第68話 父はお見通し
その日の夕方、レオンは外務省へ戻ると、父ダミアンの執務室を訪れた。
夕闇が迫る時間帯、廊下にはまばらな足音だけが響いている。重厚なオーク材の扉の前に立ち、レオンは一つ深く息を吐き出して、胸の鼓動を落ち着かせた。ノックをして部屋に足を踏み入れる。
外務大臣ともなれば一日の終わりが早いはずもなく、机の上にはまだ何冊もの分厚い書類が積まれている。室内には、古い紙とインクの匂い、そして長年この部屋で国政が動かされてきたという独特の圧迫感が満ちていた。
ダミアンはその一冊に目を通しながら、息子が入ってきてもすぐには顔を上げなかった。ペンが滑るかすかな音だけが、室内の静寂を刻んでいる。
「父上。少し、お話があります」
「なんだ」
机越しに目の前に立つレオンを一瞥し、返事が返ってくる。視線はすぐに紙面に戻るが、その声の低さはいつもと変わらない。
レオンは父の机の前まで進んだ。一歩進むごとに、自らの決意が足元から固まっていくような感覚を覚える。
何から話すべきかと一瞬考える。
外務を辞めたいこと。
王都を離れるつもりであること。
その理由。
順序立てて話さなければならない。自分の甘さを指摘されないよう、論理的に、筋道を通して。
「実は――」
「イレーネ嬢のところへ行くのか?」
レオンの口が止まった。心臓が跳ね、言葉が喉の奥で凍りつく。
ダミアンはまだ書類を見たままだ。その手元は微塵も揺れていない。
「……まだ何も言ってませんけど」
「そうだな」
「じゃあ、どうして分かったんです?」
「分からない方がおかしいだろう」
ようやく父が顔を上げた。
長年、外国の大使や王侯貴族を相手にしてきた男の顔には、驚きも困惑もなかった。ただ、すべてを見通すような鋭い眼光が、まっすぐにレオンを射抜いた。
「いつ言い出すのかと思っていた」
「いつからです?」
「さて」
「父上」
「少なくとも、お前が自分で気づくよりは前だろうな」
何に気づくのか。自分がまだ気づいていない何かがあるのか、それとも――
聞き返そうとして、レオンはやめた。どうせまともには答えず煙に巻かれるだけだ。子供の頃から父は、問題点を指摘はするが、核心の部分は何一つ教えてくれない。ただ一言「自分で考えろ」だった。
「……そんなに分かりやすかったですか」
「お前が思っているほど、分かりにくくはない」
「それ、答えになってませんよ」
「充分だろう」
ダミアンはわずかに口元を緩め、手にしていた書類を机へ置いた。バサリ、という紙の音が、父子の対談に切り替わる合図かのようだった。
「それで、外務を辞めたいという話か」
レオンは気持ちを切り替えた。まっすぐに父の視線を受け止める。
「はい」
「イレーネ嬢に誘われたのか?」
「いえ」
「違うのか?」
「自分から行くと言いました」
「なるほど。ミハイル殿への紹介状くらいは書いてやる」
ダミアンは一度だけ頷いた。その反応が先ほどのイレーネと同じく、あまりにも淡々としているので、レオンの方が戸惑った。もっと、ちゃんとした反応、例えば叱責や説教が降ってくるものと身構えていたからだ。
「止めないんですか?」
「止めてほしいのか?」
「そういうわけではありませんけど」
「なら問題ない」
「いや、問題はあるでしょう。俺はあなたの下で働いてるんですよ」
「だから、正式に退職手続きをしろ。引き継ぎも済ませろ。放り出して行くのは許さん」
そこには、組織の長として筋を通す外務大臣の顔があった。
「もちろん、そのつもりです」
「なら、それ以上私が何を言う必要がある?」
ダミアンは椅子の背へ身体を預けた。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
「お前が外務に残るなら、それはそれでよかった。経験を積ませ、いずれ私の後を任せることも考えていた」
レオンは黙って聞いた。
「だが、それは私が考えていたお前の将来であって、お前自身が選んだ将来ではない。別の道を選ぶというなら、それも構わん」
「随分あっさりしてますね」
「二十三にもなった息子の人生まで、父親が決めるつもりはない」
その言葉を聞いて、レオンは昼間のイレーネとの会話を思い出した。
――それを決めるのは君じゃない。
自分で言ったばかりだった。
どうやら父も、同じ考えらしい。知らず知らずのうちに、自分はこの偉大な父親の背中を見て、同じ哲学を学んでいたのだと気づかされる。
「ただし――」
ダミアンの声が少し低くなる。
「自分で選んだ以上、後になって誰かのせいにはするな」
「しませんよ」
「ならいい」
話は終わったらしい。ダミアンは再び書類を手に取った。あまりにも呆気なくて、レオンはその場から動けなかった。
「……それだけですか?」
「まだ何かあるのか?」
「いえ。ただ、もう少し驚くかと思ってました」
ダミアンは書類から目を離さないまま、次の頁をめくった。まるで、息子が人生を変える話を持ち込んできたことすら、予定のうちだったかのようだった。
「だから、いつ言い出すのかと思っていたと言っただろう」
「そんなに前からですか」
今度こそレオンは、書類に目を落としたままの父をじっと見た。
「レオン」
「はい?」
「私は外務大臣だぞ」
再びダミアンが顔を上げた。その表情には、どこか息子をからかうような、父親としての不敵な笑みが浮かんでいた。
「海千山千の連中が、何を考えているのか読みながら仕事をしてきた。二十年以上見ている息子一人、分からないと思うか?」
レオンはしばらく何も言えなかった。完敗だった。父の器の大きさには、まだ到底及びそうにない。しかし、そのことが今は不思議と心地よかった。
「……参りました」
「そうか」
ダミアンは満足そうでもなく、ただ当然のこととして頷く。そしてまた、ペンを動かし始めた。レオンが扉へ向かうと、背後からもう一度声が飛んできた。
「それと」
扉のノブを握ったまま、振り返り父を見る。
「イレーネ嬢のところへ行くなら、役に立ってこい」
冗談のない声だった。それは父なりのレオンへの激励だろう。レオンも真面目に頷いた。
「そのつもりです」
執務室を出て扉を閉めたあと、廊下で一度だけ立ち止まる。静まり返った廊下で、深く息を吐き出す。胸の奥に残っていた迷いは、もうなかった。
イレーネには、自分で来いと言われた。
父には、自分で選べと言われた。
だったら、あとは本当に自分でやるだけだった。
まずは残っている仕事を片づけ、引き継ぎをまとめ、正式に外務を辞める。
それが終わったら、アルカディアへ向かう。
誰かに連れていってもらうつもりはない。
レオンは再び歩き出した。その足取りは、部屋に入る前とは比べものにならないほど確かだった。
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