第65話 風を駆ける少女
八年前の夏。
十五歳だったレオンは、父ダミアンに半ば強引に連れ出され、アルカディアを訪れていた。ちょうどコンスタンティン王の視察が予定されており、父も外国船や交易に関わるいくつかの案件を抱えていた。
将来、外務へ進むつもりなら、王都で外国の名前や条約を覚えているだけでは足りない。アルカディアは外国船の出入りも多く、交易の現場を見るにはちょうどいい。自分の目で、人と物がどう動くのか見て覚えろ。
父にはそう言われた。
レオン自身も、悪い話ではないと思っていた。
国王に随行し、地方領主との会談や港の視察を間近で見ることができる。場合によっては、外交や政治の実際を学べるかもしれない。
そんな期待を抱いてアルカディアへ来た。
しかし、実際にやらされたのは、地味な書類運びと伝言ばかりだった。朝から父に書類を渡され、別室へ持っていく。今度は役人を呼んでこいと言われ、見つけて連れてくる。会談が始まれば部屋の隅に立ち、終われば次の予定を確認して走る。視察先では荷物の数を確認させられ、誰かがいなければ探してこいと言われた。
三日目の昼には、さすがに嫌になっていた。
「これのどこが外務の勉強なんだ……」
港近くの石段へ腰を下ろし、誰に聞かせるでもなく愚痴をこぼす。
陽射しは強かったが、海から吹いてくる風のおかげで不快ではない。目の前の港では船大工たちが声を掛け合い、少し離れた岸壁では船員たちが帆を広げて点検していた。
せっかくアルカディアまで来たのだから、もっと港を見て回りたかった。外国船の船長と話をしてみたかったし、交易品について商人の話も聞いてみたかった。それなのに、自分がやっているのは朝から人探しと書類運びばかりである。自分はただの使い走りでしかない。そう思うと、自尊心が削られるようだった。
「どうしたの?」
突然、横から声がした。
顔を上げると、赤い髪の少女が立っていた。自分より明らかに年下で、せいぜい十一、二歳くらいだろう。日に焼けた顔にはまだ幼さが残っていたが、琥珀色の瞳だけは妙に好奇心に満ちている。
「……別に」
そう答えると、少女は少し首を傾げた。
「別にって顔には見えないけど。さっきから、ずっとつまらなそうにしてるでしょう?」
「そんなに顔に出てた?」
「かなり。何か嫌なことでもあったのかなって思うくらいには」
遠慮のない返事だった。
痛いところを突かれたレオンは苦笑しながら、自分の頬を軽く撫でた。
「それは困ったな。もう少しくらい隠せてるつもりだったんだけど」
「全然隠せてないわよ。ため息もついてたし」
「そこまで見てたのか?」
「何度か近くを通ったから。ずっと同じところに座ってるし、気になったの」
どこの家の娘か知らないが、この土地の子供らしい。服装はきちんとしているので、職人の娘ではなさそうだったが、妙に人懐こい。
「勉強になるって聞いて来たんだよ」
「勉強?」
「将来、外務で働くなら現場を見てこいって父に言われてね。それで王様の視察について来たんだけど、朝から書類を運んだり、人を呼びに行ったりしてるだけだ」
少女は黙って聞いている。
「こんなの、別に僕じゃなくてもできるだろう?」
思わず、少し愚痴っぽい言い方になった。
すると少女は、慰めるでも笑うでもなく、ごく普通のことを確認するように聞いた。
「でも、それ誰かがやらないと困るんでしょう?」
「……まあ、それはそうかもしれないが」
「じゃあ、必要な仕事なんじゃない?」
レオンは頭を軽く叩かれたような衝撃をうけ、返事に詰まった。言われてみれば、その通りだった。
書類が届かなければ会談は始まらない。呼ばれた人間が来なければ予定は止まる。荷物の確認を誰もしなければ、必要なものが現地に届いていないことだってある。
自分がやりたい仕事でもなければ、華やかでもない地味なことばかりだ。だが、必要ではある。
「……君、妙なこと言うな」
「そう?」
本人には妙なことを言ったという自覚すらないらしい。
その時、港の方から少女を呼ぶ声がした。
「イレーネ! こっち手ぇ貸してくれ!」
「今行く!」
少女はそちらへ大きく手を振った。
「じゃあね」
「ああ」
走り去っていく赤い髪を見送りながら、レオンは名前だけ覚えた。
今になって思えば、随分と思い上がっていたものだと、レオンは自嘲する。執務室の椅子に身を預けたまま、幼さゆえの過ちが認めがたく、苦笑した。
