第52話 うちに来ない?
「それにしても――」
「何?」
ソフィアは、なおも目の前の仕事を続けたまま、応える。
視線は脇の資料と手元の書類の間をせわしなく行き交い、手は休むことなくペンを動かしている。
イレーネは横を向いたまま、机の隅に置かれた大ぶりのマグカップを指先で軽くつついた。
「こんな時間まで働いてるのね」
「仕事が残ってるから」
「みんな、とっくに帰ってるじゃない」
「私はまだ終わってないもの」
「だから、それがおかしいのよ。しかも何よ、この馬鹿みたいに大きなカップ」
イレーネはカップを手に取ると、顔をしかめながら少し傾けて中を覗き込んだ。
中身はすっかり冷え切り、黒い液面には薄い油膜が張ってしまっている。
「あなた、コーヒーなんか飲んでるの? しかもブラックで」
「悪い?」
「悪くはないけど……最近、おじさま方の間で流行ってるとは聞いてるわ。でも普通はミルクを入れるものでしょう? それに、いつ淹れたのよ、これ。油まで浮いちゃってるじゃない」
「……覚えてないわ」
「覚えてないって、もう」
イレーネは呆れたようにカップを元の場所へ戻し、咎めるような視線をソフィアに向けた。
「ちゃんと家には帰ってる? 寝てる?」
「帰ってるし、寝てるわよ」
「じゃあ、何時に帰って、何時間寝てるの?」
ソフィアは答える代わりに、乾きかけたペン先をインク壺に浸した。
浸け過ぎたのか、ペン先をインク壺の縁に軽く打ち付ける固い金属の音が、小さな沈黙を埋める。
「……日によるわ」
「ソフィア」
「何よ」
イレーネは椅子ごと身体を寄せると、ソフィアの逃げ道を塞ぐようにじっと顔を覗き込んだ。
寝不足のせいか、眼鏡越しにも、目の下にうっすらと隈ができているのが分かる。
しばらく無言で耐えていたソフィアだったが、とうとう堪えきれなくなったように小さく噴き出した。
「もう……お母さんみたい」
イレーネの顔がぱっと明るくなる。
「やっと笑った」
「…………ほんと、そういうところよ。子供じゃないんだから」
ソフィアはとうとう観念したように顔を上げ、心配そうに見つめる傍らの友人へ向いた。
「ずっと怖い顔してたから」
「仕事中なのよ」
「昔からそれ言うわね」
「あなたも昔から、余計なところばかり見てるわ」
言い方こそいつもの容赦のないソフィアだったが、その声からは先ほどまでの張り詰めた硬さがすっかり抜けていた。
イレーネが声を立てて嬉しそうに笑う。
つられるようにソフィアも口元の笑みを深くし、懐かしそうに互いの顔を見つめあった。
魔晶灯の光を受け、机の上のインク壺が鈍く光っていた。
ソフィアは口元に笑みを残したまま、机の上へ視線を戻した。
途絶えていたペンが、再び紙の上を滑らかに走り始める。
さらさらと紙を擦るペンの音が響き、やがて一枚を書き終えると、紙をめくる音がそこに重なる。
またペンが走り、次の一枚へと移る。
ペンと紙の音のみが、静かな執務室で何度か繰り返される中、イレーネは何も言わず、斜め横からその美しい横顔をただ眺めていたが、やがて静かに椅子から立ち上がった。
衣擦れの音が、静まり返った部屋に小さく響く。
隣で人が動く気配を感じたものの、ソフィアは特に気にも留めず、そのまま仕事を続ける。
するとイレーネはその場で膝を折って身を屈め、座ったままのソフィアを横からそっと包み込むように抱きしめた。
不意の温もりにソフィアのペン先が跳ね、言葉が詰まる。
「ちょっと、イレーネ?」
「少しくらいいいでしょ」
「突然すぎるのよ、あなたはいつも」
文句を言いながらも、ソフィアはその腕を振りほどこうとはしなかった。
イレーネもすぐには離れない。
二人とも互いの温もりを確かめるように、しばらくそのまま身を委ねていた。
「……私、ずっと心配してたの」
耳元で囁くように聞こえた声に、ソフィアの表情から困惑が消える。
「お母様が亡くなってから、何でも自分で抱えるようになったでしょう?」
「……そう?」
「そうよ。家のことも、お金のことも。今はお父様の仕事まで手伝ってる」
「秘書なんだから当然でしょう」
「それでもよ」
ソフィアを抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。
「婚約してからは、前みたいにいつでも会えるわけじゃなくなったし……卒業してからは、もっと会えなくなったでしょう?」
「……そうね」
「だから、気になってはいたの。たまに会っても、あなたは何も言わないし。私も、自分のことでいっぱいいっぱいだったから」
後悔をにじませるように、イレーネの声が沈む。
