第51話 あなたの名前がない
夜の王都を、一台の馬車が走っていた。
昼間の喧騒はすでに遠い。
大通りの店はほとんどが戸を閉ざしていたが、酒場や食堂には灯りが残り、開いた扉の向こうから笑い声が漏れていた。
石畳を蹴る馬蹄の音を聞きながら、イレーネは流れていく王都の街並みをぼんやりと目で追っていた。
やがて馬車が速度を落とし、王城玄関の馬車寄せで止まる。
婚約を破棄され、第二練習艦隊司令の職も解かれた。
それでも王城への出入りまで禁じられたわけではない。
御者が扉を開く。
イレーネが降りると、昼間とは違うひんやりとした風が頬を撫でた。
そういえば、夜に王城へ来るのはこれが初めてかもしれない。
見上げると、闇の中に浮かぶ王城を、何本もの白い光の筋が照らしていた。
大型の魔晶灯に反射鏡を組み合わせ、遠くまで光を飛ばす探照灯だ。もとは艦船用に作られたものだが、まだ一般に普及するほど安価ではない。
「……贅沢なものね」
イレーネはひとこと呟くと、王城の玄関へ向かった。
玄関をくぐるとき、いくつかの視線を感じた。
同情するような目。
知らぬふりをする者。
中には、面白そうにこちらを見る者もいる。
王城を守る兵士たちの視線は様々だったが、イレーネは気にせず歩みを進めた。
昼間なら多くの官吏が行き交う廊下も、今は薄暗く、静かだった。
魔晶灯の淡い光の下、イレーネの靴音だけが響く。
財務部門のある一角まで来ると、灯りの残る部屋はほとんどない。
その中に、一つだけ扉の下の隙間から灯りが伸びていた。
「……やっぱりいた」
イレーネは扉をリズム良く四度叩く。
そして、返事を待たず、そのまま扉を開けた。
広い執務室の中で、一人だけ机に向かっている。
ソフィアだった。
「……イレーネ?」
顔を上げたソフィアの表情は、いつものようにほとんど動かない。
ただ、その瞳にははっきりと驚きが浮かんでいた。
「こんばんは」
「……こんばんは。どうしたの、こんな時間に」
「あなたに会いに来たの」
「私に?」
「そう」
イレーネは満面の笑みを浮かべて応えた。
ソフィアがしばらくイレーネを見たあと、眉をひそめ、小さくため息をつく。
それでもその表情からは、仕事中いつも纏っている張りつめた硬さが幾分か薄れている。
「相変わらずね、あなたは」
「何が?」
「行動が突拍子もないところよ」
「ちゃんと扉は叩いたわよ」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ」
「まあ、いいじゃない」
イレーネは近くの机から椅子を一脚引き寄せた。
木の脚が床を擦る。
「……もう少し静かにできないの?」
「できるけど?」
「じゃあ、して」
「次からね」
「次もあるのね……」
ソフィアは、これ以上は付き合ってられないとばかりに、見ていた書類へ再び目を落とす。
しかしその口元はかすかにほころんでいた。
一方イレーネは、ソフィアの斜め横に椅子を置いて腰を下ろすと、机の上にうずたかく積み上がった書類を見て、あきれたように片眉を上げた。
「……これ、全部今日の分?」
「全部じゃないわ。終わったものもあるもの」
「そういう意味じゃないんだけど」
イレーネは何気なく書類の表題を追った。
そのうち一枚で目が止まる。
「港湾労働者の……賃金上昇分に対する臨時補正予算案?」
「ええ」
ソフィアは顔を上げることなく、手元の作業を続けながら答える。
「人が抜けるのを止めるため?」
「少しでもね。それと、新しく雇う人を集めやすくするため」
その隣にも似た書類がある。
「民間船舶の臨時雇い上げ措置……こっちは船が減ったときの穴埋めね」
「そうよ」
さらに一枚。
イレーネは少し身を乗り出した。
「なになに……造船関連産業振興のための時限的減税案?」
少し読み進める。
新規参入する造船所や修理工房に対する設備投資支援についても書かれていた。
「へえ」
「何?」
「さすがソフィア。分かってるじゃない」
ソフィアはここに来てようやく顔を上げ、隣のイレーネを見た。
眉尻が、困惑したようにわずかに下がる。
「何が?」
「うちが王都から引き払ったら、何が足りなくなるか。ちゃんと見えてるわね」
「見えてるから困ってるのよ」
