第67話 俺も混ぜろ
タラシア邸へ着いた時、屋敷の前には二台の荷馬車が停まっていた。
玄関からは使用人たちが木箱を運び出し、別の場所では家具に布を掛けている。庭の一角にも荷物がまとめられ、長く王都に置かれていた屋敷が、本当に空になろうとしているのが一目で分かった。
先触れもほとんどなしに訪れたレオンを、出迎えた使用人は少し驚いたようだった。
「イレーネはいる?」
「お嬢様でしたら、ちょうど戻られたところですが……」
「会いたい。少しでいい」
ほどなくして、イレーネが姿を見せた。
「……レオン?」
彼女も少し驚いていた。
「どうしたの? 何かあった?」
「少し、二人で話したい」
イレーネは怪訝そうな顔をしながらも、レオンを屋敷の裏手にある中庭へ案内した。
そこも撤退準備の最中だった。壁際には木箱が積まれ、使用人が何人か出入りしている。遠くでは荷馬車の車輪が石畳を踏む音も聞こえていた。
レオンは改めて、その光景を眺めた。
つい先ほどまで、外務省の執務室では、今度こそ乗り遅れないと確かに決意していた。ところが、こうして荷物の減った屋敷を実際に目の前にすると、その言葉が急に現実味を帯びる。
本当に、イレーネは王都を去るのだ。その事実が、レオンの胸をちりちりと焦らせた。
「本当に行くんだな」
「何を今さら」
イレーネは少し呆れたように答えた。
「だからずっと荷造りしてるんでしょう?」
「それは、そうなんだけどな……」
「それで?」
「ん?」
「二人で話したいって言ったの、あなたでしょう」
早くも本題を促された。
レオンは一度口を開きかけ、結局何も言えずに閉じた。
執務室を出た時には、言いたいことは決まっていたはずだった。イレーネが何を始めようとしているのか聞く。そして、自分もそこへ加えろと言う。それだけのことである。王都からここまでくる間にも、頭の中では何度も言葉を組み立てていた。
ところが、本人を前にした途端、それが妙に口から出てこない。さっきまで頭の中では何度も言えていたはずなのに、その真っ直ぐな琥珀色の瞳に見つめられると、胸の奥が落ち着かなくなり、喉のあたりまで出かかった言葉が急に行き場を失った。
「いや……その……」
「何?」
イレーネが首を傾げた。
ここで言えばいい。俺も混ぜろ。たったそれだけだ。
レオンは自分に言い聞かせたのだが、実際に口から出てきたのは、まるで別の言葉だった。
「いろいろ、やってるそうじゃないか」
言った瞬間、レオンは自分でも嫌になった。
何を遠回しなところから始めているんだ、俺は。
イレーネの目がわずかに細くなる。
「いろいろ?」
「ティアとマクシム。二人とも軍を辞めた」
「そうね」
あっさり認めた。予想していた返事ではある。だが、あまりにも平然としているので、レオンの方が少し拍子抜けした。
「海運局でもアルカディア出身者がずいぶん抜けてる。工廠でもタラシアと縁のある人間が辞め始めた。それに、ルシウスも、このところずっと君の近くをうろついてる」
「本人が聞いたら怒るわよ。うろついてるなんて」
「今はルシウスの気持ちはどうでもいい」
「ひどいわね」
イレーネは少しだけ笑ったが、レオンは構わず続けた。
ここまで来れば、いつもの調子を取り戻せる。事実を並べ、その間にある繋がりを探し、相手の反応を見る。外務の仕事で何度も繰り返してきたことだ。これなら、自分の土俵で話ができる。
問題は、その先だった。
「それから、旧第二練習艦隊の旗艦」
そこで初めて、イレーネの表情が少し変わった。
ほんのわずかな変化だったが、レオンは見逃さなかった。
「東部基地への回航命令が出てるね」
「……外務って、そんなことまで見るの?」
「大型艦の出入りは外交使節の船と重なることもあるからな。予定くらいは回ってくる」
レオンは彼女の顔を見ながら、ここまで集めた情報を一つずつ並べ直していく。
「一つずつなら、全部説明はつく。双子が同時に辞めたのも、海運局の連中が故郷へ帰るのも、ルシウスが君と会ってるのも、所属が決まらなかった船を東へ送るのも」
イレーネは黙って聞いている。
「でも、全部同じ時期に起きると、さすがに偶然とは思えない」
「それで?」
「君だろ?」
少し間があった。やがてイレーネは、小さく笑った。
「よく見てるわね」
否定しなかった。それだけで十分だった。
やはり、間違っていなかった。イレーネは何かを始めようとしている。それも、レオンが思っていた以上に大きな何かを。
ここまではいい。ここまでは、ちゃんと言えた。