「もっと会いに来ればよかったって、今になって思うの。デルフィ家のことだから、私が勝手に口を出していいことじゃないって思ってたし。あなたが何も言わないなら、私が踏み込むのも違うって」
少しの沈黙が落ちる。先ほどまで部屋に響いていたペンの音も、今はない。
静かな執務室には、二人の呼吸だけがかすかに聞こえていた。
「それでも、何かできたんじゃないかって……」
イレーネの声が、わずかに小さくなる。
まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
「何もできなくて、ごめんね」
「……何で、あなたが謝るの?」
「だって」
「イレーネが悪いことじゃないでしょう」
ソフィアはしばらく黙ったあと、静かに続けた。
その視線は、どこか遠い過去を追うようだった。
「それに、何もしてくれなかったわけじゃないわ」
イレーネが少しだけ身体を離し、ソフィアの顔を正面から覗き込む。
鼻先が触れそうなほどの距離だ。
「そうなの?」
「そうよ」
「何かした?」
「……覚えてないなら、別にいいけど」
「気になるじゃない」
「言わない」
「なんでよ」
「言ったら、あなた絶対調子に乗るもの」
「そんなことないわよ」
眼前のソフィアが、じっと見返してくる。
その瞳には、隠しきれない親愛が滲んでいた。
「あるわ」
「ないわよ」
「ある」
「ないってば」
二人は互いに見つめあったのち、とうとう堪えきれずに大きく破顔した。
弾けた笑い声が、二人を包んでいた重い空気をきれいに吹き飛ばしていく。
しばらくして、イレーネはゆっくりと身体を離した。
けれど、そのまま両手をソフィアの細い肩に置き、問答無用で自分の方へ向き直らせる。
そして、真剣なまなざしで、ソフィアの薄い茶色の瞳をまっすぐに捉える。
「ねえ、ソフィア」
「何?」
「ソフィアもうちに来ない?」
ソフィアが何度か瞬きをした。
予想もしなかった言葉に、理解が一瞬遅れる。
「……私が?」
「うん」
「アルカディアに?」
「そう」
あまりにもあっさりと肯定され、ようやく現実的な疑問が浮かんできた。
「……急ね」
「そう?」
「そうよ」
「ずっと考えてたわよ」
「あなたの中でだけでしょう?」
「それはそうだけど」
イレーネは悪びれもせず答えると、ようやく肩から手を離し、椅子へどさりと腰を戻した。
ソフィアはまだ、突然持ち出された話を完全には飲み込みきれていない。
戸惑いを押し隠すように、頭の中で今の話を素早く組み立て直す。
「アルカディアで、私に何をしろっていうの?」
「やってほしいことなら、いくらでもあるわ」
「いくらでも?」
「ええ。あなたの腕は、私がよく知ってるもの」
イレーネは机の上に並んだ何枚もの政策案を指した。
「こういうこともそう。これから人も増える。港も大きくなるし、商会も工房も増える。役所だって、今のままじゃ足りなくなるわ」
そこで、イレーネはふと思い出したように続けた。
「コンラッド兄さんのこと、覚えてる?」
「なんとなくは……」
「向こうのことはほとんど兄さんが仕切っているの。あなたみたいな優秀な文官なら、喉から手が出るほど欲しいに違いないわ」
「今よりもさらに忙しくはなりそうね」
「んー……、どれくらい忙しくなるか私にも分からないけど」
「そこは分からないのね」
「だって、これから大きくするところだもの」
あっけらかんと言われ、ソフィアは呆れたように深く息を漏らした。
「でも、これだけは約束できるわ」
「何?」
イレーネは、先ほど見つけた起案者欄を指先で示した。
「あなたがやった仕事は、ちゃんとあなたの仕事になる。あなたが考えた政策なら、あなたの名前で出せばいい。上手くいったなら、それはあなたの実績よ」
イレーネの声には、何の迷いもなかった。
「こんなふうに、ソフィアの努力を誰か別の人の名前にする必要なんてないわ」
ソフィアは何も言えなかった。
それが当然のことだと、目の前の友人が本気で思っていることが、その声音からも十分に伝わってくる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「でもね」
イレーネから真剣さがふっと消え、声の調子が少しだけ軽くなった。
「仕事のことなんて、あとまわしでいいのよ」
「……どういうこと?」
「だから、仕事のことなんてアルカディアに来てから考えればいいのよ。少しくらい何もしなくたっていいでしょ。そのぶん働いてきたんだから」
ソフィアが怪訝そうな顔をする。
「あなた、今、優秀な文官が欲しいって言ってなかった?」
「欲しいわよ」
「じゃあ――」
「でも、それとこれは別」
イレーネはきっぱりと言った。
