第63話 王都の翳り
王都は、まだいつもと変わらないように見えた。
朝になれば市場には露店が並び、焼き上がったばかりのパンの香りが通りへ流れ出す。大通りでは荷車が行き交い、港からは荷を積み下ろす男たちの威勢のいい声が聞こえてくる。工房街へ足を向ければ、炉から立ち上る煙の向こうで槌の音が重なり合い、今日も一日が始まったのだと嫌でも分かった。
少なくとも、表面上は。
「だから、今日の昼までって話だっただろ?」
金属加工を扱う工房の店先で、商人の男が困ったように声を上げた。
目の前の作業台には、壊れた留め金が置かれている。大した品ではない。彼が扱っている輸入品を収める木箱に使う金具で、普段なら持ち込んだ翌日には直してくれるようなものだった。
ところが、応対している若い職人は申し訳なさそうに頭を下げるばかりだった。
「すみません。急ぎなのは分かってるんですが、どうしても今日中には……」
「今日の夕方には荷を出さなきゃならんのだよ。昨日持ってきた時には間に合うと言ったじゃないか」
「その時は、そのつもりだったんです。でも昨夜になって、別の仕事が二件、それも急ぎのやつが回ってきまして……」
若い職人が困惑の入り混じった目で工房の奥を指した。
いつもなら親方が陣取っていた場所には、普段は現場に立っていた古参の職長が座り、慣れない様子で帳面と注文票を何度も見比べている。その周りには修理待ちの金具や馬具、鍋の取っ手などが積み上がり、奥では二人の職人が休む間もなく槌を振るっていた。
人がいないわけではない。ただ、明らかに手が足りていなかった。
「親方はどうした?」
商人が聞くと、若い職人は一瞬だけ言いにくそうな顔をした。
「先週、故郷へ戻りました」
「親方が?」
「ええ。工房は職長に任せて。そのあと腕のいい職人も二人抜けまして、今は残った人数でどうにか回してるんです」
商人は思わず、複雑な表情で工房の中を見回した。
親方は腕の立つ男だった。修理品を見れば、どの職人へ回し、どれを先に片づければ仕事が滞らないかまで、その場で決めてしまう。客との値段交渉も材料の手配も、全部頭の中に入っているような男だった。
それがいない。
だからといって工房が閉じたわけではないし、残った職人の腕が急に落ちたわけでもない。それでも、親方なら半日で差配していた仕事を、今は職長が現場仕事の手を止め、帳面と注文票を何度も確かめながら一つずつ振り分けなければならなかった。ただ確認する、ただ迷う。そのわずかな「隙間」が、工房全体の動きを確実に遅らせていた。
「明日の朝なら?」
「……それなら、何とか」
商人は少し考えたが、結局、諦めたように留め金を掴んだ。
「悪い。今日じゃなきゃ困るんだ。ほかを当たる」
「すみません」
謝る若い職人の声には申し訳なさが滲んでいたが、その一方で、これ以上仕事を抱え込まずに済んだことへの安堵も、わずかに混じっているように聞こえた。
「謝らなくていいよ。お前らが悪いわけじゃない」
そう言って工房を出たものの、さてどこへ持っていくかとなると、それもすぐには思いつかなかった。
少し離れた通りに腕のいい工房がもう一軒あったはずだと思い出し、焦りを感じながら急いで向かったが、店先にはすでに数人の客が苛立ちを隠そうともせず待っていた。
「今日中? 無理だね」
事情を聞いた主人は、金具を見る前からにべもなく首を振った。
「三日待ってくれるなら受けるよ」
「ただの留め金だぞ?」
「見りゃ分かる。だが、そっちは一個でも、こっちはそれが三十個あるんだよ」
主人が顎で示した先には、修理待ちの品が今にも崩れそうなほど棚いっぱいに積まれていた。
「最近、やけに仕事が集まってくるんだ。近所の工房が二軒閉まったから、その分までこっちへ回ってきてる」
「閉まった?」
「一軒は親方がネイモへ行った。跡を継ぐ奴もいなかったらしくてな。もう一軒は職人がまとめて西へ移ったらしい。仕事は山ほど来るのに、それをこなす人間がいねえ。俺だって人を増やしたいくらいだが、腕のいい奴はどこも取り合いだよ」
商人は礼を言い、再び通りへ出た。
