第57話 夏の日傘の下で
双子に声をかけてから数日後。
八月も終わりに近づいていたが、王都を照らす陽光には、まだ真夏のぎらつきが残っていた。
肌を刺すような日差しを避けて建物の影へ入れば、乾いた涼風が通り抜ける。その風には、ほんのわずかに秋の気配が混じり始めていた。
それでも、大通りは相変わらずの賑わいだった。
荷馬車が石畳を鳴らして行き交い、軒を連ねる商店からは客を呼び込む声が響いている。
強い日差しを避けるため、色とりどりの日傘を差した女性たちが人波の中を歩いていた。
その中に見覚えのある姿を見つけ、イレーネは足を止めた。
淡い色合いの布を張った日傘。
最高級のファイアーモスの糸で織られた、一目でそれと分かる上等な品だ。
その下にいる女性も、ほとんど同時にイレーネに気づいたらしい。
「あら、イレーネ様。奇遇ですね」
「カサンドラ様」
カサンドラが日傘をわずかに傾け、美しい笑みを浮かべた。
「こんなところで、どうなさったんです?」
「少し人に会っていたんです。カサンドラ様は?」
「サロンでの買い物の帰りです。でも、この日差しでしょう?」
カサンドラは空を見上げるように日傘を傾けた。
そのまま、道沿いの小綺麗な茶店へ視線を向ける。
「少し休んでいきませんか?」
「ぜひ」
二人は大通り沿いの茶店へ入った。
店先には大きな麻の日除けが張られ、その下には通りを眺められる席がいくつか並んでいる。
日陰へ入れば、乾いた風が汗ばんだ肌を撫でていった。
カサンドラは日傘を畳んで椅子の脇へ立てかける。
ほどなくして、冷やした果実水が二人の前へ運ばれてきた。
「お元気そうで安心しましたわ」
グラスの水滴を見つめながら、カサンドラがそっと切り出す。
「何ですか、急に」
「もう少し落ち込んでいらっしゃるかと思っていましたので」
何のことを指しているのかは、聞き返すまでもなかった。
「婚約のことですか?」
「ええ」
イレーネはグラスを手に取り、軽くウィンクをする。
「今さら落ち込んでも仕方ありませんから」
「イレーネ様らしいですね」
カサンドラも、艶やかな唇を綻ばせるだけで、それ以上は踏み込まなかった。
そのまま互いの近況を話しているうちに、イレーネがふと思い出したようにグラスを置いて尋ねる。
「そういえば、ニコラス殿下とはもうお会いになりましたか」
「ええ。早速お目にかかりましたわ。ずいぶんとお悩みのようでした。なかなか難題を抱えてるようで」
カサンドラは、意味ありげな視線でイレーネを一瞥する。
「でしたら、もうしばらくご苦労なさればいいのですわ」
カサンドラが意外そうな顔をする。
「イレーネ様にしては、随分な言いようですわね。そんなに殿下と仲が悪いのでしたかしら」
「だって、あの方、いつも会うたびに余計な一言というか、嫌味ばかりおっしゃるんですもの。ちょっとくらい意地悪したくもなりますわ。さすがに今回は、少しくらい悪いとは思いましたけれど、こればかりは譲れないものがありまして」
「イレーネ様のお立場は理解しておりますわ。でも、ニコラス様も、嫌味をおっしゃっているつもりはないんですよ。あれでも彼なりに、イレーネ様を気遣っているつもりなのでしょうけれど……」
「それが一番質が悪くて困るんです」
即座に返された言葉に、カサンドラの表情がわずかに崩れた。
「それに、あれで根は実直ですし、良いところもあるんですよ」
「あら、ずいぶん擁護なさるんですね」
「又従兄弟ですもの。昔から知っていますから。言い方は少々あれですけれど、悪気がないことくらいは分かっています」
「それも十分、分かってはいるんですけどね……」
イレーネはテーブルに頬杖を突いて、ため息交じりに果実水をひと口飲んだ。
ニコラスに悪意がないことくらい、イレーネとて知っている。
人の話に真摯に耳を傾け、最善を尽くそうと真面目に考える所は好ましいとさえ思っている。
だから、思ったことをそのまま口にしているだけなのだろう。
それでも、聞かされる側としては別の話だった。
とにかく、絶望的に言葉の選択に気遣いが足りていない。
「でも、やっぱり私は苦手です」
「それは仕方ありませんね。実のところ、同じように苦手になさるご令嬢は多いですし。婚約者がなかなか決まらないのも、まあ……」
カサンドラも、そこまで擁護するつもりはないらしい。
そっぽを向いているイレーネを見て、一瞬、行儀の悪さを指摘すべきかどうか頭をよぎるが、もうその必要もないかと考え直す。
むしろ、今の姿の方がイレーネのありのままの魅力があふれていると感心すらした。
カサンドラは、以前よりイレーネとの距離が近くなったとさえ感じた。
ニコラスの話題が一段落したところで、二人はしばらくの間、通りを歩く人々を静かに眺めていた。
