第62話 人材流出
タラシア家が王都からの撤退を決めて、三週間ほどが過ぎた。
八月も後半に入り、昼間の日差しにはまだ夏の強さが残っている。
それでも朝夕は随分と過ごしやすくなった。とくに日が傾いてからアストラ川を渡ってくる風は、汗の引いた肌には少し冷たく感じられるほどで、すでに秋の気配を感じさせた。
しかし、そんな秋の気配とは裏腹に、王都の港では、その朝も、定期船への乗船を待つ人々が列を作っていた。
ここ二週間近く、西へ向かう定期船の乗り場では、こうした混雑が当たり前になっていた。
「ネイモ行き、あと三人!」
船員がしゃがれた声を張り上げる。
「三人? こっちは五人家族だぞ! ばらばらになれってのか!」
「次の便を待ってくれ!」
「それがいつだって聞いてるんだ!」
桟橋の前で、必死の形相の乗客と、案内をさばききれない船員が言い争っている。
その後ろには、大きな鞄をいくつも抱えた家族や、布で包んだ工具箱を守るように足元に置く職人、帳簿らしい革張りの本を全財産であるかのように大事に胸に抱えた男、使用人らしい服装の若い男女が不安げに並んでいた。
荷物の量も、向かう先もさまざまだ。故郷のアルカディアへ戻る者もいれば、新天地を求めてネイモへ向かう者、さらに西の町へ移る者、親戚を頼って王都を離れる者もいる。彼らの表情には王都を離れる戸惑いが浮かんでいたが、その一方で、新しい土地での暮らしをどこか楽観的に捉えているような明るさもあった。
「次のアルカディア便は?」
すっかり白髪に染まった老人がすがるような目で係員に尋ねる。
「三日後です」
「三日?」
「その次なら五日後になりますね」
老人は困った様子で、隣で不安げに佇む妻を見る。
「昨日は明後日って言ってただろう」
思わず愚痴が口をついて出てしまう。
「昨日と今日じゃ状況が違うんですよ。すぐに満員になったんですよ」
「貨物船は?」
「船長が乗せるって言えば乗れますけどね。今はどこも似たようなもんですよ」
係員も、すでに同じ説明を何度したのか分からないといった顔をしていた。その表情には、その表情には、連日の混雑による疲れが隠しきれずに滲んでいた。
少し離れたところでは、三十代ほどの体格のよい男が木箱を二つ重ね、その上に腰を下ろしていた。
日に焼けた丸太のように太い腕。膝の横には、長年使い込まれた頑丈な工具箱が置かれている。
隣には疲れ果てた妻と、まだ十歳にもならない小さな少年がいた。
「父ちゃん、本当に船、乗れないの?」
「……ああ、今の状態じゃ無理だな」
男は苦々しげに桟橋の向こうを眺めた。出港を待つ船の甲板には、すでに足の踏み場もないほど人が溢れている。
「次を待つ?」
妻が衣服の袖を握りしめながら聞く。
「いや」
男は決然と首を振った。
「陸で行こう」
「荷物は?」
「荷車を借りる。セトまで出りゃ、どうにでもなるはずだ」
立ち上がると、相棒ともいえる工具箱を持ち上げた。
王都に来て十五年。鍛冶工房で働き始め、がむしゃらに働いたおかげで、七年前には職長になった。長年お世話になったその工房を辞めたのは四日前だった。
理由は単純。転職だった。
西へ行けば、新しい仕事がある。嘘ではない。以前一緒に働いていた親方から、そう聞いていた。その親方自身も、十日前に新天地への期待に胸を膨らませて、一足早く王都を離れている。あの頑固一徹な親方が「面白い仕事がある」と誘ってくれたのだ。腕の見せ所はいくらでもあるはずだった。
妻が息子の手を取り、三人は人で溢れかえる喧騒の港を後にした。
「また一組か」
遠ざかる背中を見ていた荷役人が、額の汗を拭いながらつぶやく。
隣で荷札を確認していた男が顔を上げた。
「何がだ?」
「出ていく奴だよ。最近、いくら何でも多すぎねえか?」
「タラシア家が領地に帰るんだろ。使用人もお抱えの商人も、そりゃ一緒に動くだろ」
「いや、あいつはタラシアの使用人じゃねえぞ。東通りの腕のいい鍛冶屋にいた奴だ」
「じゃあ転職じゃねえの?」