この程度の金具なら、港へ今日入る予定の荷の中に予備があったはずだ。修理にこだわらず、そちらを使えばいい。そう考えて港へ向かった時には、すでに昼近くになっていた。
港そのものは、相変わらず忙しかった。
沖から入ってくる商船が帆を畳み、岸壁では荷役人たちが滑車を使って木箱や樽を次々と降ろしている。王都を出ていく人間が増えている一方で、物資は今日も変わらず流れ込んでいた。
商人は馴染みの倉庫へ向かい、帳場にいた若い男へ声をかけた。
「午前に入ったレオニダス商会の荷、もう出せるか?」
「レオニダス……ちょっと待ってください」
若い男は、手慣れない様子で帳簿をめくった。
「西方便ですよね?」
「そうだ。工具と金具が入ってるはずだ」
「二番倉庫……いや、三番か?」
「俺に聞くなよ」
「すみません。少し待ってください」
若い男は帳簿を抱えたまま、小走りで奥へ消えた。
しばらくして戻ってきたが、今度は別の男を連れている。二人とも一様に眉をひそめていた。
「三番にはないそうです」
「じゃあ二番だろ」
「二番にもないんです」
「船は着いてるんだよな?」
「それは間違いありません」
「だったら荷が消えるわけないだろ」
商人の声が少し大きくなったところで、奥からくたびれたシャツを着た年配の荷役人が顔を出した。
「何を探してる?」
商人が船と商会の名を伝えると、男は少し考え、それから「ああ」と納得したように声を漏らした。
「四番だよ」
「四番?」
帳場の若い男も驚いた。
「どうして四番に?」
「今朝、二番が一杯になっただろ。こういう時は、いつもマルコが四番へ回してたんだよ。だから俺も、てっきりそうするもんだと思って――」
そこまで言ってから、年配の荷役人は顔をしかめた。
「……そうか。お前ら、マルコから引き継ぎ受けてねえのか」
「三日前に辞めたのは知ってます。でも、倉庫の振り分けのコツまでは……」
「俺は昔からそうしてたから、今朝の荷も四番へ入れたぞ」
「それ、帳場に言いました?」
「言ったぞ。……誰だったかな」
二人が、どちらともなく困ったように顔を見合わせる。
商人は額を押さえた。言葉にできない疲労感が、どっと頭に押し寄せてきた。
荷はある。船も予定通り着いている。倉庫だって空いている。ただ、その荷をどこへ置くかを当然のように把握していた男がいなくなり、残った者同士の間で話がうまくつながっていなかった。帳簿には残らない「現場の暗黙の了解」が、マルコという一人の人間と共に、そっくり抜け落ちていたのだ。
結局、目当ての木箱が見つかったのは、それから半刻ほど経ってからだった。普段ならすぐ済むはずの確認だけで、また余計な時間を失った。
ようやく予備の留め金を手に入れ、急いで木箱を直し、商品を荷車へ積み終えた頃には、太陽はすでに大きく西へ傾いていた。
「まずいな……」
商人が、焦燥にかられて顔をしかめる。
得意先では、昼過ぎには商品を受け取り、そのまま午後の荷車へ載せる予定になっていた。もう、とっくに予定時刻は過ぎており、間に合わない。
商人は荷車を急がせたが、工房で費やした時間も、港で荷を探した時間も、すべてが砂のように指の隙間からこぼれ落ち、取り戻せるものではなかった。
得意先へ着いた頃には、店先の片づけが始まっていた。夕暮れの影が長く伸びている。
「遅かったな」
店主は苦い顔で荷車を見た。
「午後の便はもう出ちまったぞ」
「悪い。商品を入れる箱の留め金が直らなくて、予備を取りに港まで回ったんだ。ところが今度は、その金具の入った荷が見つからなくてな」
「明日の便に回すしかないか……」
説明しながら、商人自身、妙な気分になった。どれも嘘ではない。そして、どれも大事件ではなかった。
親方が工房を離れ、荷の差配をしていた男が一人いなくなり、連絡が一つ伝わらなかった。それだけの、ほんの小さなつまずきが重なった結果、昨日までなら何事もなく昼前には片づいていた仕事が、日暮れ近くまでかかってしまった。
店主は荷を確認すると、渋い顔で頷いた。
「まあ、届いたんならいい。次は頼むぞ」
「悪かったよ。今日はどうにもついてなかった」
商人も、その時はまだ、今日はたまたま運が悪かっただけだと片づけていた。
店を出る頃には、日は西の屋根の向こうへ沈みかけていた。
