第58話 テミストクレスの思い出
数日後、イレーネは王都の海軍要塞を訪れていた。
ひと月前までなら、第二練習艦隊司令として当然のように出入りしていた場所である。
だが今のイレーネには、ここで名乗れる役職はなく、ただの「タラシア家の令嬢」でしかない。
門前で名前を告げると、当直の兵士は困った顔をした。
「以前の執務室に、まだ私物が残っているの。片づけに来ただけよ」
イレーネはあらかじめ用意していたもっともらしい大義名分を、いかにも泰然とした態度で告げた。
兵士は詰所の上官へ確認に走った。
しばらくして戻ってくると、それ以上何かを尋ねることもなく門を開ける。
「どうぞ」
「ありがとう」
ひと月前のように、海軍提督を迎える敬礼はない。
それでも、その態度に冷たさもなかった。
むしろ、申し訳なさそうに視線を泳がせる兵士の目には、提督だったイレーネへの同情すら滲んでいる。
婚約破棄から、第二練習艦隊の解隊、提督位の剥奪まで、一連の処分を、海軍にいる誰もが当然のものとして受け入れているわけではないのだろう。
門を抜ければ、要塞の中は以前と変わらぬ騒がしさだった。
荷を担いだ水兵たちが行き交い、工廠からは金属を槌で打つ音が響いている。
岸壁には大小の艦が並び、その間を小舟が忙しなく行き来していた。
イレーネは潮の匂いのする風の中を歩き、工廠脇の岸壁へ向かった。
彼女の目的は、最初から執務室などにはない。
ルシウスは、ちょうど一隻の艦を見上げていた。
船尾近くに足場が組まれ、何人もの船大工が外板を調べている。
ルシウスはその一人に何かを指示すると、こちらへ近づいてくるイレーネに気づいた。
「よく入れてもらえたな」
「荷物の整理に来たって言ったら、通してくれたわ」
「本当に残ってるのか?」
「あるわよ。少しくらいは忘れ物が」
「忘れ物、ね」
深く追及するつもりはないらしい。
ルシウスはにやりと不敵に笑うと、周りを見回した。
「まあ、海軍全部がお前を追い出したいわけじゃないってことだろ。ここじゃなんだから、少し場所を移すか」
イレーネは何も答えず頷くと、ルシウスの後に続いた。
工廠から少し離れた岸壁まで歩くと、ルシウスは再び海へ向き直り、おもむろにその場に胡坐をかき座り込んだ。
イレーネはそのまま隣に立ったままだ。
ルシウスは懐から煙草入れと短いパイプを取り出した。
慣れた手つきで刻み煙草を詰め、火をつける。
ひと口吸って紫煙を吐き出すと、ちょうど岸壁の向こうで一隻の大型艦が出港の準備をしていた。
今では海軍の標準となったオリンポス級だ。
甲板から号令が飛び、太い係留索が外された。
帆が上がり、風をはらむ。巨大な船体が、岸壁からゆっくりと離れていった。
ルシウスは、その船を船首から船尾まで感慨深く眺めた。
「しかし、でかくなったもんだな」
「今さら?」
「今さらだから思うんだよ。毎日見てると、昔はこんな船じゃなかったことを忘れそうになる」
沖へ向きを変えた艦が、巨大な横腹を二人へさらす。
高い船楼。幾重にも重なる甲板。その下には、砲門が長く列を作っている。
「先代のテミストクレス様が最初に大砲を載せたのは、普通のキャラックだったんだろ」
「陛下を海に落としかけた時の話?」
「海軍じゃ知らない奴の方が少ないぞ」
「おじい様から聞いた話だと、そこまで大事じゃなかったことになってたわよ」
果たしてそこまで有名な話だっただろうかと首をかしげるイレーネを見て、ルシウスは面白そうに鼻を鳴らした。
その目元には、今の海軍の基礎を築いた変人への、確かな敬意が滲んでいる。
「本人が話せばそうなるだろうな。コンスタンティン陛下を呼びつけて、目の前で大砲を撃ったら反動で船がひっくり返りそうになったんだから」
「呼びつけたんじゃないわ。お連れしたの」
「物は言いようだな」
大型艦が白い尾を曳き、波を押し分けながら進んでいく。
二人の顔に、きらきらと光る波頭の照り返しが揺れ、磯臭い潮風が通り抜けていった。
「当時のキャラックじゃ、甲板の上であんなものを撃てば重心も高い。反動を受けりゃ盛大に揺れる。普通なら砲を小さくするか、積む数を減らすところだ。それが常識だったんだぜ」
「でも、おじい様は船の方を大きくしようとした」
