↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第3章 誰と共に去るか

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/93

第52話 うちに来ない?

「それにしても――」


「何?」


ソフィアは、なおも目の前の仕事を続けたまま、応える。

視線は脇の資料と手元の書類の間をせわしなく行き交い、手は休むことなくペンを動かしている。


イレーネは横を向いたまま、机の隅に置かれた大ぶりのマグカップを指先で軽くつついた。


「こんな時間まで働いてるのね」


「仕事が残ってるから」


「みんな、とっくに帰ってるじゃない」


「私はまだ終わってないもの」


「だから、それがおかしいのよ。しかも何よ、この馬鹿みたいに大きなカップ」


イレーネはカップを手に取ると、顔をしかめながら少し傾けて中を覗き込んだ。

中身はすっかり冷え切り、黒い液面には薄い油膜が張ってしまっている。


「あなた、コーヒーなんか飲んでるの? しかもブラックで」


「悪い?」


「悪くはないけど……最近、おじさま方の間で流行ってるとは聞いてるわ。でも普通はミルクを入れるものでしょう? それに、いつ淹れたのよ、これ。油まで浮いちゃってるじゃない」


「……覚えてないわ」


「覚えてないって、もう」


イレーネは呆れたようにカップを元の場所へ戻し、咎めるような視線をソフィアに向けた。


「ちゃんと家には帰ってる? 寝てる?」


「帰ってるし、寝てるわよ」


「じゃあ、何時に帰って、何時間寝てるの?」


ソフィアは答える代わりに、乾きかけたペン先をインク壺に浸した。

浸け過ぎたのか、ペン先をインク壺の縁に軽く打ち付ける固い金属の音が、小さな沈黙を埋める。


「……日によるわ」


「ソフィア」


「何よ」


イレーネは椅子ごと身体を寄せると、ソフィアの逃げ道を塞ぐようにじっと顔を覗き込んだ。

寝不足のせいか、眼鏡越しにも、目の下にうっすらと隈ができているのが分かる。

しばらく無言で耐えていたソフィアだったが、とうとう堪えきれなくなったように小さく噴き出した。


「もう……お母さんみたい」


イレーネの顔がぱっと明るくなる。


「やっと笑った」


「…………ほんと、そういうところよ。子供じゃないんだから」


ソフィアはとうとう観念したように顔を上げ、心配そうに見つめる傍らの友人へ向いた。


「ずっと怖い顔してたから」


「仕事中なのよ」


「昔からそれ言うわね」


「あなたも昔から、余計なところばかり見てるわ」


言い方こそいつもの容赦のないソフィアだったが、その声からは先ほどまでの張り詰めた硬さがすっかり抜けていた。


イレーネが声を立てて嬉しそうに笑う。

つられるようにソフィアも口元の笑みを深くし、懐かしそうに互いの顔を見つめあった。


魔晶灯の光を受け、机の上のインク壺が鈍く光っていた。


ソフィアは口元に笑みを残したまま、机の上へ視線を戻した。

途絶えていたペンが、再び紙の上を滑らかに走り始める。

さらさらと紙を擦るペンの音が響き、やがて一枚を書き終えると、紙をめくる音がそこに重なる。

またペンが走り、次の一枚へと移る。


ペンと紙の音のみが、静かな執務室で何度か繰り返される中、イレーネは何も言わず、斜め横からその美しい横顔をただ眺めていたが、やがて静かに椅子から立ち上がった。

衣擦れの音が、静まり返った部屋に小さく響く。


隣で人が動く気配を感じたものの、ソフィアは特に気にも留めず、そのまま仕事を続ける。


するとイレーネはその場で膝を折って身を屈め、座ったままのソフィアを横からそっと包み込むように抱きしめた。


不意の温もりにソフィアのペン先が跳ね、言葉が詰まる。


「ちょっと、イレーネ?」


「少しくらいいいでしょ」


「突然すぎるのよ、あなたはいつも」


文句を言いながらも、ソフィアはその腕を振りほどこうとはしなかった。

イレーネもすぐには離れない。


二人とも互いの温もりを確かめるように、しばらくそのまま身を委ねていた。


「……私、ずっと心配してたの」


耳元で囁くように聞こえた声に、ソフィアの表情から困惑が消える。


「お母様が亡くなってから、何でも自分で抱えるようになったでしょう?」


「……そう?」


「そうよ。家のことも、お金のことも。今はお父様の仕事まで手伝ってる」


「秘書なんだから当然でしょう」


「それでもよ」


ソフィアを抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。


「婚約してからは、前みたいにいつでも会えるわけじゃなくなったし……卒業してからは、もっと会えなくなったでしょう?」


「……そうね」


「だから、気になってはいたの。たまに会っても、あなたは何も言わないし。私も、自分のことでいっぱいいっぱいだったから」


後悔をにじませるように、イレーネの声が沈む。


「もっと会いに来ればよかったって、今になって思うの。デルフィ家のことだから、私が勝手に口を出していいことじゃないって思ってたし。あなたが何も言わないなら、私が踏み込むのも違うって」


