首を突っ込むなんて、少しはしたない気がしますわ」
そして、困ったように微笑んだ。
「イレーネ様もソフィアお姉様も、せっかくお綺麗なのに。もったいないです」
その言葉には、嫌味も悪意もなかった。むしろ、自分にとってあまりにも当然のことを話しているだけなのだろう。綺麗に着飾り、穏やかに笑い、周囲から大切にされて暮らす。それ以外の生き方を、わざわざ自分から選ぶ理由が、アンナには本気で分からないらしい。それは伝統的な「守られるべき淑女」の姿そのものであり、アレクシオスが理想とする貴族社会の秩序そのものでもあった。
可憐な仕草で小首をかしげながら話すアンナを眺めながら、アレクシオスは自然と表情を和らげた。
やはり、アンナはいい。妙に難しい理屈を並べたり、こちらの言葉尻を捉えて反論したりせず、自分が感じたことを素直に口にしてくれる。
少なくとも、何かにつけてこちらへ意見し、ときには真正面から考えを否定してきた誰かとは違う。国家の防衛を、海軍の未来を対等に論じようとしてきたイレーネの姿が、アレクシオスにとっては歪んだ不遜さにしか見えなかった。
そして、そんなアンナにも同じように見えるのなら。昨日の自分の判断は、イレーネへの感情に引かれたものではなかったのだろう。自分だけが悪意を読み取ったわけではない。何も事情を知らないアンナでさえ、同じように感じたのだ。
アンナの言葉を聞いていると、胸の奥に残っていたごくわずかな迷いが、静かに薄れていった。
タラシア家が意図的に人を動かしている。その結果、王都が困っている。ならば、その意図を疑い、調査を命じたことは間違っていない。むしろ、王太子として当然の判断だった。昨日の会議を何も知らないアンナが、自分と同じ結論にたどり着いた。それだけで、アレクシオスには十分だった。もはや自分の判断を疑う理由など、どこにもなかった。
「殿下」
「ん?」
「そんな難しいお話は、もういいです」
先ほどまで海軍やタラシア家について話していたことなど、もうすっかり興味を失ったかのように、アンナがぱっと明るい声へ戻った。
「今度、南通りのお店に新しい髪飾りが入るそうなんです」
「髪飾り?」
「ええ。真珠を使った、とても可愛らしいものらしくて。侍女が教えてくれました」
そう言いながら、アンナは自分の柔らかな髪へそっと指先を触れ、楽しそうに微笑んだ。
「きっと、私に似合うと思いません?」
「まだ見てもいないだろう」
「でも、きっと似合いますわ」
何の疑いもなく、自信たっぷりに言い切る。そのあまりに無邪気な様子に、アレクシオスは思わず小さく笑った。この平穏を守ることこそが、自分の義務なのだとさえ思えてくる。
「分かった。好きなものを選べ」
「本当ですか?」
アンナの表情が、花が開くように明るくなる。
「ありがとうございます、殿下」
嬉しそうに笑うその姿を眺めながら、アレクシオスは改めて思った。
――やはり、アンナはいい。
素直で、愛らしく、自分の隣で楽しそうに笑っている。余計なことを言わず、難しい理屈を振りかざすこともない。それに、彼女でさえイレーネの行動を意趣返しだと考えたのだ。ならば、昨日の自分の判断は、やはり間違っていなかった。
アレクシオスはすっかり晴れやかな気分になり、アンナのためにもう一つ焼き菓子を皿へ取ってやった。
窓から差し込む午後の陽射しは、まだ明るい。その穏やかな光の中で、二人は他愛もない話を続けていた。
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