「でしょうね」
イレーネは悪びれずに笑った。
「でもいいと思う。今あるところを支えるだけじゃなくて、新しく入ってくる人にもお金を使うのね」
「減った分は、どこかで増やさないと戻らないでしょう」
「そうなのよ」
イレーネは満足そうに頷いた。軽く腕を組んだ姿はどこか誇らしげでもある。
出会った頃から変わらぬ友人の姿を前に、ソフィアの胸が少しだけ温かくなる。
「あなたたちが思ってる以上に、引き揚げの影響は大きいのよ。船が足りないから船を買います、だけじゃ駄目だもの。造る人も、直す人も増やさないと」
「分かってるわ。再構築にはお金も時間もかかることも」
「そう。だからこそ、長く効く方法を考えているの」
「あなたのお父様だったら、『税収が減る』って真っ先に却下しそうだけど」
フィリッポスの真似でもしているのだろう、イレーネは茶化すように顔をしかめてみせた。
「……否定はしないわ」
「でしょう?」
「嬉しそうにしないで」
イレーネは笑いながら、別の書類を指した。
「これ、もうお父様には見せたの?」
「まだよ」
「まだ?」
「数字を詰めてる途中。正式な政策案にしてないわ」
イレーネはその書類を手に取った。
「これで?」
必要額の試算。
財源の候補。
実施期間。
税収への影響まで細かく書き込まれている。
「十分でしょう」
「私の中ではまだ途中よ」
「相変わらず厳しいわね」
「仕事だから」
ソフィアの声音には、わずかばかりの諦めが混じっていた。
そのとき、イレーネは手にした書類の上端に記された起案者の名前に気づいた。
そこに記されているのは、イレーネの知らない財務局員の名だった。
慌てて、他の書類も確かめたが、どれ一つとしてソフィアの名前はない。
「……ちょっと」
「何?」
「なんで、これあなたの名前じゃないの? これも、これも。こっちだって」
ソフィアは再び手元の書類へ目を落とした。
「私が出す書類じゃないもの」
「でも、考えたのは全部あなたでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ、なんで?」
「私の名前で出したら、父に叱られるわ」
イレーネの顔から笑みが消えた。
「何よそれ……」
「前に言われたのよ。余計なことをするなって」
「余計なことって……」
イレーネは手にした書類を机に置いた。
イレーネの語気が思わず荒くなる。
「これらのどこが余計なのよ」
「イレーネ?」
「だって、そうでしょう?」
イレーネは机の上の書類を指した。
「うちが引き払ったあと、何が足りなくなって、どこにお金を使えばいいのか。考えたのはあなたでしょう?」
「……まだ、案の段階よ」
「そういうことを、聞いてるんじゃないわ」
ソフィアは、すぐには答えられなかった。
イレーネは、起案者欄に記された名前を指先で軽く叩いた。
「……少なくとも、私は知ってるわ」
「何を?」
「これを考えたのが、あなたなんだってこと」
ソフィアの手が止まった。
「人が減ることも、船が減ることも、そのあと何をすればいいかも。ちゃんと考えて、ここまで形にしたのはあなたでしょう?」
イレーネは真剣な面持ちで、まっすぐソフィアを見つめた。
その言葉が親友の心に届くよう、一つひとつ言葉を選ぶ。
「あなたは素晴らしい人よ、ソフィア。誰にでもできることじゃないわ。あなたにしかできないことを、あなたはちゃんとやってる。私は、そんなあなたを心から尊敬してる」
一瞬、ソフィアは何も言えなかった。
胸の奥が、不意に熱くなる。
慌てて視線を落とし、机の上の書類を揃えようとする。
けれど、いつもならぴたりと揃う紙の端が、わずかにずれた。
「……別に」
声も、ほんの少しだけ掠れていた。
「別にじゃないわよ。あなたが思ってるより、ずっとすごいことなのよ」
「……何よ、急に」
「ちゃんと褒めてるの」
「……気持ち悪いわね」
ソフィアは少し俯いたまま、小さく息を吐く。
それでも、口元は少し緩んでいた。
「失礼ね」
イレーネは口をとがらして、上半身ごとぷいと横を向いた。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。




