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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第3章 誰と共に去るか

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第60話 魔女の教え子たち

「俺たち無敵の海兵だ!」

「前に進めば極楽だ!」

「下がれば深い海の底!」


この時期には珍しい、海兵の新兵訓練で使われるケイデンスが岸壁に響いていた。

二人が何気なく振り返る。

揃いの訓練服を着た二十名ほどの一団が、教官に率いられて岸壁沿いを行進してくる。 ルシウスは慌てて立ち上がるが、パイプからは手を離さない。


その顔ぶれには見覚えがあった。

第二練習艦隊の解隊後、海兵として再訓練を受けている練習生たちだった。


先頭近くを走っていた一人が、岸壁に立つイレーネに気づいた。

わずかに足が遅れる。

その後ろの練習生が危うく背中へぶつかりそうになる。


「……提督だ」


「え?」


「ほら、あそこ」


「ほんとだ」


その声につられるように、二人、三人と次々に横を向く。

きれいに揃っていた隊伍が、見る間に崩れていった。


ほんのひと月前まで、自分の艦隊で訓練を受けていた者たちだ。

甲板を走らせ、砲の斉射訓練を行った。

船酔いで使いものにならなくなった者の尻を容赦なく蹴り上げもした。

イレーネは懐かしくなって、片手を上げた。


「前を見ろ!」


教官の怒声が岸壁に響く。


「私語をするな! 隊伍を乱すな!」


練習生たちは慌てて正面を向き直る。

それでもイレーネは、そんな彼らへ小さく手を振っていた。


一団が目の前を通り過ぎる。

最後尾近くを併進する教官が、ちらりとこちらを見る。

左腕の先には、鈍く光る鉤。


イレーネはその男にも穏やかな微笑みを向けた。


教官は何も言わず、ほんの一瞬、右手を帽子の鍔へやる。

その目には、元提督への真摯な敬意が宿っていた。

そしてすぐに前を向き直った。


「私語をした罰だ。全体、駆け足――進め!」


揃った靴音が一気に速まり、一団は岸壁の向こうへ駆けていった

二人はしばらく、その背中を見送った。

偶然鉢合わせた練習生たちが指先ほどの大きさになるころ、イレーネが前を向いたまま口を開く。


「……で、首尾は?」


ルシウスも練習生の一団を見たまま煙を一つ吐き、答えた。


「上々だ」


それだけで十分だった。


「今残ってる奴らには、全員話を通した」


「それで、返事は? どのくらい来そう?」


「全員行くそうだ」


イレーネが目を丸くして、素早く横を向く。


「……全員?」


「ああ」


「全員?」


「聞こえてるよっ」


ルシウスは顔をしかめ、面倒そうに答えた。


「今海軍に残ってる連中だけじゃない。もう辞めた奴も、故郷へ戻った奴も、連絡のついた奴は全員だ」


「一人も残らないの?」


「一人も」


元第二練習艦隊の練習生は、九十人近くいた。

艦隊解隊後、基本的に海兵訓練を受けなおしているため、今のような集団が残り三つはあるはずだ。


もちろん、自分は水兵になりたかったのに、海兵なんてやってられるかと、海軍そのものを辞めた者もいる。

それでも全員が、アルカディアへ行くという。


「誰かに何か言われたの?」


「何を?」


「アルカディアに行かないと粛清するとか、脅したり……」


「誰がそんなことするか! お嬢が希望を聞けっていうから、聞いただけだ」


ルシウスは面白そうに、鼻を一つ鳴らすと、先ほど練習生たちが消えていった方向を見た。


「しかもあいつら、誰一人として余計なことを喋ってない。あいつら仲間同士でもな。まるで暗黙の了解でもあるかのようにな。面白いもんでな――」


ルシウスが面白そうに話を続ける。


「――何度か部下を使って、カマかけてみたんだ。そしてたら、そろいもそろって、『何のことでしょう? 自分は王国に忠実な海兵候補生です』などと、すっとぼけやがった」 


誰がいつ海軍を辞めるのか。

どの道を使うのか。

いつアルカディアへ向かうのか。

仲間同士でさえ、必要以上に尋ねない。


「それに、故郷へ帰るって辞めた奴らがいただろ」


「ええ」


「あいつらも、『もう海軍のことは俺には関係ない』で通してる。何を聞かれても知らん顔だ」


「誰も命じてないのに?」


「それくらいは分かるんだろ。情報統制が取れてて、まったく感心するぜ」


自分たちがしようとしていることが、誰に知られてはいけないのか。

イレーネは再び、練習生たちが消えた建物を見る。

午後の陽を受けた石造りの兵舎は明るく、その窓だけが四角い影を抱え込むように黒く沈んでいた。


来いと命じた覚えはない。

自分はもう、彼らの司令官ですらない。

それでも九十人近い全員が、自分たちとともにアルカディアへ来るという。


「……何で?」


口から漏れた。

ルシウスが呆れたようにこちらを見る。


「お嬢、本気で言ってるのか?」


「だって、全員よ?」


「だからだろ」


「何が?」


ルシウスはしばらくイレーネを見ていたが、やがて別の話を思い出したらしい。


「そういや最近、王都じゃアンナ嬢が大した評判らしいな」


「アンナ嬢? 何よいきなり」


「『王太子を堕とした魅惑の少女』だとか何とか」


イレーネは先日、カサンドラから聞いた話を思い出した。

どうやら、あの噂は海軍内でも広がっているらしい。


「随分と都合のいい話になってるわね」


「まあな」


ルシウスはつまらそうに顔をしかめて、鼻で笑う。

しかし、次の瞬間横目でイレーネを見て、面白そうににやけながら続けた。


「けど俺に言わせりゃ、王太子一人を堕としたアンナ嬢より、百人からの小僧どもをまとめて堕としたお前の方がよっぽどだ」


「何よ、それ」


「魅了の魔法でも使ったんじゃねえのか――」


ルシウスはわざとらしく煙を吐き、茶化した。


「――魔女殿?」


「魔女って何よ。魅了の魔法なんて使ってないわよ! おとぎ話じゃあるまいし」


「じゃあ何で全員来るんだ」


「知らないわよ!」


「本人にも分からん魔法か。厄介だなあ」


ルシウスはさも可笑しそうに、のどを鳴らす。


「あなたねえ――」


イレーネは文句を言いかけたが、ルシウスが涼しい顔で海へ向き直ったため、やめた。九十人近く。

本当に、一人も残らない。

先ほど、「提督」と嬉しそうにこちらを見ていた練習生たちの顔が浮かぶ。


「……別に、堕としてないわ」


「はいはい」


「その言い方やめて」


しかし、人数だけはどうにもならない。

イレーネは港を見ながら頭の中で数え始めた。

九十人近い練習生が、全員来る。

それは嬉しい誤算だった。

同時に――少々、困った誤算でもあった。

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