第54話 話の通じる先輩
その日の夜。
王都外れの陸軍要塞、その門前に広がる小さな町は、昼間とは違う賑わいを見せていた。
兵士や士官を相手にする酒場や食堂には明かりが灯り、開け放たれた扉の向こうから笑い声が漏れている。
イレーネはその一軒、酒場を兼ねた食堂の奥に取った個室で、一人椅子に腰を下ろしていた。
朝は陸軍要塞。
昼過ぎには王都へ戻り、そのまま取引先との面会。
それを終えて、再び馬車で郊外まで戻ってきた頃には、もうすっかり日が暮れていた。
「……今日はよく動いたわね」
誰に言うでもなく呟き、卓上に置かれた飲み物へ手を伸ばす。
さすがの彼女も少し疲れたのか、その所作はいつもよりわずかに緩やかだった。
壁一枚向こうからは、兵士たちの大きな笑い声や、皿と杯が触れ合う音が絶え間なく聞こえてきた。
イレーネは椅子の背へ少しだけ身体を預ける。
昼間の砲声が、まだ耳の奥に残っているような気がした。
朝から嬉々として大砲を撃ち続けていたティア。
あの姿を見ていると、昔のことを思い出す。
王立学園にいた頃も、あの子は変わらなかった。
ティア・リュカオンととマクシム・リュカオン。
双子の姉弟は、イレーネより一つ下の学年だった。
王立学園では、基礎科目の多くは学年ごとに分かれていたが、専門科目の一部は選択制で、学年を越えて同じ講義を受けることがあった。
将来、陸軍へ進むつもりだった双子は、戦術論や砲術、軍制といった軍事系の科目を好んで取っていた。
一方のイレーネも、将来タラシア家の提督位を継ぐことを前提に、海軍関係だけを学んでいたわけではない。
戦術。軍制。兵站。砲術。
陸と海の違いはあっても、知っておいて損になるものではなかった。
だから三人は、軍事系の講義でたびたび顔を合わせた。
ある日の戦術論の授業でも、そうだった。
教壇では、初老の教官が王国陸軍の歩兵運用について説明していた。
「歩兵戦列の基本は、槍兵による正面の保持にある。敵の騎兵突撃に対しては――」
何度も聞いた内容だった。
王国陸軍では今も、長槍を持った兵士を密集させた槍衾が歩兵戦術の中心にある。
弓兵や銃兵といった遠距離兵も存在するが、あくまで補助だった。
射撃によって敵を乱し、槍兵が敵の動きを止める。
最後に騎兵が突撃する。
少なくとも、それが今の王国軍の常識だった。
「先生」
不意に声が上がる。
教室の端に座っていたマクシムだった。
周囲の学生が、揃って小さく肩を落とした。
また始まった。
そんな空気が、あからさまに広がる。
教官も似たような、心底うんざりした顔をしていた。
「なんだ」
「銃兵をもっとまとめて使うことはできないんですか?」
「まとめて?」
「はい。少人数ずつばらして撃たせるんじゃなくて、ある程度まとまった数を一つの部隊として運用するんです」
教官が眉を寄せる。
マクシムは構わず続けた。
「一発撃って終わりじゃなくて、部隊として順番に撃ち続ける。そうすれば、騎兵の突撃とは違う形で、正面に圧力をかけられるんじゃないかと思うんです」
教室のあちこちから、小さなため息が聞こえた。
「また銃の話かよ」
誰かが小声で呟く。
教官は腕を組んだ。
「理屈だけなら分からんでもない。だが、今の銃でそれをどうやる?」
「装填が遅いのは分かっています」
「点火も安定しない。銃そのものの規格も揃っていない」
「それも分かっています。でも――」
「二発目を撃つ前に敵が来る」
教官の容赦ない言葉に、マクシムは一度口を閉じた。
だが、すぐにまた顔を上げる。
「だから、そこをどうにかできないかって話です」
「今ある装備で戦うのが軍人だ」
教官はそこで一度言葉を切った。
「まとまった数で飛び道具を浴びせたいというのなら、今は弓兵を集中して使った方がまだましだ。銃兵を何十人、何百人と並べたところで、二発目を撃つ前に敵に詰められては意味がない」
マクシムは何か言いたげだったが、教官は片手を上げて制した。
「まあ、いい機会だ。次の授業では少し予定を変えよう」
教官は教室を見渡した。
「今の王国軍が、なぜ槍兵で敵を止め、騎兵で決着をつける戦い方になったのか。その成り立ちについて講義しよう」
教室のあちこちから、今度は別の意味でため息が漏れた。
ただ一人、マクシムだけが、妙に嬉しそうな顔をしていた。
「でも、今ある装備が変わることだってありますよね」
教室の空気が、さらに重くなる。
周囲がうんざりしている理由も分からなくはない。
マクシムは、一度疑問を持つと納得するまで引かない。
しかも軍事の話になると、なおさらだ。
そして、その隣にいる姉も大概だった。