「そうなんだよ。そこからして、まともな職人の枠には収まらない変人の発想なんだよ」
「失礼ね」
「褒めてるんだよ。凡人には絶対にまねできんからな」
ルシウスはパイプをくわえたまま、大型艦から目を離さない。
「もっとも、船体だけ大きくすれば済む話でもない。長くすれば、その分だけ波を受けたときに竜骨にかかる力も増える。当時の材料じゃ、あれ以上の長大化は厳しかった。一歩間違えれば、自重と大砲の重みで船体が真ん中からへし折れるところだ」
「そこでおじい様による竜骨木の発見が道を切り開いたのよね」
「あれがなきゃ、今みたいな大型船はもっと後になってただろうな」
ルシウスの口調には一片の疑いもない。
「水へ浸ける期間さえ間違えなければ、大きく曲げても割れにくい。それでいて材としての強さもある。長さが足りずに継ぐ必要があっても、独自の接合剤を使えば継ぎ目がほとんど一体になって、一本の木と変わらない強度になる」
「最初は炭皮樹の出来損ないだったって」
「ああ。炭皮樹に似てるくせに性質が違うから、現地の住民も含め、育ち損ねた木だと誰もが思っていたんだ」
「でも、同じ木ならどうして性質が違うんだって、おじい様は疑ったのよね。さすがに私も、どうしてそういう発想に至ったのか想像もつかないけど」
イレーネは腕を組みながら、口をへの字に曲げて話す。
「誰もがそう思ったさ。それで調べたら、本当に別種だった。今だから言うが、調べ始めた時は俺の親父も含めて皆、先代に『無駄なことさせるな』って食ってかかったんだぜ。あの執念には恐れ入るよ」
ルシウスが見上げると、イレーネは片目をつむって、どこか得意げに見下ろしていた。
「その竜骨木も、今じゃアルカディアでも育ててるわよ」
「三十年以上も前に先代が植えたやつが、ようやく使い物になり始めたところだろ。今植えてる若木が主力になる頃には、俺は墓の中だよ」
「植えなかったら、その頃になっても一本もないでしょう?」
イレーネを見上げるルシウスに対し、片目をつむって見下ろすイレーネはどこか得意げだ。
「タラシア家は昔からそれだな。十年先、二十年先のためなら平気で金を使う」
「必要でしょう?」
「必要だから誰も止められん。そこがタラシアの恐ろしいところだ」
艦がさらに向きを変えた。
黒い船腹に等間隔で並んだ砲門が、今度ははっきりと見える。
ルシウスがそちらへ、短く顎をしゃくる。
「船が大きくなれば、砲も増やせる。だが、ただ甲板へ並べるだけじゃ重心が上がるし、帆を扱う船員の邪魔にもなる」
「だからおじいさまは、船腹へ降ろしたのよね」
「そう。砲の位置が下がれば船も安定するしな。今の海戦じゃ、あれがない方が考えにくい」
すぐ近くの別の艦では、ちょうど砲の点検が行われていた。
開いた砲門の奥、薄暗い砲甲板の隙間で号令が上がる。
水兵たちが一斉に綱を引くと、大砲を載せた低い砲架が、四つの木製の車輪を軋ませながら後ろへ下がった。
ルシウスの目が、自然とそちらへ移る。
「ただ、砲を船腹へ入れるためには、従来の砲架のままじゃまずかった。車輪もでかくて、砲身の位置も高い。天井の低い船内じゃすぐには使えなかった。今度は扱う場所が狭すぎたんだ」
「四輪砲架の導入よね。おじいさまに聞いたことがあるわ。子供がおもちゃの荷車を紐で引きずっているのを見てひらめいたんですって」
可笑しそうに、口に手を当ててイレーネが話した。
「へっ。そんないきさつがあったとはね。あるとき、いきなり先代が工房にやってきて、板に四つの車輪つけて、その上に砲を乗せろっていいだしてな。反動をそのまま後退に使って、下がったところで装填する。終わればまた前へ押し出す。確かに、狭い砲甲板でも効率よく砲を回せるようによくできていた」
水兵たちは慣れた手つきで再び綱を引いた。
砲架が前へ進み、黒い砲口が砲門から突き出す。
「今じゃ当たり前みたいにやってるけどな。砲門だけ並べても、砲をまともに扱えなきゃ意味がない」
「おじい様は、狭いなら砲を動かせばいいって言ってたらしいわよ」
「簡単に言うなあ、あの人は」
「本人には簡単だったんじゃない?」
「周りが大変なんだよ。今だって反動はブリーチング・ロープで受け止めて、下がった砲架を滑車と綱で引き戻す。砲を動かせるようにした分、索具の扱いまで増えたんだぜ。『動かせばいい』の一言で済むほど簡単じゃなかったんだよ」