成人すらしていない小僧が、父にわざわざ現場へ連れてきてもらい、仕事の端に触れさせてもらっている。それなのに、自分にはもっと重要なことをさせるべきだとでも言いたげに腐っていたのだから。
あの時の自分に今の自分が会えたなら、まず一発頭を叩いていたかもしれない。けれど、その時のレオンには、そんな簡単なことすら分かっていなかった。
窓から差し込む午後の強い光に目を細めながら、八年前のアルカディアの夏も、こんな陽射しだったなとふと思う。
イレーネ――
それが誰なのか知ったのは、少し後だった。
午後の視察で造船所へ行くと、先ほどの少女が今度は船大工たちの中に混じっていた。大きな木材を運べるほどの力はないので、小さな部材を抱えて行ったり来たりしている。作業の邪魔をしている様子はなく、職人たちも彼女がそこにいることを特別扱いしていない。むしろ、当たり前の風景として受け入れているようだった。
そのうち、少女が一枚の部材を指して聞いた。
「これ、どうしてここだけ厚いの?」
船大工が何か説明する。
イレーネはしばらく聞いていたが、途中で顔をしかめた。
「んー、よく分からないわ」
「どこがだ?」
「途中から分からなくなった。もう一回教えて」
船大工は笑いながら、今度は別の木片を持ち出して説明し始める。
知ったふりをしない。分からなければ、その場でもう一度聞く。プライドに邪魔されることなく、ただ純粋に本質を掴もうとするその姿が、自分の立場ばかり気にしていたレオンには妙に印象に残った。
少し後、別の若い職人が親方から強い声で呼びつけられた。どうやら、予定にない加工をしていたらしい。
「誰が勝手にここ削れって言った!」
若い職人が口を開くより先に、イレーネが滑り込むように間へ入った。
「それ、私が頼んだの」
親方が少女を見る。
「お嬢、また勝手なことを」
「ごめんなさい。でも、その人は私が頼んだからやっただけ。怒るなら、その人じゃなくて私にして」
「そういう問題じゃねえんだがよ……」
親方は頭を抱えたが、若い職人への怒りはもう消えていた。
レオンは少し離れた場所から、そのやり取りを眺めていた。
午前中、自分は「こんなの僕の仕事じゃない」と腐っていた。だが、あの少女は、自分がやりたいことのためなら雑用でも平気でやるし、自分が頼んだことで誰かが怒られそうになれば、当然のように前へ出る。仕事を軽んじていたレオンとは違い、彼女は、自分がやると決めたことなら、どんな小さなことでも誇りを持って引き受けていた。
それから一刻もしないうちに、レオンは正式に彼女を紹介された。
「こちらが、孫のイレーネだ」
そう言ったのは、テミストクレス・タラシアだった。
レオンは危うく聞き返しそうになった。
タラシア家。アルカディアを治め、王国海軍の発展に深く関わってきた大貴族。その当主の孫娘。
つまり、普通に考えれば、さっきの自分よりよほど「そんな仕事をしなくてもいい」立場だった。
「……令嬢だったのか」
思わず呟くと、横にいた父が怪訝そうにこちらを見た。
「何か言ったか?」
「いえ、別に」
その日の夜、寝室に戻っても、昼間の光景が頭から離れず、妙に気になってなかなか寝付けなかった。翌日から、レオンは港でイレーネの姿を見かけると、無意識にそちらを見るようになった。
そして視察も終盤に入ったある午後、レオンには生涯忘れることのできない、決定的なものを見た。
湾内を、一隻の奇妙な小舟が、水面を滑るように走っていた。
いや、一隻と呼んでいいのかも分からない。細長い船体が二つあり、それを横木でつないでいる。中央には小さな甲板が渡され、その上に一本の帆柱が立っていた。
「何だ、あれ?」
岸壁に立っていたレオンが眉を寄せて、訝し気につぶやくと、その声が聞こえたのか、近くにいたテミストクレスが鼻を鳴らした。
「孫の思いつきだ」
「イレーネ嬢の?」
「一つで安定が悪いなら、二つ繋げればいいんじゃないか、と言い出してな」
レオンはもう一度、その奇妙な船を見る。
「それで本当に作ったんですか?」
「作らされた船大工に聞け」
周りを見渡すと、少し離れたところで、船大工らしい男が苦笑していた。
レオンは彼らに近づき、船のことを恐る恐る尋ねた。
「また、あのお嬢の実験ですな」
「また、とは?」