「でも先生」
今度はティアが口を挟んだ。
「銃より先に、砲の方を何とかした方がいいと思います」
教室の何人かが天井を仰いだ。双子揃っての追撃に、いよいよ講義の終わりが見えなくなったことを悟ったらしい。
「ティア・リュカオン、お前まで何だ」
「だって砲も、作る工房によって寸法が微妙に違うじゃないですか」
「それがどうしたというんだ」
「砲弾も合わなくなるし、砲架だって交換できないでしょう? 最初から同じ寸法で作ればいいのに」
「工房ごとに設備も技術も違う現状では難しい問題だな」
「だから揃えればいいんです」
「簡単に言うな。そのための制度整備もいる。どの規格を標準にするか決めれば、工房同士の利害もぶつかる。そうなるともう、戦術の講義の範疇からは外れて、政治の世界の話になる」
「簡単じゃないですけど、やらない理由にはならないですよね?」
教官のこめかみが、わずかに引きつった。
マクシムが横から口を挟む。
「姉さん、今は歩兵の話だ」
「砲兵だって歩兵を助けるでしょ」
「そういう話じゃない」
「同じ軍隊の話じゃない」
「だから――」
今度は双子同士で言い合いが始まった。
周囲の学生たちは完全に諦めていた。
イレーネだけが、頬杖をつきながら楽しそうに二人を眺めていた。
祖父テミストクレスを見て育ったせいかもしれない。
船の話を始めれば食事を忘れ、奇妙な部品を見つければ何時間でも眺め、思いついたことをその場で試さずにはいられない。
ああいう人間が身近にいたせいで、イレーネは少し変わった人間に対する耐性があった。
むしろ、好きだった。祖父と同じように、常識にとらわれず物事を考える人間に、自然と親近感が湧くのかもしれない。
授業が終わると、学生たちはやれやれとばかりに次々と教室を出ていった。
マクシムとティアも荷物をまとめていた。
イレーネはその二人の前まで歩いていく。
「ねえ、あなたたち」
双子が揃って顔を上げた。
「はい?」
「さっきの話、もう少し聞かせて」
二人とも、一瞬きょとんとした。
「……どっちの話ですか?」
「両方」
イレーネは弾けるような笑顔を向けた。
「お昼、まだでしょ?」
イレーネの勢いに押し切られるようにして三人は、そのまま学園の食堂へ向かった。
最初はどこか遠慮していた双子も、話し始めればすぐに止まらなくなった。
マクシムは、どうすれば射撃の回転数を上げられるのか。
いかにして、銃兵を集団として素早く動かし、戦場で効果的に使うのか。
ティアは、なぜ砲の口径や砲架が工房ごとに違うまま放置されているのか。
砲の規格化をしたら、どんな利点が生じるのか。
イレーネは途中で遮ることも、笑うこともしなかった。
むしろ、
「それなら、装填の手順そのものを分けたらどうなるの?」
「砲架の寸法を揃えるなら、車輪も同じ方がいいんじゃない?」
と、海軍で見聞きしたことをもとに質問まで返してくる。
双子は何度も顔を見合わせた。
話が通じる。
それが、二人にはずいぶん新鮮だったらしい。
それからというもの、軍事系の講義で顔を合わせれば、三人は自然と話すようになった。
イレーネにとっては、少し変わった後輩。
双子にとっては、自分たちの話をまともに聞いてくれる、数少ない、そして最も尊敬できる先輩だった。
――そういえば、あの頃からずっと変わってないのね。
昼間、砲煙の中で楽しそうに板へ数字を書き込んでいたティアの姿を思い出し、ついにやけてしまう。
そのとき。
個室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
扉が開く。
先に顔を出したのはティアだった。
顔についていた煤は綺麗に落とされていたが、髪にはまだかすかに硝煙の匂いが残っている。
その後ろに、よく似た顔立ちの青年が立っている。
双子だけあって目元や鼻筋はよく似ているが、受ける印象は随分と違う。
マクシムはティアより頭一つほど背が高く、肩幅も広い。訓練帰りなのだろう、軍服の袖や靴にはまだ薄く土埃が残っていた。
じっとしているだけでも何か始めそうなティアに対し、マクシムはどこか落ち着いていて、少し不機嫌そうな顔が妙に板についている。
「お待たせしました、先輩」
「久しぶりです、イレーネ先輩」
イレーネは卓上の杯を置いた。
「久しぶり、マクシム」
そして二人を見比べる。
昔と変わらない二人の姿に、思わず顔がほころぶ。
「まあ、座って。今日は二人に話があるの」
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