第69話 アレクシオスの誤算
タラシア家が王都から撤退を始めて、四週間近くが過ぎていた。
西日に炙られた王太子執務室の重厚な机には、海軍省と財務省から持ち込まれた報告書が何冊も積み上げられ、その白い紙面まで夕映えに赤く染まっていた。窓から流れ込む空気は、閉塞感と相まってどこか息苦しい熱を帯びていた。
机の正面には海軍大臣、その隣には財務大臣フィリッポスが座り、少し離れた壁際には近衛のグレゴリが彫像のように静かに控えていた。
陸軍大臣の姿はない。
このところ陸軍は、アレクシオスが進める軍備拡張によって予算も人員も大幅に増え、新たな部隊編成から装備の調達まで、いくつもの案件が同時に動き始めている。長らく予算不足に悩まされてきた反動もあるのだろう。陸軍大臣は、このところ実に嬉々として仕事に励んでいた。その活気溢れる陸軍の動向はアレクシオスにとって満足のいく成果であったが、それだけに、今この部屋に漂う沈滞した空気が余計に際立っていた。
今日、アレクシオスの前に並んでいるのは、海軍から上がってきた芳しくない報告ばかりだった。
「海運局は、かなり抜けたということか」
手元の報告書からゆっくりと顔を上げたアレクシオスに、海軍大臣が重々しく頷く。その表情には、ある種の焦燥が滲んでいた。
「はい。もともと海運局は、タラシア領出身者や、タラシア家の伝手で入った者が多い部署でした。そもそも王国海軍の創設時、当時の王がタラシア家と交わした約束による側面もあります。今回の撤退を機に、帰郷を願い出た者が相当数おります」
「どのくらいだ」
「部署によって差はありますが、海運局では半数を超えた部署もあります。中にはほとんどが辞職を申し出たところさえあります。特に配船、港湾実務、補給関係への影響が大きいかと」
アレクシオスはわずかに眉を寄せながら、次の頁をめくった。紙が擦れる乾いた音が、静まり返った室内に小さく響く。
「工廠は?」
「そちらも似たような状況です。海軍工廠は、もともと半数以上がタラシア家と縁のある職人や技術者でした」
「半数より多いのか」
アレクシオスは思わず声を低めた。王家が完全に掌握している陸軍と違い、海軍の根幹となる王都の本部が、それほどまでにある一族の息がかかった者たちで占められていたという事実に、背筋が寒くなるような感覚を覚えたのだ。
「厳密には部署ごとに違います。ただ、船大工や機械加工、砲架、索具関係など、一部の職種ではかなり偏っています」
海軍大臣は一度言葉を切り、手元の資料を確かめてから続けた。
「もっとも、全員が一斉に辞めたわけではありません。数日おきに一人、二人と退職願が出ております。理由も帰郷、家庭の事情、家業を継ぐ、民間への転職とばらばらで、中には体調を理由にした者もおります」
「それだけ聞けば、普通の退職にも見えるな」
「一件ずつなら、その通りです」
その返答に、頁をめくろうとしていたアレクシオスの指が止まった。
「一件ずつなら?」
「抜けている人間の顔ぶれが、少々気になります」
海軍大臣から差し出された別の資料を受け取り、アレクシオスは並んだ名前と経歴に目を走らせた。目立つ高官ばかりではない。むしろ、中堅や現場の人間が多い。
しかし、その経歴を丁寧に追えば、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。経験年数が長く、複数の部署を知り、若手の指導を任され、何か問題が起きた時には現場で判断を下せる。肩書きだけを見れば派手ではないが、実務を回すうえでは欠かせない者ばかりだった。
「……ずいぶん、使える人間ばかりだな」
「はい」
海軍大臣の声にも、隠しきれない苦さが滲んだ。
「単純に人数だけを見れば、まだ海軍そのものが立ち行かなくなるほどではありません。ただ、抜けている者に熟練者が多い。若い者を補充すれば済む、という話ではありません」
アレクシオスはしばらく資料を眺めたあと、無言のまま机へ戻した。
