第66話 今度こそ、乗り遅れない
その年の秋、イレーネは王立学院へ入学した。
レオンにとっては、学院で過ごす最後の一年だった。
卒業後は外務省へ入ることがほぼ決まっており、講義のほかにも実地研修や父ダミアンから押しつけられる課題が増え、以前ほど自由な時間はなかった。
それでも広い学苑の廊下であの赤い髪を見つければ、自然と胸が弾み、自分から声をかけた。
イレーネもレオンを見つければ、アルカディアで試していた船がどうなったとか、新しい帆の張り方を試したとか、頼んでもいないのに近況を話した。まるで、自分の実験の成果を仲間に聞いてほしくてたまらない子供のようだった。
そのうち、いつもイレーネのそばにいる柔らかいブラウンの髪の少女とも顔見知りになった。ソフィアだった。
最初の頃は、話しかけても必要なことしか返さない寡黙な少女だったが、イレーネと一緒にいる時だけは表情がわずかに柔らかくなる。その違いが面白く、三人で昼食を取ることも何度かあった。イレーネの発案で、中庭の東屋で茶会のようなこともした。そのおかげもあってか、合えば挨拶や近況を話す程度には仲良くなれたと思う。
やがてレオンは学院を卒業し、外務省へ入った。
それで縁が切れるかと思えば、そうでもなかった。
タラシア家は王都にも立派な屋敷があるし、父ダミアンとタラシア家との付き合いも深い。王宮の行事や海軍関係の催しで顔を合わせることもあれば、イレーネの方から突然外務省へやってきて、外国の港について熱心に聞かれることもあった。
そうして何年かが過ぎた。
イレーネが十六歳になった頃、コンスタンティン王の意向によって、王太子アレクシオスとの婚約が決まった。その知らせを聞いた時、レオンは意外とは思わなかった。
八年前、コンスタンティンもアルカディアを訪れている。あの夏、王もまたイレーネを見ていた。港で職人たちに混じって走り回り、自分で考えた妙な船を嬉々として操る少女を、どこか面白そうに眺めていたことをレオンは覚えている。
だから、王がイレーネを高く評価していたことには納得できた。王太子妃としても、申し分ないだろう。タラシア家の娘であり、本人にも能力がある。そもそも、コンスタンティン王とタラシア家当主テミストクレスとの仲が深いことは周知のことだ。王家とタラシア家の関係をより強くするという意味でも合理的だった。
理屈の上では、何一つおかしくない。
それなのに、知らせを聞いた日は、胸の奥に冷たい泥が溜まっていくように妙に気分が沈んだ。
レオン自身にも理由が分からなかった。昔から知っている友人が婚約した。それだけのことである。まして相手は王太子だ。祝うべき話だった。
「何で俺がへこんでるんだ……」
一人になった時、思わずそんなことまで口に出てきてしまった。
考えた末、昔から知っている友人が急に遠い存在になったような気がしたのだろう、と結論づけた。少なくとも、その頃のレオンには、それ以上の答えは思いつかなかった。
そして八年後。
レオンは外務省の執務室で、再びイレーネの周りに人が集まり始めていることに気づいている。
ティアとマクシムが軍を辞めた。海軍工廠や海運局でも人が動いている。ルシウスが相変わらずイレーネの近くにいる。旧第二練習艦隊の旗艦には、妙なタイミングで東部基地への回航命令まで出た。ソフィアにも、おそらく声をかけている。
八年前と同じだった。あいつは、また何かを始めようとしている。
そう思った瞬間、胸の奥にあった苛立ちの理由が、少しだけ分かった気がした。
八年前。アルカディアの港で、自分は思った。この少女が次に何をするのか、もっと見てみたい。その気持ちは、結局一度も消えていなかった。
王太子との婚約が決まった時、妙に落ち込んだのも同じだったのかもしれない。あの時は、自分だけが盤面の一歩外へ置かれたような気がした。
そして今、また同じことが起きようとしている。
レオンは机の上に広げられた書類を見る。仕事は残っている。今日中に確認しておきたい報告もある。それでも、これを放っておけば、今度こそ本当にイレーネは王都から自分の手の届かない世界へといなくなる。
「……冗談じゃない」
書類をまとめ、机の端へ寄せた。今度こそは、乗り遅れない。
レオンは立ち上がると、ふと窓の外へ目を向けた。昼の強い陽射しは少しずつ和らぎ、王都の街並みに長い影が伸び始めている。
胸の奥に生まれた確かな決意を噛み締めながら、レオンは迷いの消えた足取りで執務室を出た。向かう先は、最初から決まっていた。
タラシア邸だ。
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