「昔からですよ。思いつくと試したくなるんです。あの船も二週間ほど前にひょっこり工房に来て、『ちょっと、面白いこと思いついたんだけど』などと、いきなり熱弁し始めましてねえ」
船を見ているうちに、レオンはさらに驚いた。操船しているのも他ならぬイレーネだった。小さな体で舵を取り、帆を操りながら湾内を横切っていく。そして、圧倒的に速かった。普通の同じ大きさの小舟とは明らかに違う。二つの細い船体が水面を切り、風を受けた艇が白い飛沫を上げながら一気に速度を上げた。
「速い……」
思わず声が出た。
次の瞬間、艇が強い横風を受けた。片側の船体が水面からふわりと浮き上がる。
「危ない!」
レオンが肝を冷やして身を乗り出す。
だが、イレーネは慌てなかった。すぐに反対側へ身体を移し、さらに大きく外へ身を乗り出して、自分の体重で艇を押さえ込む。小さな身体が海面すれすれまで傾き、赤い髪が風に大きく流れた。
それでも彼女は笑っていた。怖がっている様子など微塵も見受けられなかった。むしろ、思い通りに艇が応えてくれることが楽しくて仕方ないという顔だった。
その前方へ、港へ戻る作業船が横切る。
「今度こそまずいだろ」
レオンが思わず身を乗り出した、その直後、イレーネが大きく舵を切った。
帆が一度激しくはためき、艇の速度が落ちる。そのまま船首が風上を横切り、反対舷へ回った帆が再び風を孕んだ。一瞬の後には、艇は全く別の方向へ加速していた。作業船の船首を大きくかわし、白い航跡を残しながら走り抜けていく。
「……上手い」
思わず、感嘆するように言葉が漏れた。
ただ変わったことを思いつく少女ではない。
考える。試す。失敗すれば直す。そして、自分で扱えるだけの技量まで身につけている。何より、それを心から楽しんでいた。その圧倒的なエネルギーの塊のような姿に、レオンはいつの間にか、赤い髪の少女から目を離せなくなっていた。
恋だとか、そんな生ぬるいものではない。もっとこう、まぶしく輝く太陽のような、憧れのような存在。少なくとも、その時のレオンはそう感じた。
だから、一つだけ強く思った。この少女は、一体この先、何を成していくのだろう。
その日から、今度はレオンの方からイレーネへ声をかけるようになった。
「あの船、どうして二つ繋いだんだ?」
聞けば、イレーネは待ってましたとばかりに話し始めた。
「一つの船体を細くすると速くなるんだけど、その分どうしても横に不安定になるでしょう? だったら、細いのを二つ離して置けば――」
そこからが長かった。船体の幅、重さ、帆の位置、横風を受けた時の挙動、二つの船体をつなぐ横材の強度。話題は次々と広がり、気づけば半刻ほど経っている。レオンはとうとう耐えきれなくなった。
「君、船の話しかしないな」
「そんなことないわよ」
「でも、さっきからずっと船の話ばかりだぞ」
イレーネは不満そうにレオンを見る。
「だって船の話を聞いたでしょう?」
「……それはそうなんだろうだけど」
少しずつ話題を変えながら会話を重ねていくうちに、単なる船好きでもないことが分かってきた。
船が大きくなれば、より多くの荷を運べる。速くなれば、遠くの土地へ早く行ける。安全になれば、これまで危険だった海域にも航路を延ばせる。
そこから交易の話になり、外国の話になり、まだ見たことのない土地の話になる。
「もっと遠くまで行けるようになったら、今まで王国に来なかったものだって持ってこられるでしょう?」
「たしかにな。そして、逆に、こっちの物を売りに行くこともできるな」
「そう。そのために、人だって行かなければならないわ。ううん、違う。それはきっかけでしかないわね。人だって行くことができるわ」
「人?」
「見たことないものを見に、知らないものを知りに行けるでしょう?」
イレーネの目が未来の地図を映すように、楽しそうに輝いた。
そこでレオンはようやく気づいた。この少女が好きなのは、船そのものだけではない。船に乗って海に出る。知らない海、その先にある世界が広がっていくことなのだ。
話していると面白かった。次に何を言い出すのか分からない。そして次には、何を始めるのかも分からない。十五歳のレオンは、その夏の終わりには、いつの間にかそれを楽しみにするようになっていた。
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