「だから、その転職する奴が不自然なほど多いって言ってんだよ」
相手はあきらめたように肩をすくめた。
「仕事があるところへ行く。それだけだろ」
「まあ……そうなんだけどよ」
荷役人はもう一度、港の出口を訝しげに見る。先ほどの職人の家族は、すでに人混みの中へ吸い込まれるように消えていた。
王都から西へ向かうには、アストラ川を渡らなければならない。
王都の脇を流れるアストラ川は、河口近くともなれば対岸が遠く霞むほどの大河だった。その川幅に橋を架けることは難しく、王都と対岸のセトを結ぶのは、昔から大小の渡し船だった。人はもちろん、馬や荷車をそのまま載せられる大型の渡し船もあり、西へ向かう街道は一度川岸の渡し場へ集まり、そこから対岸へ渡っていく。
昼前。ぎらつく太陽の下、渡し場には、うねる蛇のように長い列ができていた。
「次、荷車三台!」
係員が声を張る。
「三台だけかよ!」
「馬車は重いんだ! 沈みてえのか!」
「朝から待ってるんだぞ!」
「みんな待ってるんだ。文句をいうな!」
苛立ちの混じった怒鳴り声が飛び交う。馬が鼻を鳴らし、荷車の車輪が石畳を軋ませる。家財を積み上げた荷車。布で覆われた商人の荷。樽。木箱。家具。
普段から人通りの多い渡し場ではあったが、今日は明らかに人も荷車も多く、いつもとは違う熱気に包まれていた。
朝、港を諦めた職人の一家も、その列の中にいた。
借りた荷車には、工具と衣類、それに最低限の家財だけが積まれている。
「これ、今日中に渡れるの?」
妻がつま先立ちになって、列の先を眺める。
「たぶんな」
「たぶん?」
「日が暮れるまでには」
「それ、今日中って言わない?」
「日付は変わらねえだろ」
夫の楽観的な返しに、妻は呆れた顔をした。
前に並んでいた老人が振り返り、白いひげを揺らして笑った。
「昨日はもっと酷かったらしいぞ」
「これより?」
「ああ。夕方には列が街道まで伸びたそうだ」
「なんで急にこんなことになったんです?」
老人は肩越しに周囲をぐるりと見る。
「さてな」
そこへ、横から若い男が口を挟んだ。
「タラシア家が王都から出ていくからだろ」
荷車に樽を積んだ商人だった。
「俺の知ってる商会も、倉庫を一つ畳んだ。番頭も二人辞めたってよ」
職人が聞き返す。
「アルカディアへ?」
「一人はな。もう一人はネイモだ」
「じゃあ、タラシアとは関係ないじゃない」
妻が言う。
商人は鼻を鳴らした。
「だから分からねえんだよ」
列が少し動いた。馬の手綱を引きながら商人が続ける。
「タラシアが帰る。それは分かる。タラシアの使用人がついていく。それも分かる。でもな」
顎で周囲を示す。
「ここにいる連中、全員がタラシアの人間に見えるか?」
ざあっと風が通り抜ける。誰も答えなかった。
目の前を、別の渡し船が鈍い音を立てて岸へ着ける。
降りてきた荷車と入れ替わるように、人々が我先にと押し寄せた。
「押すな! 順番だ!」
係員の悲鳴にも似た怒鳴り声が響く。
その日の午後、ようやく一家を乗せた渡し船が岸を離れた。
川面を渡る風が、汗ばんだ肌を冷やす。
少年が船縁から身を乗り出した。
「父ちゃん、王都小さくなってく」
「落ちるぞ」
男は息子の服を掴んで引き戻す。
船上から眺める王都は、いつもと変わらなかった。
そびえ立つ白亜の城壁。いくつもの美しい尖塔。港に並ぶ無数の帆柱。その奥では、王城の屋根も陽光を受けて輝いている。あれほど人が出ているというのに、外から見れば何も変わっていない。その変わらぬ美しさが、男にはかえって奇妙で、そこはかとない恐ろしささえ感じられた。
船はゆっくりと対岸へ近づいた。
その先にあるのが、宿場町セトだった。
王都の真正面、アストラ川の渡し場を中心に発展した町である。西へ向かう者も、王都へ入る者も、多くがここを通る。渡し場の周囲には宿や酒場、馬屋、鍛冶屋、倉庫が軒を連ね、普段から旅人や荷車の絶えない町だった。
だが、その日はいつにも増して人で溢れていた。