やがて、イレーネが少しにやけながら、口を開く。
「そういうカサンドラ様は、どうなんです?」
「私ですか?」
「ええ。カサンドラ様なら、引く手あまたでしょう?」
「あら。イレーネ様に心配していただかなくても、まだ困ってはいませんわ」
どこか含みのある笑みを返されるが、イレーネは面白そうだとばかりに、興味津々で尋ねる。
「じゃあ、レオンなんてどうです?」
カサンドラの笑みが止まった。
眉間に深いしわを寄せながら、口の端がわずかにひくつく。
「外務大臣卿ご子息の? ……冗談でしょう?」
「そんなに嫌ですか?」
「嫌というわけではありませんわ。仕事はできますし、頭も切れます。見栄えも悪くありませんし、いざという時には頼りになる。男としては、かなり上等な方でしょうね」
何か地雷でも踏んだのかと、目を丸くするイレーネに対し、カサンドラは慌てて取り繕うように早口でまくし立てた。
「だったら、いいじゃないですか」
「でも、私は御免です」
「どうしてです?」
「あんな腹黒い方と毎日一緒にいたら、気が休まりませんもの」
「……腹黒?」
イレーネが、出てきた単語が何を意味するのか本気で分からないとばかりに、怪訝な顔をして首を傾げるので、カサンドラの方が目を瞬いた。
「……イレーネ様、本気でおっしゃっています?」
「ええ。確かにいろいろ難しいことを考えているなあとは思います。それに、外交に携わっていますから、軽々しく口にできないこともあるんだろうとは思いますけど、そんなに腹黒いですか?」
カサンドラは黙ってイレーネの顔をまじまじと眺めていたが、どうやら本当に分かってないらしい。
「レオンは、いつも笑顔で、ずっと親切ですよ。なんでも話聞いてくれますし……」
声が次第に小さくなり、心ここにあらずとなっていくイレーネを見て、ふと時折見掛ける、イレーネと楽しそうに話すレオンの姿を、カサンドラも思い出す。
高位貴族の世界は存外狭いもので、二人の王子と同様に、レオンのことも昔から知っている。
人の感情には妙に敏いくせに、自分自身のこととなると案外鈍い男だ。
なるほど、パズルのピースがパチリとはまった感じがして、カサンドラの口元が自然とにやけてくる。
一方イレーネはというと、だんだんと自らの思考の海に引きずられていく。
脳裏には、あの日何も言えず、ただ自分の名前を呼んでいたレオンの顔が浮かんでいた。
いつもの軽口もなく、ただ心配そうに見つめていたあの眼差しを。
「……それに、ちゃんと心配もしてくれました。でも、悪いことしちゃったな。あれから会って話もしてない……」
「へえ」
ぽつりとつぶやくイレーネに、カサンドラの声がわずかに変わった。
視線に気づいたイレーネが、目の前のカサンドラをはっとして見る。
「いいえ。そうですか。レオンはあなたには優しいですよねえ」
何が可笑しいのか、カサンドラの口元には微かな笑みが浮かんでいる。
なんだか妙にからかわれているらしいと気づいたイレーネは、その整った眉を八の字に寄せた。
「だから、何なんです?」
「何でもありませんわ」
答えながら、カサンドラは果実水に口をつけ、ちらりとイレーネを見た。
レオンがイレーネにどんな顔を見せているのか。
そして、イレーネがそれをどう受け取っているのか。
どうやら、自分が思っていたより少しばかり面白いことになっているらしい。
――これは、黙っていた方がよさそうですわね。
追及するイレーネをよそに、カサンドラは涼しい顔をしていた。
果実水が減るにつれて、グラスの中の氷が、カランと音を立てた。
なおも追求しようとカサンドラを半眼で見つめるイレーネをはぐらかすかのように、今度はトーンを落として口を開いた。
先ほどまでの軽やかな声色が、わずかに低くなる。
「そういえば、最近はアンナ嬢も随分と評判になっているようですわね」
「ああ。市井の噂ですね。私もいくつか聞きました」
明らかに話題を変えてきたカサンドラに、これ以上先ほどの態度について聞いても仕方がないと、イレーネも話題に乗る。
「『王太子を射止めた魅惑の少女』でしたか。まったく、詩人が喜びそうな安っぽい演目のようです」
「『真実の愛を選んだ王太子』というのもありますわねえ」
カサンドラはグラスを手にしたまま、通りの人波へ目をやった。
王太子の婚約破棄は、すでに王都の人々にとって格好の噂話になっているらしかった。
「まったく、分かりやすいことをなさいますわね。あの程度の見え透いた仕掛けでは、社交界などとても渡っていけませんのに」
「ただの不実を『美談』に仕立て上げたいのでしょう。滑稽ですが、あの方々に乗せられて本当に信じている方もいるみたいです」
「本当に、小賢しいこと」
カサンドラはそれだけ言うと、グラスに口をつけた。
