第61話 命名ドラペテス
練習生が全員来るとなれば、計画を少し組み直す必要がある。
イレーネはルシウスの周りを行ったり来たりしながら、頭の中で人数を積み上げていった。
「お嬢、落ち着かねえな。少し歩くか?」
「そうね」
ルシウスに誘われ、二人は岸壁沿いをゆっくりと歩きだした。
元第二練習艦隊の練習生が、およそ九十人。
それだけではない。
第二練習艦隊にいたベテランの水兵や下士官。
海軍工廠から動く技術員や職人。
海軍海運局の職員。
ほかにも、すでに話を通している海軍関係者がいる。
自分とルシウス。
そして、ソフィア……も来てくれるといいが。
「三百五十は超えるわね」
「そのくらいだろうな」
なおもパイプをくわえながら隣を歩くルシウスが答えた。
およそ三百五十人。
これほどの人数が一度に海軍から消えれば、どれほど鈍い者でも異変に気づく。
「先に動かせる人は、予定通り少しずつ出して」
「了解。もうすでに先発の何人かは動き出している。まあ、そいつらは皆アルカディア出身者だから理由は大して聞かれねえな」
「工廠も海運局も、一度に辞めさせないで。退職、帰郷、転職、家の事情。理由もばらけさせて。アルカディア出身とはいえ、家とは直接関係ない人も多いから」
「わかってる。タラシア家が直接糸引いてるって思わせないってことだな」
「ええ。何組かに分けて。途中で別の街へ寄らせてもいいわ。意図的に人材を引き揚げていると思われるのは面白くないわ」
二週間。
その間に、先に王都を離れられる者から順番に外へ出す。
一人とか、二人。
多くても数人ずつで。
王城から見れば、それぞれが個別の理由で王都を離れているように見せる。
一方、最後まで動けない者もいる。
工廠の職人は、その日まで普通に働く。
海運局の職員も通常通り業務を続ける。
練習生たちは何も知らない顔で訓練を受ける。
当日に警備当番へ入っている者なら、その夜も予定通り警備につかせる。
「いい? 表面上は混乱が続いているのを装って。それ以外は普段通りにして。普段と違うことをするから怪しまれるのよ」
「最後の最後まで普段通り、か」
「そういうこと」
ルシウスも歩きながら、指を折って人数を数えていた。
「問題は、船だな」
「それはあなたの仕事でしょう?」
「おいおい、簡単に言うなよ」
「似たようなこと、さっきも言われたわね」
ふと、二人が足を止めた。
少し先の岸壁に、一隻の大型船が係留されている。
かつて第二練習艦隊の旗艦だった船。
全長五十メートルほどの大型ガレオン。
第二練習艦隊が解隊された今も、まだ次の所属を正式に与えられないまま、ここに残されていた。
「ま、そうはいっても、三百五十なら乗るな」
ルシウスは船を見上げた。
「少し手狭にはなるが、困るほどじゃねえ。操船の要所にベテランを置く。実働は元練習生にやらせりゃいい」
「全員、この船で訓練してるものね」
「そうだな。少なくとも、そこらの寄せ集めよりはずっと使えるはずだ」
午後の強い日差しの中、甲板では数人の水兵が帆索の点検をしている。
見た目には、特別な準備をしているようには見えない。
それでいい。
「食料と水は?」
「一気に積めば目立つ。通常の補給に混ぜて少しずつ増やしてる」
「航海用品は?」
「工廠の在庫から回す。あれも一度に動かさない」
「予備帆」
「もう、積んである」
「医薬品」
「手配済みだ」
イレーネは次々と挙げたが、ルシウスの返事は早かった。
さすがに、この男へ船の準備を任せたことに不安はない。
「じゃあ、船の方は大丈夫ね」
「だから最初から言ってるだろ」
イレーネは旧旗艦を見上げた。
三年前、王からの命を受け、自らも設計にかかわり、ルシウスらと協力して作り上げた船だった。
速度と機動性を重視した実験艦でもあった。
何度も失敗し、そのたびに手を入れた。
実験艦だけに、操船の要所には通常より多くのベテランを置いた。