つい先ほどまでのどこか冗談めいた調子は、もうなかった。
「私、あなたがこのままずっとここで苦しんでるのが嫌なの」
親友との会話で穏やかになっていたソフィアの表情が、わずかに引き締まる。
「自分が考えたことに自分の名前も出せなくて、お父様の仕事まで抱えて、こんな時間まで働いて」
冷えきったカップが、机の隅に置かれたままになっている。
イレーネはそれをちらりと見てから、続けた。
「それを全部、仕方ないことみたいにして、自分を無理やり納得させてるでしょう?」
「……」
「もう、ここで我慢し続けなくてもいいんじゃない?」
責めるような声ではなかった。
ただ、ずっと言いたかったことを、ようやく口にしたような響きだった。
「アルカディアに来たって、全部楽になるとは言えないわ。仕事だって、たぶん山ほどあるし」
「そこはたっぷりあるのね」
「間違いなく……」
イレーネは気まずそうに苦笑した。
けれど、すぐに真摯で、少し切実な色を帯びた眼差しがソフィアを捉える。
「でも、仕事はあとでいい。まず来ればいいの」
「……」
「少し休んでもいいし、何をするかはそれから決めればいいわ」
そこで、ほんの少し間を置いた。
「それに――、私が、一緒に来てほしいの」
今度の言葉には、仕事も、役職も、能力も関係なかった。
ただの友人としての、イレーネの我儘だった。
「ただでさえ、前みたいには会えなくなっていたでしょう? 王都を離れたら、もっと難しくなるわ」
「……そうね」
「もしかしたら、この先、会いたくても会えなくなるかもしれない」
口にしてみると、それが急に現実のことになったのか、イレーネは少し困ったように笑った。
「それは、嫌だなって思ったの」
ソフィアは黙って聞いていた。
「だから、一緒に来てくれたら嬉しい」
飾り気のない言葉だった。
机の上には、王都の混乱を抑えるために自分で考えた政策案が並んでいる。
その脇には、まだ処理を待つ帳簿と書類の山。
家のこと。
父のこと。
王城での仕事。
これまで、それらは考えるまでもなく、自分が背負うものであり、逃れられない運命だと思っていた。
けれど、イレーネの真っ直ぐな言葉が、その頑なな前提を静かに揺るがしていく。
ままならぬ二年間で凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくようだった。
「……そんな簡単に決められることじゃないわ」
「分かってる」
「家のこともあるし、仕事もある」
「うん」
「父のことだって」
「うん」
イレーネは、それ以上何も言わなかった。
説得するでもなく、答えを急かすでもなく、ただソフィアが言葉を紡ぐのを待っている。
しばらくして、ソフィアの方から口を開いた。
「いつまで?」
「王都を出るのは、二週間くらい先になると思う」
「二週間……」
「今すぐ決めなくていいわ。それまでに考えて」
長い間があった。
やがてソフィアは、わずかに震える指先を隠すかのように、眼鏡の位置を軽く直した。
「……分かった」
一拍置いて、続ける。
「考える」
「うん」
それだけで十分だったらしい。
イレーネは暗雲が晴れたかのように嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日は帰るわ」
椅子から立ち上がり、軽やかな足取りで扉へ向かう。
「わざわざ、それを言うために来たの?」
背中から飛んできた声に、イレーネが振り返る。
「それだけじゃないわよ」
「じゃあ何?」
「あなたがちゃんと生きてるか確認しに来たの」
冗談めかしたイレーネの言葉に、ソフィアの口元でまた小さな笑みが浮かんだ。
「生きてるわよ」
「ならよかった」
「もう……」
「おやすみ、ソフィア」
「おやすみ、イレーネ」
扉が閉じる。
廊下を遠ざかる靴音も、やがて聞こえなくなった。
一人になった執務室には、元の静けさが戻ってくる。
机の上にあるものは、何一つ変わっていない。
開いた帳簿。
インク壺。
積み上がった書類。
そして、自分の名前のない政策案。
それでもソフィアは、すぐにペンを取ろうとはしなかった。
今までなら、考えることすらなかった。
ここではない場所で生きることなど。
けれど今は、その選択肢がはっきりと存在している。
――アルカディア
その響きを心の中で繰り返しながら、ソフィアは冷めきったコーヒーを一口すすった。
苦さよりも何よりも、これまで気にも留めなかった冷たさが、今は妙に気になった。
お読みいただきありがとうございます。
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