商人は空になった荷車を引かせながら、港沿いの道をゆっくりと戻っていく。朝から散々だったが、商品そのものはどうにか届けられた。今日はたまたま運が悪かったのだろう。そう思えば、それで済む話だった。
港近くの船具店の前を通りかかった時、店内から船長らしい男の苛立った声が聞こえてきた。
「今年版の西沿岸図、追加はまだ来ねえのか?」
「まだなんですよ。写図をやってた職人が何人か抜けたらしくて、いつになるか分からないって……」
「先週も同じこと言ってただろ。今ある分は?」
「残り五部です」
「五部だけかよ」
「ええ。その先は、今のところ何とも」
商人は歩きながら、何となくその言葉を耳に残した。何か、嫌な引っかかりを覚える。
さらに少し進んだところでは、食堂の軒先で主人と馴染み客が話している。いつもなら夕方には並ぶはずの魚が今日は届かず、聞けば漁が悪かったのではなく、仲買をしていた男が辞めたせいで、荷の振り分けがうまくいかなかったらしい。
そこで商人は、ふと足を緩めた。夏の終わりの冷たい風が、通りを吹き抜けていく。
海図がなくなったわけではない。魚が獲れなくなったわけでもない。自分が朝から探し回った金具にしても、品そのものはちゃんと港まで届いていた。
なくなっているのは、物ではない。
誰がどの仕事を受け、どこへ回し、誰に聞けば話が通るのか。これまで意識する必要すらなかった「人と人とのつながり」という目に見えない無数の糸が、王都のあちらこちらで、ぷつぷつと途切れ始めている。
朝の工房で予定が狂い、港では荷の置き場所が分からなくなり、そのせいで自分の得意先まで荷が届くのが遅れた。あれも単についていなかったのではなく、同じことが別の場所でも同時に起きているのではないか。
商人はそう考えたが、すぐに首を振った。
王都ほどの大きな街が、多少人が抜けた程度でどうにかなるはずもない。明日になれば、またいつものように回り始めるだろう。 そう思うことにした。けれど、頭の片隅には、かすかな疑念が残った。
その頃、王城にも似たような報告が届いていた。
工房からは納期の遅れ、港からは荷捌きに時間がかかるようになったとの報告が上がり、商業を担当する部署には、仕入れ時期を以前のように確約できないという商会からの問い合わせが増えていた。市場でも、一部の商品について入荷先や仲買人が変わったために、流通が安定しないという話が出ている。
ただ、それらは別々の部署から、別々の些細な問題として上がってきた。
港は閉鎖されていない。市場には食料が並んでいる。工房も大半は営業を続けており、商会が一斉に店を畳んだわけでもない。数字の上でも、王都が危機に陥っていることを示すような変化はまだ何も現れていなかった。 街のどこにも、目に見える傷口など存在しなかった。
報告書をまとめていた役人は、何枚かの書類を読み返したあと、タラシア家ほどの大貴族が王都から撤退するのだから、多少の混乱は当然だろうと結論づけた。
――タラシア家撤退に伴う一時的影響と推定。経過観察。
そう書き加えられた報告書は、ほかの書類と一緒に束ねられた。
日が沈みかけた頃、商人は自宅へ戻る途中で、朝に訪れた工房街を通った。
酒場からは仕事を終えた職人たちの笑い声が漏れ、通りには夕食の買い物をする人々が行き交っている。店先には灯りがともり、工房の奥ではまだ仕事を続けている者もいて、遠目には朝と何ひとつ変わらない。
商人は歩きながら、長年聞き慣れた槌の響きを何となく耳で追った。
朝に訪れた工房からは、若い職人が打つ、どこかせわしない音が聞こえている。その先にも、さらに向こうにも、槌の音は続いていた。
けれど、途中の一軒だけは扉を閉ざしたまま、灯りもついていない。
昨日までなら、それを気に留めることもなかっただろう。 ただの休業か、廃業だと思って通り過ぎていたはずだった。
王都はまだ賑やかだった。人もいる。物もある。仕事も続いている。
それでも商人には、いつもなら聞こえていた槌の音が、ひとつ足りないように思えた。
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