偶然という言葉で片づけるには、少し出来すぎている。目立たないように、それでいて確実に、必要な人間だけが抜けていく。その選ばれ方には、誰かの意思を感じざるを得なかった。
「海軍全体では?」
「海運局や工廠ほどではありません。ただ、他部署でも退役願が続いております。こちらも一斉ではなく、数日おきに、ぱらぱらと出ているという状況です」
「理由は?」
「やはり様々ですが、多くがアルカディアと縁があるものでして……」
海軍大臣が、どこか諦めたように返答する。その声は尻すぼみするように小さくなっていく。
「家庭の事情というのは、実に便利な言葉でして」
アレクシオスはそれには答えず、次の資料へ手を伸ばした。胸の奥で、静かな不快感がじわじわと広がり始めた。
その時、それまで静かに聞いていたフィリッポスが口を開いた。
「殿下。海軍だけではありません」
「民間でもか」
「はい。特に海運関係で、よく似た動きが出ております」
フィリッポスは整理された資料を机の上へ広げた。その動きは無駄がなく、淡々と書かれた数字の現実を突きつけてくる。
「船長、航海士、配船担当、港湾実務、それに外国商人との取引を担当していた者。タラシア家と縁の深い商会を中心に、王都を離れる人間が目立っております」
「それも帰郷か?」
「帰郷する者もおりますが、すべてではありません。別の港へ移る者もいれば、独立して商売を始める者もいる。ですから、タラシア家が全員を直接連れて帰っているわけではないようです」
「ならば、単にアルカディア系の人間が、家に合わせて王都を離れているだけとも考えられるな」
「私も最初はそう考えました。ただし、専門分野によっては少し事情が違います」
「専門分野?」
「測量、海図作成、航路調査、製図です。このあたりは、かなりまとまって人が抜けています」
アレクシオスがわずかに身を起こした。その瞳に、鋭い警戒の光が宿る。
「まとまって?」
「はい。もともとタラシア家の影響が強い分野ですから、帰郷そのものは不自然ではありません。ただ、それにしても時期が重なりすぎております」
フィリッポスが言葉を終えると、執務室には束の間、重い沈黙が落ちた。夕日の赤が一段と深まり、影が長く伸びていく。
海軍大臣もフィリッポスも、自分たちから決定的な結論を口にしようとはしない。それが王太子であるアレクシオス自身の判断を仰ぐための沈黙であり、同時にタラシア家という大貴族を相手にする重圧ゆえであることを、アレクシオスは察していた。
アレクシオスは、机いっぱいに広げられた報告書をゆっくりと見渡した。
海軍だけではない。工廠から民間海運、商会、さらに測量や海図作成といった専門分野にまで、ここ四週間のうちに人の流出が重なっている。一つ一つを拾っていけば、それぞれにもっともらしい理由をつけることはできるだろう。しかし、すべてを偶然で片づけるには、さすがに無理があった。
「……偶然ではないな」
アレクシオスが静かに言うと、海軍大臣もゆっくりと頷いた。
「私も、そう考えております」
アレクシオスは机の上の報告書へ視線を落としたまま、低く続けた。
「タラシア家が意図的に人を引き揚げている……か」
誰も否定しなかった。
そこまでは、ほぼ間違いない。
アレクシオスは深く椅子の背へ身を預け、しばらく黙って考え込んだ。
婚約破棄以来、タラシア家は王都からの撤退を急速に進めている。屋敷を畳み、人を引き揚げ、取引を整理し、海軍からも徐々に距離を置き始めた。そして今度は、海軍や海運を支えてきた人材まで、王都から消え始めている。
王都を出て、領地にでも戻ればいいと言ったのは、確かに自分だ。だが、ここまで急速に、しかも王都の機能そのものに影響が出るほどの動きになるとは思っていなかった。
――一体、何が起きている。
そこまで考えた時、アレクシオスの脳裏に、鮮やかな赤い髪が浮かんだ。
――最後まで自分に屈しようとしなかった女。