なら、あとは一言でいい。俺も混ぜろ。
「ソフィアにも何か話した?」
また違うことを聞いていた。
レオンは心の中で盛大に頭を抱えた。
「どうしてそう思うの?」
「君が何か始めるのに、ソフィアへ何も言わない方が不自然だから」
「なるほど」
「で」
そこで、また言葉が止まった。
今度こそ言え。そう思っているのに、口が動かない。
イレーネは黙って待っている。レオンも黙っている。
中庭の向こうでは使用人が木箱を運び、荷馬車の車輪が石畳を擦る音が聞こえていた。時間だけが妙にゆっくり流れていく。
とうとうイレーネが呆れたように息を吐いた。
「レオン。私、かなり忙しいんだけど」
周囲を見れば、それは疑いようもない。
荷物は積み上がり、屋敷は半分引っ越しの最中である。
ここまで来て、何も言わずに帰れるはずがなかった。
レオンは観念した。もう、格好をつけるのはお終いだ。
「……俺にも声くらいかけろよ」
「……え?」
今度はイレーネが完全に固まった。
その反応を見た途端、さっきまで言えずにいたものが、今度は堰を切ったように口から出てきた。
「ソフィアには話してる。ティアとマクシムにも声をかけた。ルシウスとは何かやってる。海軍の人間まで動かしてる」
「ちょっと待って。海軍の人間まで、って決めつけてない?」
「そこは今どうでもいい」
「よくないと思うけど」
「なのに俺には何もない」
言葉にしてしまうと、それまで胸の奥に溜め込んでいたものが急に形を持ち始めた。
最初はただ妙だと思っていただけだった。けれど、ソフィアにも、双子にも、ルシウスにも話が回っていると考えれば考えるほど、自分だけがその輪の外に置かれていることが腹立たしくなってくる。
「手紙もない。伝言もない。相談もない。気づいたら君の家はほとんど空で、本人までいついなくなるか分からない」
イレーネは何度か瞬きをした。
そこでようやく、レオンが何を言いたいのか理解したらしい。
「……アルカディアに来たいの?」
「違う」
そこだけは迷わず即答した。イレーネが首を傾げる。
自分でも、口にしてから分かった。
アルカディアへ行きたいわけではない。王都を捨てたいわけでも、外務の仕事が嫌になったわけでもない。では、自分は何を求めてここまで来たのか。
八年前、アルカディアの港で、風を受けながら笑っていた少女の姿が脳裏をよぎった。あの時、自分は思ったのだ。この少女が次に何をするのか見てみたい、と。
けれど、もう見ているだけでは足りなかった。
「アルカディアへ行きたいわけじゃない」
「じゃあ何?」
レオンは一度息を吐いた。今度は逃げずに、イレーネをまっすぐ見た。
「君と一緒に何かやりたい」
今度はイレーネが黙った。その大きな目が今までにないくらい丸く大きく開いている。
レオンは続けた。
「君がこれから何を始めるつもりなのか、俺は知らない。王都を出たあと、アルカディアで何をするのかも分からない。でも、何かやるんだろ?」
「まあ……何もしないつもりではないわね」
「だったら、俺も混ぜろ」
言ってしまうと、不思議なくらいすっきりした。八年前からずっと、自分が求めていたものは、おそらくこれだった。遠くから見ていたいのではない。何をするのか知りたいだけでもない。
「見てるだけじゃなくて、一緒にやりたいんだ。俺にできることがあるなら、やらせてくれ」
そこまで言ったところで、ほんの少しだけ躊躇した。次の言葉だけは、さっきまでとは別の意味で口にしづらかった。それでも、ここまで来て止める方がよほど格好悪い。
「……君を支えたい」
イレーネは何も答えなかった。
いつもなら何かしらすぐに返してくる彼女が、ただレオンを見つめている。わずかに開いた唇が一度動いたが、言葉にはならなかった。
やがて、イレーネは少し困ったように言った。
「……考えなかったわけじゃないわ」
「何を?」
「あなたを誘うこと」
レオンは思わず彼女を見る。
「じゃあ、何で――」
「だって、あなた関係ないでしょう?」
あまりにもあっさり言われて、今度はレオンが黙った。一瞬、本当に何を言われたのか理解できなかった。
「今回のことは、私と王太子殿下の婚約破棄から始まった話よ。タラシア家が王都から出ることになって、私も海軍を辞めさせられた。でも、あなたは違う」
イレーネは、いつになく真面目な口調で続けた。
「外務で順調に経験を積んでる。ダミアン様の後を継ぐことだってできるでしょうし、あなたなら、いずれ外務大臣になってもおかしくない」
「それは分からないだろ」