ルシウスは当時を思い出したのか苦々しげに煙を吐いた。
港口へ向かう艦の船尾では、操舵手が大きな輪を回している。
ルシウスは今度はそちらを見た。
「それだけ船を大きくしたら、今度は舵だ。重くて従来の舵柄だけで動かすのは骨が折れた。特にタッキングじゃ、思うように舵が切れなくなっちまってな。そこで先代が、操舵輪に巻いた索を滑車に通して、舵柄へ力を伝えるようにした」
「おじいさまの日記にその辺のこと詳しく書いてあったわよ。何か月もの間、日記にはそのことばかりね。ほうぼうの技術者とも交流していたみたいだし、いいアイデアが浮かばなくてずいぶん苦労してたみたいよ」
イレーネの話を聞いたルシウスは船を見ながらクツクツと喉を鳴らした。
ざまあ、とでも思っているのかもしれない。
テミストクレスに振り回された人々が、そう思うのも無理はない。
イレーネにもその気持ちは分かるので、何も言わず、そのまま、ぼんやりと船尾を眺めた。
「こうして聞くと、本当に自分で問題を増やしてるわね」
「だろ?」
「でも全部解決したわ」
「そこなんだよな」
ルシウスの声には、長く船に関わってきた者らしい呆れと敬意が同居していた。
「あの人は、自分で船をでかくして、自分で扱いにくくして、そのたびに自分で何とかしてた」
「おじい様らしいわ」
大型艦が二人の前を通り過ぎる。
波に持ち上げられた船体の下半分が露わになり、焼け焦げたように黒い外板が、濡れた光を返した。
「それに、あれ」
イレーネが黒い船腹を示した。
「炭皮樹か」
「これもおじい様でしょう?」
「利用し始めたのはな。木そのものはケイニの連中がずっと使ってた」
炭皮樹は、ケイニでも竜の生息域に近い土地にしか育たない。
焼け焦げたような姿をした木で、現地では古くから家屋の壁板に使われている。
「シロアリが寄りつかないからな。それを見て、先代がフナクイムシにも効くんじゃないかと考えたんだよ。だからなんでそういう発想になるんだよって、俺の親父も含めて工房のみんなが首をかしげたもんさ」
ルシウスのぼやきを聞いて、イレーネがおかしそうに口に手を当てた。
「別に、白アリがつかないからって理由じゃなかったそうよ。とにかく船にとってフナクイムシは天敵みたいなもんでしょう? それで、虫よけになりそうなものなら片端から試してみただけだって」
ルシウスは合点がいったように頷き、足元の海を見下ろした。
「なるほどね。そういう事情があったってことか。でも、結果としては当たってた。あれを外板に使うと、フナ食い虫にほとんど食われない。それだけでも船材として十分すぎるくらいだ。その上――」
「フジツボも付きにくかった、でしょ?」
ルシウスは顔を上げ、イレーネの方に向くと、イレーネは茶目っ気たっぷりにニコニコしていた。
「嬢ちゃん、人の台詞を取るんじぇねえよ。ったく。――まあ、あっちは嬉しい誤算だったな。船底に余計なものが付かなきゃ、速力も落ちにくい。陸へ上げて削り落とす手間だって減る。あの時の先代のドヤ顔といったら、うざくて仕方がなかったぜ。そういう意味じゃ嬢ちゃん、先代そっくりだぜ」
不意の反撃に、イレーネは目を丸くする。
ルシウスは、可笑しそうに海を見ながら笑った。
そこへ、一隻の商船が大型艦の向こうから姿を現した。
荷を満載した民間の船である。
だが海面近くから下は、軍艦と変わらない黒い外板で覆われていた。
その後ろから入港してきた別の輸送船も同じだった。
「それも、今じゃ海軍だけのものでもない」
ルシウスが言った。
「海へ出す船なら、使えるものは使うさ。商船だろうが輸送船だろうが、フナ食い虫は同じように食う」
「河の船にまで張る必要はないでしょうけどね」
口をとがらせ、横を向くイレーネが一言付け加える
「クックックッ。そりゃそうだろうよ」
港を見渡せば、岸壁に並ぶ海船の多くが同じ黒い船腹をまとっている。
いつしかそれは軍艦の特徴ですらなくなっていた。
王国で海へ出る船、そのものの姿になっている。
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