少しの沈黙が落ちる。先ほどまで部屋に響いていたペンの音も、今はない。

静かな執務室には、二人の呼吸だけがかすかに聞こえていた。


「それでも、何かできたんじゃないかって……」


イレーネの声が、わずかに小さくなる。

まるで自分自身に言い聞かせるかのように。


「何もできなくて、ごめんね」


「……何で、あなたが謝るの?」


「だって」


「イレーネが悪いことじゃないでしょう」


ソフィアはしばらく黙ったあと、静かに続けた。

その視線は、どこか遠い過去を追うようだった。


「それに、何もしてくれなかったわけじゃないわ」


イレーネが少しだけ身体を離し、ソフィアの顔を正面から覗き込む。

鼻先が触れそうなほどの距離だ。


「そうなの?」


「そうよ」


「何かした?」


「……覚えてないなら、別にいいけど」


「気になるじゃない」


「言わない」


「なんでよ」


「言ったら、あなた絶対調子に乗るもの」


「そんなことないわよ」


眼前のソフィアが、じっと見返してくる。

その瞳には、隠しきれない親愛が滲んでいた。


「あるわ」


「ないわよ」


「ある」


「ないってば」


二人は互いに見つめあったのち、とうとう堪えきれずに大きく破顔した。

弾けた笑い声が、二人を包んでいた重い空気をきれいに吹き飛ばしていく。


しばらくして、イレーネはゆっくりと身体を離した。

けれど、そのまま両手をソフィアの細い肩に置き、問答無用で自分の方へ向き直らせる。

そして、真剣なまなざしで、ソフィアの薄い茶色の瞳をまっすぐに捉える。


「ねえ、ソフィア」


「何?」


「ソフィアもうちに来ない?」


ソフィアが何度か瞬きをした。

予想もしなかった言葉に、理解が一瞬遅れる。


「……私が?」


「うん」


「アルカディアに?」


「そう」


あまりにもあっさりと肯定され、ようやく現実的な疑問が浮かんできた。


「……急ね」


「そう?」


「そうよ」


「ずっと考えてたわよ」


「あなたの中でだけでしょう?」


「それはそうだけど」


イレーネは悪びれもせず答えると、ようやく肩から手を離し、椅子へどさりと腰を戻した。


ソフィアはまだ、突然持ち出された話を完全には飲み込みきれていない。

戸惑いを押し隠すように、頭の中で今の話を素早く組み立て直す。


「アルカディアで、私に何をしろっていうの?」


「やってほしいことなら、いくらでもあるわ」


「いくらでも?」


「ええ。あなたの腕は、私がよく知ってるもの」


イレーネは机の上に並んだ何枚もの政策案を指した。


「こういうこともそう。これから人も増える。港も大きくなるし、商会も工房も増える。役所だって、今のままじゃ足りなくなるわ」


そこで、イレーネはふと思い出したように続けた。


「コンラッド兄さんのこと、覚えてる?」


「なんとなくは……」


「向こうのことはほとんど兄さんが仕切っているの。あなたみたいな優秀な文官なら、喉から手が出るほど欲しいに違いないわ」


「今よりもさらに忙しくはなりそうね」


「んー……、どれくらい忙しくなるか私にも分からないけど」


「そこは分からないのね」


「だって、これから大きくするところだもの」


あっけらかんと言われ、ソフィアは呆れたように深く息を漏らした。


「でも、これだけは約束できるわ」


「何?」


イレーネは、先ほど見つけた起案者欄を指先で示した。


「あなたがやった仕事は、ちゃんとあなたの仕事になる。あなたが考えた政策なら、あなたの名前で出せばいい。上手くいったなら、それはあなたの実績よ」


イレーネの声には、何の迷いもなかった。


「こんなふうに、ソフィアの努力を誰か別の人の名前にする必要なんてないわ」


ソフィアは何も言えなかった。

それが当然のことだと、目の前の友人が本気で思っていることが、その声音からも十分に伝わってくる。

そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


「でもね」


イレーネから真剣さがふっと消え、声の調子が少しだけ軽くなった。


「仕事のことなんて、あとまわしでいいのよ」


「……どういうこと?」


「だから、仕事のことなんてアルカディアに来てから考えればいいのよ。少しくらい何もしなくたっていいでしょ。そのぶん働いてきたんだから」


ソフィアが怪訝そうな顔をする。


「あなた、今、優秀な文官が欲しいって言ってなかった?」


「欲しいわよ」


「じゃあ――」


「でも、それとこれは別」


イレーネはきっぱりと言った。

つい先ほどまでのどこか冗談めいた調子は、もうなかった。


「私、あなたがこのままずっとここで苦しんでるのが嫌なの」