「満室だよ!」
宿屋の主人が入口から顔を出す。
「せめて、二人だけでも泊めてくれ!」
「床なら貸せる!」
「それでいい!」
「一人銅貨三枚!」
「高え! ぼったくりだろう!?」
「嫌なら外で寝な! 代わりはいくらでもいるんだ」
広場には、行き場を失った荷車が何台も乱雑に並んでいる。馬屋の前では、預ける馬を巡って商人が胸倉をつかみあって言い争っていた。道端には、荷物の上へ腰を下ろして力なく食事をする家族までいる。
王都を出た職人は、その光景を見回した。
「……こりゃ、宿は無理だな」
「どうするの?」
「馬屋の軒下でも借りるしかねえな。金を出せばそれくらいは……」
「子供いるのよ。夜風に当たらせたくないわ」
「分かってるって。絶対に何とかするから、少し待ってろ」
すると、少し離れたところから喧騒を割って声が飛んだ。
「おい!」
職人が振り返る。日に焼けた見覚えのある顔の男が手を上げていた。
一瞬考えてから、ようやく思い出す。
「なんだ、お前も王都を出たのか」
「先週な」
以前、同じ工房で寝食を共にし、切磋琢磨して働いていた男だった。
「どこ行く?」
「西。親方のところ」
「やっぱりか」
二人は顔を見合わせた。
「お前も?」
「ああ」
「何人いるんだよ、あっちに行くやつは」
「さあな」
男は乾いた笑いを漏らした。
「俺が知ってるだけで七人だ」
「七人……?」
「親方入れりゃ八人。あと歯車細工の爺さんも行くらしい」
職人の表情が強張った。
「あの爺さんまで?」
「息子夫婦がアルカディアにいるんだと」
「じゃあ、工房どうなっちまうんだよ。親方に加えて、歯車の爺さんまでいなくなっちまったら……」
「知らねえよ」
男はあっさり、突き放すように答えた。
「若いのが残ってる」
「残ってるって……」
言いかけて、職人は黙った。
人はいる。若い職人もいる。徒弟もいる。けれど、親方はいない。職長も減った。歯車の噛み合わせや軸の癖まで知り尽くした老職人もいなくなる。それでも工房の看板は残る。仕事も受けるだろう。ただ、同じように回るかと聞かれれば、答えは分かっていた。
「まあ、俺たちが気にすることじゃねえさ。残念だが、もう他人事だ」
男が言った。
「そうだな」
職人も自分に言い聞かせるように答えた。王都を出た以上、もう自分たちの仕事ではない。終わったことなのだ。
夕方。
セトの酒場では、普段より多くの客がひしめき合い、濁った熱気で卓を埋めていた。
「最近、出ていく奴、多くねえか?」
誰かが不意に言った。
「タラシア家が領地に帰るからだろ」
別の男が安酒を飲みながら答える。
「それだけで、渡し場があそこまで混むか?」
「商売人は動くのが早いんだよ」
「でも、うちの近所のパン屋も閉めたぞ」
「パン屋?」
「親戚を頼って西へ行くってさ」
「そりゃタラシア関係ねえだろ」
「だから変だって言ってるんだよ」
ドッと笑い声が起きた。
「王都が沈むわけでもあるまいし」
「違いねえ」
話はそこで終わった。誰も、それ以上深く考えなかった。それがただの一時的な騒ぎにすぎないと、誰もが信じたかったのだ。
王都では、その日も店が開いていた。
市場では野菜が売られ、酒場には客が入り、工房からは槌の音が響いている。港には船が入り、王城では役人たちがいつものように書類を運んでいた。王都全体から見れば、出ていった人間など、まだほんの一部にすぎない。
ただし、抜けているのは単なる頭数ではなかった。
工房なら親方や職長。商会なら番頭や会計係。港なら熟練した荷役人。造船所なら船大工。海運なら、航路と荷の流れを知る者。
その場を実際に支え、回してきた人間が、少しずつ姿を消していた。
まだ王都は壊れていない。白亜の壁も、気高くそびえたつ尖塔も、そのままそこにある。
ただ、都市の血流となる人だけが静かに外へ流れ始めていた。
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