その一方で、どうせなら既存のやり方に染まっていない新兵を乗せ、この船に合わせて育てた方がいい。
そんな発想から練習艦として扱われるようにした。
しかし、第二練習艦隊の旗艦でありながら、この船には正式な艦名がない。
「そういえば、この船……名前なかったわね」
イレーネが今更のように気まずい顔をしてつぶやいた。
「今さら気づいたのかよ」
「忘れてたわけじゃないわよ」
海軍大臣に艦名の申請を出したことはある。
だが、
――練習艦に立派な艦名など不要。
その一言で、認められなかった。
当時は腹を立てたものだが、今となってはどうでもよかった。
むしろ、かえって幸運だったとすら思える。
イレーネは船首から船尾までを眺めた。
「ちょうどいいわ。名前、つけましょうか。海軍大臣のセンスに左右されないから、かえって好都合だわ」
「おいおい、勝手につけていいのか?」
ルシウスはタバコが終わってしまったのか、パイプを軽く叩きながら聞いた。
「もう練習艦隊はないでしょう?」
「だからって、お前の船になったわけでもねえぞ」
「二週間後にはなるわよ」
ルシウスが唖然として黙った。
しばらくして、
「まあ、でも、それもそうか」
と納得する。
「それで、偽の回航命令書の方も、抜かりなく進めてくれてるんでしょ?」
「ああ。海運局の連中が書式を整えてる。印章も含めて、ぱっと見で怪しまれるような代物にはならん」
「なら安心ね」
イレーネは、ルシウスに茶目っ気たっぷりのウィンクを送る。
「ほんとお嬢は、そういうところだけ妙に肝が据わってるよな」
「今さらでしょう?」
イレーネは改めて船を見上げた。
二週間後。
この船には、およそ三百五十人が乗る。
様々な人々がイレーネの思惑に乗ってアルカディアへと旅立つ。
「ドラペテス」
「……何だよ、それ」
「この船の名前よ」
「いや、そうじゃねえ。どういう意味かって聞いてる」
「古語で『逃亡者』ね」
ルシウスはしばらく何も言えなかった。
やがて、いかにも呆れたという顔をこちらへ向ける。
「古語で『逃亡者』ってなんだよ。もっとましなのねえのかよ」
「今から逃げるんだから、ぴったりじゃない」
「もう少し格好つけようとは思わんのか」
「分かりやすいでしょう?」
得意そうにイレーネは胸を張る。
「そういう問題じゃねーよ。そもそも、古語にした時点で分かりにくいわ」
「じゃあ決まりね」
「俺の意見はどこへ行った」
イレーネは聞かなかったことにして、船に向かって両手を広げている。
旧第二練習艦隊旗艦。
ドラペテス号。
名前を持たなかった船が、王国を逃げ出す直前になって、ようやく名前を得た。
「じゃ、改めて確認だけど、準備は目立たないように続けて」
「了解」
「先に出せる人は、この二週間でできるだけ外へ出して」
「分かってる」
「最後に残る人たちは、新月の晩に順番にここへ集めて。さりげなく回航命令の噂もちゃんと広めておいてね。そうすれば変だと思われないわ」
夜なら、岸壁を照らす魔晶灯があっても、少し離れれば人の顔までは分かりにくい。
回航そのものを隠す必要はない。
隠したいのは、誰がその船に乗ったのかだった。
それに、月明かりのない夜なら、港の見張りからも、沖へ出た船を追いにくい。
イレーネは旧旗艦――ドラペテスに背を向けた。
「じゃ、後はよろしくね」
「簡単に言いやがる」
「あなたならできるわよ」
ひとり岸壁を離れて基地出口に向かって歩き出す。
数歩進んだところで、思い出して振り返った。
「あ、それと」
「まだあるのか」
「練習生たちにも、二週間後って伝えておいてね」
ルシウスは片手を上げた。
「新月の晩だな」
「ええ」
イレーネは今度こそ前を向いて、力強く歩き出した。
背後では、名を得たばかりのドラペテスが、岸壁の波にゆっくりと船体を揺らしていた。
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