第53話 砲声の向こうの旧友
ソフィアと話した翌日。
王都は相変わらず朝から雲一つない快晴だった。
強い夏の日差しの下、イレーネは王都の外れにある陸軍要塞の門前に立っていた。
王都防衛のために築かれた要塞で、厚い石壁の内側には兵舎や練兵場が並び、その一角には新兵や各兵科の兵を育てる訓練校も置かれている。
今日のイレーネは、いつもの彼女を知る者なら一度は振り返るような格好をしていた。
飾り気のない薄茶色のドレス。
生地も仕立ても、下級貴族の娘が普段着にする程度のものだ。
耳飾りも首飾りもなく、赤い髪はきっちりまとめて地味な帽子の中へ押し込んでいる。
門衛に名乗ったのも、もちろんイレーネ・タラシアではない。
「――ティア・リュカオンとマクシム・リュカオンの親類です。面会をお願いしたいのですが」
あらかじめ考えておいた偽名を告げると、門衛は帳面を確認し、しばらくして中から案内役の兵士を呼んだ。
海軍であれば、さすがにこの程度の変装では危なかっただろう。
だが、ここは陸軍、それも新兵や下級士官が多く出入りする訓練施設だ。
婚約破棄の一件で名前だけは知っていても、イレーネ本人の顔まで覚えている者はそう多くない。
案内の兵士について門をくぐる。
城壁の内側は、朝から騒がしかった。
号令。軍靴の音。木槍のぶつかる乾いた音。
広い練兵場では、何列もの新兵が長槍を構え、教官の怒鳴り声に合わせて前進と停止を繰り返している。
「槍、下げるな! 列を崩すな!」
先頭の兵が一歩ずれるたび、後ろの列まで乱れる。
教官がすぐに駆け寄り、容赦なくやり直しを命じていた。
王国陸軍では、今も槍兵を密集させた戦列が歩兵の主力だ。
だが、歩兵に期待されているのは、敵を押しとどめ、その動きを縛ることにすぎない。
戦場で決定的な一撃を与えるのは、騎兵の役目だった。
イレーネは歩きながら、何列にも並んだ槍兵たちの訓練を横目に眺めた。
マクシムも、毎日あれを教えてるのかしら。
そのとき、練兵場のどこか遠くから乾いた銃声が聞こえた。
一発。少し間を置いて、また一発。
槍兵たちの号令や軍靴の音に比べれば、ひどくまばらだった。
兵士に槍を振らせながら、頭の中では銃のことばかり考えている。
後輩のふてくされた姿が思わず目に浮かんで、イレーネは少しだけ可笑しくなった。
さらに奥へと進んで行く。
やがて――
ドンッ!
腹の底に響くような砲声が、大気を震わせて鳴った。
少し間を置いて、また一発。
ドンッ!
イレーネは思わず足を止めた。
「……朝から景気がいいわね」
案内の兵士が苦笑する。
「砲兵科の射撃訓練です。今日は朝からずっとあんな調子で」
「でしょうね」
誰がやっているのか、もう分かった。
砲術訓練場に近づくにつれ、空気に火薬の匂いが混じり始める。
土を盛った射撃場の向こうには白い煙が薄く漂い、その手前で砲兵たちが慌ただしく砲を扱っていた。
その中心に、一人だけやけに楽しそうな女がいる。
「次、装薬を少し減らして! 仰角はさっきより二度上げる!」
手にした板へ何かを書き込みながら、兵士たちへ次々と指示を飛ばしている。
煤で頬を黒く汚していることにも、本人は全く気づいていない様子だった。
砲が撃たれる。
着弾を確認する。
また書く。
今度は砲の脇へ駆け寄り、砲身や砲架を覗き込む。
表向きは射撃訓練なのだろう。
だが、あれは半分以上、本人の研究になっている。
イレーネは呆れたように笑った。
「……本当に変わらないわね」
ティア・リュカオン。
王立学園で一つ下だった後輩だ。
案内役の兵士が訓練場の入口にいた別の兵へ話を通す。
ほどなく、その兵士がティアのもとへ駆けていった。
「ティア士官、面会です!」
「今忙しい!」
返事だけは即座だった。
砲撃からは一瞬たりとも意識を逸らしたくないのか、あからさまな不機嫌さが声に乗っている。