「可能性の話よ」
イレーネは少し言葉を選んだ。
「この先、どこまで事が大きくなるのか、自分でもまだ分からないの。でも、最悪のケースまで考えておかないわけにはいかないわ。だから、私の事情であなたまで巻き込みたくなかった」
レオンは、しばらく彼女を見た。
ようやく意味が分かった。誘われなかったのは、自分が必要とされていなかったからではない。むしろ逆だった。イレーネは、レオンに今の道を捨てさせることを躊躇していたのだ。イレーネなりに、レオンの積み上げてきた未来を守ろうとしてくれていた。
それが分かった途端、さっきまでの腹立たしさが妙な方向へ変わった。少し嬉しいような、しかしそれを素直に喜ぶのも違うような、何とも形容しづらい感情だった。だが、同時に、温かい気持ちが体の芯から湧き上がってくる。
しかし、それでも納得する気にもならなかった。
「それを決めるのは君じゃない」
イレーネがはっとして顔を上げる。何か言い返しかけて、けれどレオンの表情を見て、そのまま口を閉じる。
「外務に残るか、父の後を継ぐか、君と一緒に行くか。それを決めるのは俺だ」
「でも」
「俺が自分で決める」
レオンは今度こそ迷わず言い切った。
「君が何かするなら、一緒にやりたい。それだけだ」
イレーネはしばらくレオンを見つめていたが、やがてふっと視線を逸らした。
その琥珀色の瞳が何を考えているのか、今度ばかりはレオンにも読み取れなかった。
「そう」
とだけ答えた。あまりにもあっさりしていた。素っ気ないとでも言えた。レオンとしては、もう少し何かあると思っていた。ここまで言ったのだ。少なくとも「じゃあ一緒に行きましょう」くらいは言うのではないかと、心のどこかで期待していた。
ところがイレーネは、ふっといつもの調子に戻ると、わずかに口元を緩めた。
「じゃあ、自分で来てね」
「……は?」
さっきまでの真剣な空気が、一瞬でどこかへ消え、少しだけ意地の悪い響きがあった。
「あなた、逃げる必要ないでしょう?」
レオンは意味が分からず、彼女を見る。イレーネは平然としている。
「なら、自分でちゃんと外務を辞めて。ダミアン様にも自分で話して。家のこともあるでしょうから、それもきちんと整理して」
「いや、ちょっと待って」
「自分で決めるって言ったじゃない」
確かに言った。ほんの少し前に、かなり格好よく言ったつもりだった。
「それが全部終わったら、自分でアルカディアまで来ればいいでしょう?」
「俺だけ?」
「何が?」
「いや……その……」
レオンは完全に言葉に詰まった。
何かがおかしい。
ソフィアや双子や海軍の人間には、どうやらイレーネ側からいろいろ段取りをしている。それなのに、自分だけが完全に自主参加である。
だが、反論しようにもできない。
自分の人生は自分で決める。
ついさっき、自信満々に言ったのは自分なのだ。
イレーネは少し満足したように頷いた。
「じゃあ決まりね」
「決まりなのか?」
「あなたが決めたんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃ、私まだ仕事あるから」
「え?」
イレーネはもう踵を返していた。
「いや、ちょっと待て。もう少し何か――」
呼び止めようとした時には、彼女はすでに数歩先へ進んでいる。
「イレーネ」
彼女は足を止めず、片手だけを軽く上げた。
「またね、レオン」
「え、ちょっ……それだけか?」
返事はなかった。
レオンはその場に取り残されたまま、呆然と遠ざかっていく赤い髪を呆然と見送った。
中庭を抜け、レオンからもう見えなくなる直前、イレーネはほんの少しだけ俯いた。次の瞬間、堪えきれなかったように口元が綻ぶ。ほんのわずかな笑みだったが、それは先ほどまで必死に押し隠していたものが、最後にこぼれ落ちたようにも見えた。
けれど、その表情をレオンが見ることはなかった。
「……本当に自分で来いって言ったよ、あいつ」
八年前から変わっていない。人に頼るくせに、妙なところで人へ任せる。必要だと思えば自分で動き、自分で決めろと言われれば、本当にこちらへ決断を返してくる。そして、たぶん自分は、そういうところまで含めて、あの頃からずっと面白いと思っていたのだろう。
レオンは、呆れたように息を吐きながらも、どこか楽しそうに、もう誰もいなくなった中庭を見つめた。
――今度は、間に合った。
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