婚約を破棄されても泣きもせず、縋りもせず、ただ冷ややかな琥珀色の瞳でこちらを見ていた女。あの凛とした、しかし王家に対する傲慢とも取れる立ち振る舞いが、現在の王都の混乱と重なり合う。思い出すたびに、胸の奥には、今もわずかな苛立ちが残る。
自分たちを捨てた王都が少しずつ困っていくのを、わざと見せつけようとしているのではないか。あるいは、王家に対する遠回しな意趣返しなのか。
そう考えれば、目の前で起きていることにも一応の筋は通る。その考えの底には、王太子である自分を軽んじられたという、わずかな私憤が確かに滲んでいた。
アレクシオスは、それが自分の感情にわずかに引かれた解釈だとは思わなかった。実際に人は抜け、海軍や海運の一部では、すでに機能の低下が見え始めている。そして、その動きの中心にタラシア家がいることも、ほぼ疑いようがない。
「王都に損害を与えるつもりか」
低く漏らした言葉に、海軍大臣がわずかに眉を動かした。
「可能性は否定できません」
海軍大臣の傍らに立つフィリッポスも、やや苛立ちを滲ませつつ、言葉を選びながら続けた。
「少なくとも、結果として王都側に負担が生じていることは事実です」
「結果として、か」
アレクシオスは鼻で笑うと、その言葉をゆっくり繰り返した。ほんのわずかに、不満そうな響きが混じる。
「海軍については、どう見る」
海軍大臣はすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「もし、タラシア家が現役の海軍関係者へ組織的に退役を勧めているのであれば、問題になります」
「離反教唆か」
「そこまで断定するには証拠がありません。ただ、海軍機能へ意図的に影響を与える目的があったのであれば、調査する必要はあるでしょう」
アレクシオスが小さく頷くと、今度はフィリッポスが口を開いた。
「資産の方も、一度確認した方がよろしいかもしれません」
「資産?」
「タラシア家が王都から搬出している物資です」
フィリッポスはあくまで慎重な口調を崩さなかった。
「屋敷の家財や商会の私有物であれば何の問題もありません。しかし、長年タラシア家は海軍や港湾整備に深く関わってきました。王国の予算や権益によって取得された物資、設備、資料などが、私有物と混在していないとは言い切れません」
「王国のものまで持ち出している可能性があると?」
「断定は出来ません。あくまで可能性の確認です」
フィリッポスは即座に補足した。
「ただし、現時点で不正な搬出があったという報告は受けておりません」
アレクシオスは黙ったまま、机の表面を人差し指で軽く叩いた。
ゆっくり、一度。
少し間を置いて、もう一度。
調べれば、何か出るかもしれない。いや、これだけ広い範囲で不自然な動きが続いているのだ。何もない方が、むしろおかしいのではないか。
「調べろ」
低い声に、海軍大臣とフィリッポスが揃って顔を上げた。
「これだけのことが起きている。調べれば何か出るだろう」
その言葉が落ちると、静かだった部屋の空気が、ごくわずかに変わった。張り詰めていた緊張が、一つの方向性を持って動き出したかのような、不穏な熱が満ちる。海軍大臣は小さく頷き、フィリッポスは一瞬だけ視線を伏せる。
アレクシオス自身は、あくまで事実を確認するためにそう言ったつもりだった。だが、その言葉にはすでに一つの前提が混じり始めている。
何か罪があるのかを調べるのではなく、何か罪があるはずだから、それを探す。まだ、その違いはごく小さなものだった。しかし、その一歩が取り返しのつかない歪みを生む可能性に、アレクシオスは思い至っていない。
「グレゴリ」
それまで壁際で静かに控えていた近衛隊長へ、アレクシオスが声をかけた。
「王都の治安を預かる近衛として、どう見る?」
呼ばれたグレゴリは姿勢を正し、一歩だけ前へ出た。その足音には迷いはない。
「人の流出そのものは、こちらでも把握しております」
「治安への影響は?」
