第59話 海を継ぐ一族
「ただし、俺は根から採る方の樹液だけは今でも嫌いだ」
それまで炭皮樹を褒めていたルシウスが、唐突に主張しだした。
「何よ。いきなり」
「炭皮樹の外板はいい。樹液だって、あれを維持するためには必要なもんだし、性能には文句ない」
「だったらいいでしょう? 何が不満なのよ?」
「樹液にアルコールを混ぜて使うだろ」
何やら一人でやさぐれ始めたルシウスを呆れた目で見つつ、イレーネは話の行き先を察した。
「またその話?」
ルシウスは、胡坐をかいた膝に片肘をつき、顎を乗せたままぼやき続ける。
「樹液をアルコールで一定の割合で希釈してから、船内から塗れば木の中まで染み込んで、防水にもなる。継ぎ目にも入る。炭皮樹の外板を維持するには必須な作業だ。回数も一年に一度やっときゃ十分だ。そこまではいい」
「だったら、いいじゃない」
「塗ってる間は船中がアルコール臭いんだよ。おまけに火も使えん」
「一週間もすれば抜けるでしょう? それに、あなたはタバコが吸えなくなるのが嫌なだけじゃない」
「その一週間が我慢ならねえんだよ」
ちょうど風向きが変わった。
潮の匂いに混じって、鼻を刺すような独特の臭いが微かに流れてくる。
ルシウスは顔をしかめると、口にしていたパイプを外し、忌々しそうに火を消した。
岸壁の奥に、整備中らしい艦が一隻停泊していた。
甲板には火気厳禁を示す赤い布が掲げられている。
ルシウスがそこを指す。
「ほら。あれ、昨日塗ったばかりだ」
「よく分かるわね」
「何年工廠にいると思ってる」
言われてみれば、イレーネにも確かにアルコールの匂いを感じることができた。
「タバコだけじゃねえ。酒に弱いやつは、あの作業だけは本当に駄目なんだ」
イレーネは何かを思い出したかのように、クスクスと笑い出した。
「そういえば、あなた、お酒飲めなかったわね。だからそんなに不機嫌なのね」
「うるせえ」
痛いところを突かれたのか、ルシウスは仏頂面をして横を向く。
「俺は、酒は飲めねえが、我慢して樹液塗り作業にも参加する。船を造るのも、乗るのも好きだ。何より海が好きなんだ。船乗りだからな。それに比べて今代ときたら――」
「んもう、痛いところ突かれたからって、ここにいないお父様に八つ当たりしないでよ。私のことおじいさまにそっくりって言ってたけど、都合の悪い時に露骨に話題そらそうとするところなんで、あなたも大概よ。弟子は師匠に似るのかしら」
先回りして、イレーネはルシウスを茶化すように遣り込める。
「俺は、先代の弟子なんかじゃねえ。恐れ多いわ。それに八つ当たりってわけでもねえ」
ルシウスは再び整備中の艦へ顔を向けた。
「テミストクレス様は、朝から晩まで船のことばっかりだった。俺たちはそんなあの人の姿に憧れて、必死で後ろ姿を追いかけた」
「それは認めるわ」
「それがどうだ。御屋形様は先代ほど船に入れ込んじゃいねえし、若様なんて船酔いするとかで逃げやがる。今代も次代も、揃いも揃って青瓢箪ばっかりだ」
「失礼ね」
イレーネは呆れたように腰へ手を当てた。
「父上の人を見る目は確かだわ。あなたを海軍工廠のボスに抜擢して、ずっと工廠に置いてるのが何よりの証拠でしょう」
「そりゃあ……まあな」
「それに兄上だって」
「若様がなんだよ?」
「私たちが好き放題やれてるの、誰がお金を出してくれてるからだと思ってるのよ」
畳みかけるイレーネに、ルシウスはばつの悪そうな顔をしたまま、何も答えられなかった。
近くを、二人の船大工が長い材を担いで通り過ぎていく。
工廠の奥では、職人たちが新しい船材を囲み、寸法を測っていた。
「新しい船を造りたい。試したい。失敗したからもう一回。そんなことばっかりやってるのに、兄上、一度だって止めたことないでしょう」
ルシウスは顎髭を撫でながら、しばらく黙った。
「……金を出すのは、若様の仕事だろうが」
「ほら。そうやってすぐ誤魔化す」
「でも青瓢箪は青瓢箪だ!」
「もう!」
ルシウスは仏頂面のまま海を見ている。
子供のようなルシウスの態度にイレーネは苦笑しつつも、彼が本気で父や兄を侮っているわけではないことはイレーネにも分かっていた。
ミハイルが海を軽んじたことはない。
コンラッドにしても、船に乗れば青い顔をしているくせに、造船や研究に必要な金を惜しんだことはなかった。
二人とも形は違えど、海を愛する一族、タラシア家としての誇りを忘れたことなど一度としてないのだ。
ただ、ルシウスにとっては、それと船に乗りたがるかどうかは別の話らしい。
「だから、お嬢が出てきた時は、親父も俺も喜んだんだけどな」