「親類の方だそうです!」
「親類?」
ようやくティアが顔を上げる。
板を小脇に抱えたまま、怪訝そうな顔でこちらへ歩いてきた。
「誰だろ……」
入口まで来て、地味なドレス姿の女を見る。
一度、素通りしかけた。
そして二歩ほど進んだところで止まる。
振り返る。
じっと見る。
帽子の下からのぞく特徴的な琥珀の瞳と、ティアの大きな瞳がぶつかる。
「……え?」
イレーネは何食わぬ顔で微笑んだ。
ティアの目が大きく見開かれる。
「イレーネ先輩!?」
「しーっ!」
イレーネは慌てて人差し指を唇へ当てた。
「今日はその名前、大きな声で呼ばないで」
「え、でも、なんで――」
「声」
「あっ」
ティアが両手で口を押さえる。
近くにいた兵士が何事かとこちらを見たが、すぐに自分の作業へ戻った。
ティアは声を落とし、改めてイレーネを上から下まで眺める。
「……何ですか、その格好」
「似合わない?」
「似合う似合わないより、先輩がそんな野暮ったい服着てることの方が怖いです。しかもスカート」
「失礼ね」
「だって、どこの下級貴族のお嬢さんかと思いましたよ」
「今日はそれで来たの」
「何しに?」
「あなたに会いに」
「私に?」
昨夜のソフィアとほとんど同じ反応をされ、イレーネは少し笑った。
そのとき、背後でまた砲声が響く。
ドンッ!
ティアが反射的に振り返った。
その視線は、一瞬でこちらの会話から弾着点の土煙へと飛んでいる。
「あ、今の着弾見ないと」
「……相変わらず大砲ばっかりね」
「仕事です」
「楽しそうだけど?」
「仕事です!」
「その顔で言っても説得力ないわよ」
ティアは答えず、わずかに頬を膨らませた。
煤のついた顔を膨らませる仕草は、学園時代から何一つ変わっていない。
昔からこうだった。
砲や兵器の話になると、周囲が見えなくなる。
「それで、マクシムは?」
「向こうの練兵場です。銃兵が少ないから、今日も新兵の槍兵訓練に駆り出されてますよ」
「元気?」
「相変わらずです。『歩兵は壁じゃない、もっと動かせ』って、いーっつも不機嫌ですよ。休み時間になると銃の話ばっかりしてますし」
「そっちも変わらないのね」
「全然」
ティアが肩をすくめる。イレーネにも、ふてくされたマクシムの顔が容易に想像できた。
その姿を思い浮かべたらしいティアまで口を押さえ、二人の間に笑いがこぼれた。
「装填完了!」
背後から飛んだ声に、ティアが再び振り返る。
砲兵たちはすでに次の射撃準備を終えかけていた。
こちらを気にしている兵士も何人かいる。
イレーネも笑みを収めた。
長話をする場所ではないし、これ以上ティアの邪魔もできない。
「ティア」
「はい?」
「今夜、時間ある?」
「今夜ですか?」
「ええ。マクシムも連れてきて」
ティアの表情に、わずかに訝しげな色が浮かぶ。
イレーネの声色から、ただの世間話ではないと気づいたようだ。
「二人に、少しじっくり話したいことがあるの」
「……分かりました」
要塞の門前には、兵士や士官を相手にした酒場や食堂、宿屋が集まった小さな町がある。
イレーネはその中の一軒を告げ、日が暮れた頃に来るよう伝えた。
「じゃあ、また今夜」
「はい。……先輩」
「何?」
ティアはもう一度、地味なドレス姿を眺めた。
「その格好で来るんですか?」
「悪い?」
「いえ。珍しいので、マクシムにも見せようかなって」
「余計なこと言わなくていいの」
イレーネは軽く言い返し、案内の兵士とともに訓練場を離れた。
背後では、ほどなくまたティアの声が響き始める。
「次! さっきと同じ装薬! 仰角だけ戻して!」
そして――
ドンッ!
夏の青空に、景気のいい砲声が響いた。
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