「現時点では、目立った騒乱や犯罪の増加は確認しておりません。商店や工房の閉鎖による小さな混乱はありますが、近衛が対応するほどのものではありません」
「そうか。傷が広がらないうちに、あの者を呼び出して詰問せねばなるまい。特に海軍の件は放置できん。海軍大臣、頼めるか?」
アレクシオスが海軍大臣に目配せすると、大臣は待ってましたとばかりに首肯した。
「お任せください、殿下。即刻、かの者の首根っこをひっ捕まえて、殿下の御前へ連れて参りましょう」
「殿下――」
そこでグレゴリはわずかに間を置き、慎重に言葉を選んだ。
「――イレーネ殿へ事情を聞くのであれば、一点だけ確認させていただきたいことがございます」
アレクシオスが視線を向ける。
「何だ」
「今回の召喚は、あくまで事情を聞くためのもの、と理解してよろしいでしょうか」
その問いに、海軍大臣がわずかにグレゴリを睨む。その視線には官僚特有の警戒心が滲む。
アレクシオスも一瞬だけ黙ったが、すぐに頷く。
「無論、そのつもりだ」
「承知しました」
グレゴリは恭しく頭を下げたものの、それだけでは終わらなかった。
「現時点でイレーネ殿は罪人ではありません。殿下との間にいささかの事情があるにせよ、儀礼に則って召喚されるのが良いと存じます。くれぐれも強引な手段は慎まれるべきかと」
その言葉を聞いて、今度は海軍大臣が、わずかに眉を寄せた。
「グレゴリ殿。それは殿下とて承知しておられる。それともなにか。我々には任せられぬとでも言いたいのかね」
「いいえ、あくまで念のため確認をしたまでです」
「ふん。嫌疑そのものは海軍に関わるものだ。現役の士官や職員への働きかけがあったかどうかを調べるのであれば、海軍憲兵隊の管轄だ。それにグレゴリ殿も聞いておったろう。殿下がお声を掛けられたのは、私だ」
「それはもちろん、承知しております。されど、イレーネ殿はすでに退役しておりますゆえ」
グレゴリは表情を崩さず、淡々と返した。その物言いからは、私情を挟まず法と規則に忠実であろうとする矜持がうかがえた。
「現在は貴族のご令嬢とはいえ、軍人ではなく民間人です。本人の登城を求めるのであれば、近衛あるいは王都の司法機関を通す方が筋ではないかと」
「なにも、身柄を拘束すると決まったわけではない」
「ですから、今のうちに確認しております」
海軍大臣の顔に、強い不快感が浮かぶ。
フィリッポスは口を挟まず、二人のやり取りを静かに見守っていた。内心は、出しゃばってきたグレゴリに対し、「余計なことを」と不快感はあったが、それを口に出すほど愚かでもない。
アレクシオスは短く息を吐くと、そこで議論を切った。
「分かった。とにかく今回は海軍に任せる。グレゴリも納得はできぬかも知れぬが、ここは一旦引け」
グレゴリの表情は変わらず無表情のままだ。
アレクシオスは海軍大臣へまっすぐ視線を向けた。
「まずは話を聞け。それ以上のことは、まだするな。よいな」
「承知いたしました」
海軍大臣が深く頭を下げた。
フィリッポスは、アレクシオスが結局はこちらを立ててくれたことに、わずかにほくそ笑む。
グレゴリだけが、ほんの一瞬だけ何かを考えるように沈黙したあと、
「……御意のままに」
と静かに答え、恭しく一礼した後、一歩下がった。
やがて、アレクシオスが解散の意を示すと、三人はそれぞれ部屋を出て行った。
アレクシオスにとっては、あくまで事実を確認するための調査だった。まだ誰かを罪人と決めつけたつもりはなく、ましてやイレーネを拘束しろと命じた覚えもない。しかし、海軍大臣とフィリッポスがこの部屋から持ち帰ったものは、単なる調査命令だけではなかった。
王太子殿下は、タラシア家を強く疑っている。
調べれば何か出ると考えている。
その認識だけは、言葉にされないまま、確かに共有されていた。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。
中々、増えません。なにとぞ、いくつでも構いません、星をつけてくださるとありがたいです。