不意に、ルシウスが何かを懐かしむかのように口を開いた。
「私?」
「覚えてないか」
「何を?」
「初めて船に乗った時だよ。三つくらいだったか」
イレーネは記憶を探したが、さすがに三歳頃の記憶は何も出てこない。
「コンラッド様も一緒だった。あの頃で八つくらいだったかな」
「その時、兄上はどうしたの?」
「船に乗って半刻もしないうちに、青い顔して座り込んでた」
「ハァ、……兄上らしいわね」
そこだけはイレーネにも容易に想像でき、軽くため息をつく。
「ところがお前は逆だ。船が揺れるたびに、きゃっきゃ喜んでた」
「本当に?」
「ああ。甲板をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。船縁から海を覗こうとして止められたと思ったら、今度は反対側へ走っていく。挙句の果てに、ちょっと目離したすきに、舳先から前へ突き出したバウスプリットに上りやがって、俺たちは大慌てだったんだぜ。」
「私、そんなにだった? ちょっとやめてよ。恥ずかしいじゃない」
いきなり幼少時の黒歴史の暴露に、さすがのイレーネも慌てだす。
「だがな。親父なんて大喜びだったぞ」
「何でよ!」
「『この子は船好きになる。これでタラシア家も安泰だ』なんていってよ」
「まったく、三歳の子供に何を期待してるのよ」
「期待するくらいいいだろ」
ルシウスは悪びれもせず、当然のことのように言った。
「ミハイル様は船に乗っても普通。若様は酔う。それで、テミストクレス様の孫も船にはそこまで興味なしかって話してたところへ、お前だ」
「勝手ねえ」
「で、どうなった?」
ルシウスがにやにやしながら横目でイレーネを見る。
第二練習艦隊を率い、自ら海へ出て、暇があれば工廠へ顔を出す。
反論するには、あまりにも分が悪かった。
「……船好きにはなったわね」
「だろ」
ルシウスは、してやったりと妙に得意げだった。
いつの間にか風向きも戻っていた。
ルシウスはパイプに再び火を点けると、うまそうに煙を吸い込んだ。
イレーネが覚えてもいない昔から、ルシウスも、その父親も、自分を見ていた。
テミストクレスの孫娘としてというより、船を見て喜ぶ一人の子供として。
イレーネはそれ見たことかと言わんばかりのルシウスの態度に半ば呆れ、一方で、船乗りとして自分を歓迎してくれる姿に半ば嬉しさを感じていた。
遠くで水兵たちの号令が上がった。
先ほどの大型艦が防波堤の外へ出る。
遮るもののない風を受け、その帆が大きく膨らんだ。
ルシウスは紫煙をくゆらせながら、その姿を見送った。
「けど、テミストクレス様だけじゃないんだよな」
「何が?」
「あそこまで船を連れていったのは」
イレーネも水平線へ目を向ける。
「遠洋航海?」
「ああ」
百年ほど前まで、王国の船が進む海は、今よりずっと狭かった。
海岸線から大きく離れず、陸影を頼りに進む。
夜になれば安全な湾へ入り、何日も陸地の見えない海へ出ることは避ける。
それが、この国の船乗りにとって当たり前だった時代がある。
「沖へ出るための知識を持ち込んだのは、もっと前のタラシア家だ。何代もかけて船乗りに教えて、海図を作って、航路を広げた」
「一人の功績じゃないわ」
「分かってる。だから凄いんだろ」
風を読み、潮を読む。
太陽を、星を見て、自分たちの位置を測る。
長い航海に必要な水や食料を見積もり、通った海を記録し、それを次の船へ残していく。
今では船乗りなら当然のように学ぶことも、最初から王国にあったわけではない。
沖では、港へ戻る船と海へ出ていく船がすれ違っていた。
「今じゃアギア・エレニ島まで行くのだって、特別な航海じゃない」
「そうね」
「百年前の連中が見たら、何て言うんだろうな」
イレーネは水平線から、岸壁へと目を戻した。
軍艦。商船。輸送船。
黒い船腹を持つ船が並び、その中では祖父の時代に生まれた技術が当たり前のように使われている。
さらに、その船がどこまで海を渡れるのかと辿れば、祖父よりずっと前のタラシア家へ行き着く。
父は船を造る者たちを支えた。
兄は、新しいものを試し続けるための金を出した。
そして自分は、より遠くに行くために新しい船を模索し、自らその船に乗る。
「……結局、ずっとタラシア家なのね」
ルシウスはすぐには答えなかった。
しばらく海を眺めた後、
「まあな」
とだけ言った。
しばらくの間、波の音とウミネコの声を背景に二人して海を見つめていた。
すると、背後から、いくつもの足音が規則正しく近づいてきた。
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