誰が最初に流した噂なのかまでは分からない。
だが、婚約破棄を王太子の身勝手ではなく、身分を越えた美しい恋物語に置き換えれば、誰にとって都合がいいのか。
わざわざ言葉を重ねるまでもなかった。
「まあ、私は別に構いませんけど」
「イレーネ様がそうやって全く気になさらないのでしたら、それでいいのでしょうね」
そこでカサンドラは椅子の脇に立てかけた日傘へ目をやった。
通りの向こうでも、似たような日傘がいくつも揺れている。
その下を歩く貴婦人たちの中には、ファイアーモスの糸を使った軽やかなドレスを身にまとった者も少なくなかった。
「今年は、まだ大丈夫でしょうけれど」
不意にカサンドラが独り言のように言った。
「何がです?」
イレーネが問い返すと、カサンドラは傍らの日傘を指先で示した。
「これです」
「ファイアーモス?」
「ええ。今年の分はもう注文も済んでいますし、品物も入っています。ですから、すぐに困ることはないでしょう」
イレーネにも、ようやくカサンドラが気にしているものが分かった。
「でも、ファイアーモスはあまり長持ちしませんものね」
「ええ。日傘もドレスも、毎年新しいものが作られますから」
カサンドラは再び華やかな大通りへ目を向けた。
「ファイアーモスなら、今ではアルカディアでも作られていますけれど、こういう上等な品はまだサルヴァーノ産でしょう?」
「そうですね」
カサンドラは通りを行き交う日傘を眺めたまま続けた。
「その品も、アルカディアを経て王都へ入ってくるのでしょうけれど――」
イレーネもつられるように、通りの華やかな日傘を見た。
「――今のままで、来年も同じように揃うのかしらと思いまして」
大通りには今も、華やかな日傘がいくつも浮かんでいた。
店先には色鮮やかな布が並び、仕立屋の窓には新しいドレスが飾られている。
少なくとも今は、何一つ不足しているようには見えない。
「ファイアーモスの服は、夏だけのものでもありませんものね」
「ええ。今年あるからといって、来年もあるとは限りませんから」
カサンドラはそれ以上、理由を説明しなかった。
必要もなかった。
サルヴァーノから運ばれてくる高級品。
それを王都までつなぐアルカディア。
そして、今回の婚約破棄をきっかけに、王家との間に距離を置き始めたタラシア家。
カサンドラが何を考えているのか、イレーネにも分かった。
「イレーネ様たち、本当に王家と距離を置かれるおつもりなのですね」
問いかけというより、確認に近い口調だった。
イレーネも否定しなかった。
「今まで通り、というわけにはいかないでしょうね」
「それだけですか?」
「今のところは、それだけです」
カサンドラはしばらく、探るようにイレーネを見ていた。
だが、これ以上の詮索は美しい淑女の作法に反すると言わんばかりに、何も尋ねなかった。
「では、私も聞かないことにします。深入りは無粋でしたわね」
「ありがとうございます」
イレーネはグラスを置いた。かすかな氷の音が、会話の終わりを告げるように響く。
「カサンドラ様は、しばらく王都に?」
「いいえ。私も一度、西へ戻ろうと思っています」
「ゴアへ?」
「ええ。母と少し話しておきたいことがありますので」
イレーネはカサンドラを見た。
カサンドラも静かにその視線を受け止めている。
母であるテオドラと、何を話すつもりなのか。
正確なところまでは分からない。
ただの帰省ではない。
カサンドラもまた、何かを見据えて動き始めている。
それだけは察することができた。
そして、おそらくカサンドラも同じなのだろう。
タラシア家が王都から人を引き上げ、王家との距離を広げている。
その先に何があるのかまでは分からなくとも、単に腹を立てて故郷へ帰ろうとしているだけではないことくらいは察している。
けれど、どちらも相手の先へ踏み込もうとはしなかった。
「カサンドラ様も、これからお忙しくなりそうですね」
「お互い様でしょう。アルカディアには、いつお戻りになるんです?」
「まだ未定ですが、そう遠くないうちには」
やがて二人は席を立った。
店先へ出ると、カサンドラが再びファイアーモスの日傘を開く。
まだ夏の力を失っていない陽光が、薄い布の上で白く弾けた。
「では、また」
「ええ。またお会いしましょう、カサンドラ様」
二人はそこで別れ、それぞれ違う方向へ歩き始めた。
大通りでは馬車が石畳を鳴らし、商人たちが声を張り上げている。
色鮮やかなファイアーモスの日傘が行き交い、華やかなドレスが強い日差しの中を揺れていた。
王都は今日も、何一つ変わっていないように賑わっている。
けれど、通りを行き交う華やかな日傘の向こうに、二人はそれぞれ別の変化を見始めていた。