親友との会話で穏やかになっていたソフィアの表情が、わずかに引き締まる。


「自分が考えたことに自分の名前も出せなくて、お父様の仕事まで抱えて、こんな時間まで働いて」


冷えきったカップが、机の隅に置かれたままになっている。

イレーネはそれをちらりと見てから、続けた。


「それを全部、仕方ないことみたいにして、自分を無理やり納得させてるでしょう?」


「……」


「もう、ここで我慢し続けなくてもいいんじゃない?」


責めるような声ではなかった。

ただ、ずっと言いたかったことを、ようやく口にしたような響きだった。


「アルカディアに来たって、全部楽になるとは言えないわ。仕事だって、たぶん山ほどあるし」


「そこはたっぷりあるのね」


「間違いなく……」


イレーネは気まずそうに苦笑した。

けれど、すぐに真摯で、少し切実な色を帯びた眼差しがソフィアを捉える。


「でも、仕事はあとでいい。まず来ればいいの」


「……」


「少し休んでもいいし、何をするかはそれから決めればいいわ」


そこで、ほんの少し間を置いた。


「それに――、私が、一緒に来てほしいの」


今度の言葉には、仕事も、役職も、能力も関係なかった。

ただの友人としての、イレーネの我儘だった。


「ただでさえ、前みたいには会えなくなっていたでしょう? 王都を離れたら、もっと難しくなるわ」


「……そうね」


「もしかしたら、この先、会いたくても会えなくなるかもしれない」


口にしてみると、それが急に現実のことになったのか、イレーネは少し困ったように笑った。


「それは、嫌だなって思ったの」


ソフィアは黙って聞いていた。


「だから、一緒に来てくれたら嬉しい」


飾り気のない言葉だった。

机の上には、王都の混乱を抑えるために自分で考えた政策案が並んでいる。

その脇には、まだ処理を待つ帳簿と書類の山。


家のこと。

父のこと。

王城での仕事。


これまで、それらは考えるまでもなく、自分が背負うものであり、逃れられない運命だと思っていた。

けれど、イレーネの真っ直ぐな言葉が、その頑なな前提を静かに揺るがしていく。

ままならぬ二年間で凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくようだった。


「……そんな簡単に決められることじゃないわ」


「分かってる」


「家のこともあるし、仕事もある」


「うん」


「父のことだって」


「うん」


イレーネは、それ以上何も言わなかった。

説得するでもなく、答えを急かすでもなく、ただソフィアが言葉を紡ぐのを待っている。


しばらくして、ソフィアの方から口を開いた。


「いつまで?」


「王都を出るのは、二週間くらい先になると思う」


「二週間……」


「今すぐ決めなくていいわ。それまでに考えて」


長い間があった。

やがてソフィアは、わずかに震える指先を隠すかのように、眼鏡の位置を軽く直した。


「……分かった」


一拍置いて、続ける。


「考える」


「うん」


それだけで十分だったらしい。

イレーネは暗雲が晴れたかのように嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今日は帰るわ」


椅子から立ち上がり、軽やかな足取りで扉へ向かう。


「わざわざ、それを言うために来たの?」


背中から飛んできた声に、イレーネが振り返る。


「それだけじゃないわよ」


「じゃあ何?」


「あなたがちゃんと生きてるか確認しに来たの」


冗談めかしたイレーネの言葉に、ソフィアの口元でまた小さな笑みが浮かんだ。


「生きてるわよ」


「ならよかった」


「もう……」


「おやすみ、ソフィア」


「おやすみ、イレーネ」


扉が閉じる。

廊下を遠ざかる靴音も、やがて聞こえなくなった。

一人になった執務室には、元の静けさが戻ってくる。

机の上にあるものは、何一つ変わっていない。


開いた帳簿。

インク壺。

積み上がった書類。

そして、自分の名前のない政策案。


それでもソフィアは、すぐにペンを取ろうとはしなかった。

今までなら、考えることすらなかった。

ここではない場所で生きることなど。

けれど今は、その選択肢がはっきりと存在している。


――アルカディア


その響きを心の中で繰り返しながら、ソフィアは冷めきったコーヒーを一口すすった。

苦さよりも何よりも、これまで気にも留めなかった冷たさが、今は妙に気になった。

お読みいただきありがとうございます。

気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。